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遊びと人生を変えるもの /2022年の読書を振り返る

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/12/19 第636号

はじめに

なんと、このメルマガが「まぐまぐ大賞2022」のキャリアップ部門の第3位に入賞しました。

◇まぐまぐ大賞2022 | まぐまぐ!

投票してくださった皆様、ありがとうございます。

ちなみに、2021年のまぐまぐ大賞でも同じくキャリアップ部門の第3位に位置しておりました。

◇まぐまぐ大賞2021 | メルマガの日本一はあなたが決める!

こういう風に二つの表があると見比べたくなってくるのが人の常です(ですよね)。で、キャリアップ部門を眺めてみると、

・最後の調停官 島田久仁彦の『無敵の交渉・コミュニケーション術』
・サラリーマンで年収1000万円を目指せ。
・【退屈な人生からの脱出法】鴨頭嘉人が教える「成長を続ける大人の情報源!チームカモガシラジャパン」

が共にランクインしており、その他は顔ぶれが違っています。このメルマガも含めると8つ中半分が残り、残り半分が入れ替わった結果なわけですが、これはどう受けとればいいのでしょうか。

たとえば、YouTubeだったら一年経つと半分どころか10分の9くらいは顔ぶれが変わっていそうな気がします。逆に書籍なら売れっ子作家の顔ぶれは一年程度ではほとんど変わらないでしょう。

そう考えるとこの「メルマガ」という媒体は、それらのちょうど中間くらいに位置していると考えられるのかもしれません。実際、自分で書いたり読んだりしていても、そのくらいの速度感、あるいはメディア感を感じます。

なんにせよ応援していただけるのはこうしたメディアを続けていく上でとても励みになります。これからも頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。

〜〜〜月曜の減速〜〜〜

以下の感想ツイートを頂きました。

ありがとうございます。「月曜の減速」。よいフレーズですね。『減速思考』という本を書いたら売れるんじゃないかなと思いましたが、検索したらすでに発売されていました(『減速思考 デジタル時代を賢く生き抜く知恵』)。

で、関連して「クラッチ」について調べてみました。

◇クラッチって何ですか?|株式会社エフ・シー・シー クラッチ基礎講座

片方にエンジンがあり、それは動力を生み出しています。もう片方には車輪がありそれが動力を受けて回転します。車はその動力によって進むわけです。これは非常に簡単な構図で、それだけであればクラッチは必要ないでしょう。

現代の自動車には車輪の前に変速機(トランスミッション/ギアボックス)がついていて、それがクラッチという装置を要請するようです。

エンジン・変速機・車輪がすべてつながった状態でギアを変えると大きな衝撃が発生してしまうので、ギアを変える間はその接続を切断する。それがいわゆる「クラッチを切る」という状態です。

クラッチは動力伝達装置のことですが、「伝達」を担う装置だからこそ、それを「切断」できるというのは逆説的なようでいて本質的な話でしょう。

で、話を戻すと「トランスミッション」です。これまで1秒も考えたことはなかったのですが、これは trans-mission です。transは「横切って」とか「別の状態へ」であり、missionは「使命」や「任務」です。

でもってその中身は「ギアボックス」です。複数のギアの組み合わせ。なかなか示唆的ではありませんか。ここに奥出直人さんの『思考のエンジン』という書名を加えるとさらに連想が膨らんでいきそうです。

動力源があり、動力伝達装置があり、変速機があり、車輪があり、それぞれが異なる役割を持って、一つの目的に従事している。

そのような構図で「考えること」あるは「生きること」を捉えてみると、また違ったまざなしが生まれてくるかもしれません。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてください。

Q.自分にとってのアクセルは何ですか。あるいはブレーキは。

ではメルマガ本編をスタートしましょう。今回はアイデアを育てることについてと、今年の倉下の読書の振り返りをお送りします。

遊びと人生を変えるもの

前回はアイデアに対してよく使われる「育てる」という動詞と、そこにあるイメージを確認しました。

では、なぜアイデアを「育てる」必要があるのでしょうか。

理屈っぽく説明すれば、アイデアが未完成・未成熟なものだからでしょう。未完成・未成熟なものはそのままでは使えないので、育てる必要がある。理屈としては通っています。

しなしながら、これは半分しか答えになっていません。なぜアイデアを育てる義務が生じるのかについては空白なのです。言い換えれば、未完成なものであっても、そのまま放置しておいてよいのではないか、という疑問には答えていません。

この疑問に正直に答えるならば、「アイデアを育てる義務はない」となります。少なくとも、それをやらなくても生活に支障はありません。私たちの「日常」はアイデアが欠落したくらいで壊れるほどやわではありません。

この認識が最低限のスタートラインです。ここを取り違えてはいけません。「アイデアを育てることができないと、あなたは取り残され、惨めな人生を送ることになります」という言説は、自己啓発&実用書&ノウハウビジネスにおきまりの文句ですが、はっきりいってそれは呪いです。ファスト教養的なものへの誘いなのです。

たとえアイデアが未完成・未成熟のものであっても、それを育てる義務を負っているわけではない。少なくとも、それをしなくても「日常」が壊れることはない。

この認識を土台にした上で、もう少しだけ先に進んでいきましょう。

■情報の視点では?

編集者の松岡正剛は、かつて「情報はひとりでいられない」と述べました。この観点を援用すれば、アイデアもまた情報なわけですから、「アイデアはひとりでいられない」とも言えるでしょう。これは未完成・未成熟のパラフレーズかもしれません。

この擬人化を続ければ、「アイデアは育ちたがっている」とも言い換えられます。もちろんだから育てる義務があるのだとは言えません。とは言え、「育てたくなる気持ち」が芽生える、ということはあるでしょう。

その気持ちは、ありふれた言葉を使うなら「好奇心」や「探求心」です。生活に必須のものではないが、しかし人間に備わっている心の動き。あえて言えば「遊び」のようなもの。

私たちはその心に突き動かされてアイデアを育てようとします。義務感からではありません。それは「遊び」であり、そこに意味を持たせれば「使命感」とも言えるでしょう。強くそうしたいという気持ちがある、ということです。

だからもし、「アイデアを育てたい」という気持ちがいっさい湧き上がらないならば、アイデアを育てる営みを行う必要はありません。ましてや「しなければならない」という義務感を背負い込む必要はありません。それは生活の余剰としての「遊び」に過ぎないのですから。

■仕事としてのアイデア

もちろん、仕事としてそれをやる必要がある人たちはいます。たとえば広告を作っている人などはそうでしょう。

彼らはプロダクトを作るのではなく、そのプロダクトの良さを伝えるインフォメーションを作らなければいけません。しかも、「この製品はとても優れています」というメッセージではプロモーションとしては機能しないでしょう(なぜ機能しないのかは別途考えたいところです)。その製品を買いたい気持ちにさせる、あるいは選ぶ理由を強く提示するのが広告の役割です。

製品があって、その製品のスペックを伝えるだけで仕事が済むならばアイデアは必要ありません。単にその情報を右から左に流せばいいだけです(情報の整形は必要ですが)。しかし、それだけでは完結しないのならば、そこに何か新しいもの──これまでになかったもの──をつけ加える必要があります。それがいわゆる「アイデア」です。

書店にいくと発想法の本が「広告」の棚に並んでいるのも実に納得できるものです。そもそも発想法の古典とも呼べる『アイデアのつくり方』を著したジェームズ・ウェブ・ヤングその人が広告代理店につとめており、広告制作において手腕を発揮したのでした。

「発想法」は、日常的にアイデアを必要としている人によって生み出された──まさに必要は発明の母です。

逆に言えば、類似の職業についていない人には「発想法」やアイデアを育てることはそこまで必要ではないことになります。やはり「遊び」なのです。

■遊びだとして

とは言え「遊び」=不要、でもありませんし、「遊び」=有害でもありません。むしろそれは「遊び」でないと実現できない形での有用性を提供してくれます。

どんな有用性かと言えば「じっくり考える体験」の提供です。

アイデアを育てることは、義務ではないのでした。だから、いついつまでにこれこれをしなければならない、というリミットがありません。同様に、誰かがあらかじめ決めている「正解」もありません。よって、アイデアを育てることは、そうした制約抜きに「考える」ことを可能にします。

解答時間が決まっていて、答え方も決まっていて、正解も決まっている。そんな中で試験用紙に答えを書き込む、というタイプの「考える」ではないのです。

制約から解放されたそうした「考える」は、一面ではたしかに「遊び」ではあるでしょう。自由気ままに展開していけるからです。一つのアイデアをさまざまな角度から検討する時間も持てます。忙しい現代ならば、とても贅沢なことでしょう。

しかしながら、そうした「考える」をしないと打破できない状況もあります。

■壊れた日常に対して

先ほど、「日常」はアイデアが欠落したくらいで壊れるほどやわではないと書きました。一方で、「日常」は唐突に、しかも予測しない形で壊れることがあります。あるいは、傷つくことがあります。まるでダイヤモンドのようです。

そうしたとき、変化を起こせるのは「アイデア」です。

広告制作の話で見てきたように、今そこに無いものを作り出すのがアイデアなのでした。それが欠落を埋めたり、今あるものの形を変える力をもたらしてくれます。

「日常」はやわではないので、少し壊れたとしてもそのままの形で(少し壊れた状態で)維持され続けます。たとえば良くない習慣が身についたとして、徐々にそれがなくなるかというとそういうわけではないでしょう。現状を維持する力が、現状を固定する力として働くわけです。

そのような状況を打破するのが「アイデア」なのですが、問題はちょっとしたアイデアではたいてい力不足だ、ということです。少なくとも、その「アイデア」は日常の現状維持力を打破するだけの力を有している必要があります。
*第一宇宙速度のようなものをイメージしてください。

ここで「アイデアを育てる」行為が効いてきます。ちょっとしたアイデアでは変えられない日常を変えるうえで、ちょっとしていないアイデアへの育みが役立つのです。

■成熟したアイデアではなく

とは言え、注意は必要です。

日常的に未成熟なアイデアを成熟させておけば、それがストックとなって、日常が壊れてしまったときに役立つ、というわけではありません。もちろん、そうしたこともゼロではないでしょうが、そういう「先回り」はあまり役立ちません(日常は予測できない形で壊れるのでした)。

そうではなく、未成熟なアイデアを成熟に向けて育てていく、というその姿勢や手つきが、壊れた日常を修復させる際に役立つのです。

先ほど、「日常の現状維持力を打破するだけの力」を有しているものが必要だと書きましたが、これは一朝一夕に生まれるものではありません。「革命成功! 明日から薔薇色の日々!」とはいかないのです。

むしろその力を得るためには少しずつ積み重ねるしかありません。いや「積み重ねる」という表現すら誤解が生じるでしょう。一つひとつ石が確実に積み上げられている感覚がするからです。

実際はそんなに直線的なものでありません。あっちにいったりこっちにいったり、ときには戻ったり、ときにはやり直したりを繰り返しながら「うまくいくもの」を探し求める行為なのです。

そのように直線的には進まないからこそ、続ける必要があります。「あっちいったりこっちにいったり」は、両方やるから意味があるのであって「あっちにいったり」でやめてしまったら、ただ「あっち」にいっただけになるでしょう。

一気に終わるわけではないし、最初から答えがわかっているわけでもない。直線的には進まないし、ときにはリセットされてしまうことがある。

「日常の現状維持力を打破するだけの力」を得るためにはそのような進行を受け入れる必要があり、まさにそれが「アイデアを育てる」ときに必要なものでもあります。

性急に答えを求めず、その可能性を存分に探求すること。それは日常では「遊び」になるわけですが、人生に変化を求めるときには切実さを帯びてきます。

もちろんここで「人生に変化を求めるなら、発想力を身につけよう」と言ってしまうと、自己啓発の罠/ファスト教養なものにはまりこんでしまうのですから十分な注意が必要ですが、そうやって「遊んできた人」には、そういう人ならではの"能力"があるとは言えるでしょう。

■さいごに

だいぶ話が展開してしまいましたが、上記のような性質を踏まえた上で、じゃあどのようにアイデアを育てていけばいいのかについて次回検討しましょう。

(次回に続く)

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