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知的生産の技術の体系化に向けて その1

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/09/06 第569号

○「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇BC019 アフタートーク - by goryugo - ブックカタリスト

◇第八十二回:Tak.さんとアウトラインとは何かについて by うちあわせCast • A podcast on Anchor

ブックカタリストのアフタートークは、一応今回で無料公開は終了です。もちろん、本編はこれまで通り続いていきますのであしからず。

うちあわせCastは、ずいぶん根源的なお話をしました。アウトライナーについて興味を持つ人が増えている今だからこそ、改めて「そもそも、アウトライナーってなんやねん」という話を深めてみました。

お暇なときにでもお聴きください。

〜〜〜カスタマレビュー〜〜〜

『すべてはノートからはじまる』のAmazonページで、40個目のカスタマレビューを頂きました。とても嬉しいものです。

これまでも、セルフパブリッシング本の一部では、40台のレビューを頂いたことはあります。それは一冊の本の値段が(比較的)安いことと、Kindle Unlimitedでも読める点が影響しているのでしょう。

一方、『すべてはノートからはじまる』は一冊1,300円くらいしますし、Unlimitedにも対応していません。それを考えれば、40個目のカスタマレビュー(星評価)は相当にすごいことです。たくさんの人に手に取って頂けているのでしょう。

もちろんそうやって喜んでいるのは、平均の評価が高いからであって、40個のレビューで平均評価星1とかだったら、さすがにちょっと泣いちゃっているかもしれませんが、それでも「本を手に取って、読んでもらえた」のならばそこには嬉しさはあるでしょう。強がりではなくそう思います。その上で、そのときは「もっと精進しよう」と決意するのだと予想します。

ちなみに、毎日のようにAmazonページをチェックしていて気がついたのですが、平均星評価が4.2のときは表示される星の数は4つで、4.3になったら星4つに加えて半分くらいの星がつきます。平均評価では0.1の差しかありませんが、見た目的には大きな違いになります。半分くらいの星がつくだけで「すごく高評価されている」気がしてくるのです。

人間の視覚というのは、本当に面白いものですね。システム1がバンバン働いているのがわかります。

〜〜〜ビッグバズ〜〜〜

先週のつぶやきが、バズりました。

つぶやいたときも、それなりに大きな反響があったのですが、そこから大連チャンモードに入ったパチンコのようにRTやファボがまったく止まらない状況になりました。

タイムラインをチェックしている→通知に数字が表示→チェックする→ファぼられているのを確認→タイムラインをチェックしに戻る→直後に通知欄に数字が表示→

この無限ループです。

最初のうちは引用RTをリツイートしたり、頂いたリプライに返事をしていたのですが、途中からまったく追いつかなくなりました。あまりに通知欄がうるさいので、その間は若干「ツイ絶ち」していたくらいです。

で、別にバズったのを自慢したいわけではなく、上記のツイートのような感覚を持っている人がすごくたくさんいるんだな〜、というのを実感した、というお話をしたいのでした。

本が売れない時代と言われており、閉店する書店もあとを絶ちませんが、それでも本を買い、読むことを楽しみにしている人は少なからずいるのです。

本を作る人間は、そういう人たちに受け入れてもらえる本を目指して仕事をすべきなのでしょう。

〜〜〜嬉しい評価〜〜〜

レビューつながりで、別のお話を。

いつものようにTwitterをエゴサーチしていたら(日常茶飯事です)、本の感想のツイートを見つけました(即座にRTしました)。そのツイートに「倉下さんの書籍は買って後悔したことはない」とあって、この感想がジワジワと染み込んでくる嬉しさがあります。

その感覚をここで丹念に言語化することは避けますが、私も「買って後悔したことはない」と認識している作家や物書きがいて、そういう存在がいること自体が、人生の楽しさを増やしているようなところがあります。村上春樹のいう「小確幸」ですね。

自分もそういう楽しさを増やすことに貢献できているとしたら、そんなに嬉しいことはありません。今後も頑張っていこう、という気持ちになります。

〜〜〜読後会〜〜〜

感想つながりで、また別のお話を。

先日、このメルマガの感想をメールで頂いたのですが、非常に示唆に富む内容でした。すごく簡単に言えば、「『知的生産の技術』からまなざしを別のものに移した(つまり一旦捨てた)ことと、原稿を毎回書き直した(つまり一旦捨てた)ことが呼応していますね」というお話だったのですが、それはまったくその通りだと思ったのです。

でもって、そうやって指摘していただけると、「たしかに」と思うのですが、文章を書いている最中はその呼応にまったく気がついていませんでした。指摘されて、はじめて「発見」できたような感覚です。眼鏡の曇りをとってもらったかのような感覚。

そうしたことは案外たくさんあって、他の人からの感想でなくても、自分で書いたことを自分で読み返して気がつくことも少なくありません。

たとえば、先週号に書いた「勝手に拵えた読者イメージ」で本を書こうとしてもうまくいかない、という話は、情報整理ツールを使うときに一番最初に作る情報構造が、結局そのままではうまく使えない原因になる、という話と呼応しているなと、書き終えてから気がつきました。

どちらも「実際」を無視して、脳内の「こうだったらいいはずに違いない」を基礎にしてしまっている点が共通しているのです。でもって、そういう発見はまさに「記事を書いた」からこそ生じたものだと考えられます。

なんであれ、自分の考えを人に読める形で提出しておくことは、まず「自分にとって」大きな価値を持ちます。他の人からのフィードバックがくることもありますし、単に自分がそのことについて別の角度から考えるチャンスを得ることもあります。

だから小さくとも、こつこつ考えていることを文章で書き表していくことは大切です。

〜〜〜読後会〜〜〜

ふと思いました。

「読書会」という言葉のイメージではなく、いっそ「読後会」と呼ぶにふさわしい、本にまつわるトーク・セッションをやってみたい、と。

一応出発点は、何かの本の感想なんだけども、話しているうちにどんどん話題が出てきて、そこに次々脱線していくことを許容している会。そんなイメージです。

どうしても「読書会」という呼び方だと、「その本」が主題となって、その他の話題は抑制されがちなのですが、むしろ一冊の本から広がる話こそが面白いのだ、という振り切ったデザインにすると思考的脱線の多い私なんかは参加しやすい会になるように思います。

別の言い方をすれば、何かしらの本を話題の「肴」にする会、ということですね。

『すべてはノートからはじまる』なんかで、そういう会が出来たら面白いのではないかと、今のところちょっと考えております。

〜〜〜知らない知識に囲まれる〜〜〜

以下の記事がずいぶん面白かったです。

◇(追記あり)記者に「プログラミングのスキル」って必要なの?ちなみにNHKニュースの画像生成も記者がコードを書いてます|NHK取材ノート|note

パソコンやプログラミングの知識がある人にとっては「へぇ〜」と驚く話題がたくさん出てきますが、知識がない人にとっては「わからない」部分が多い話ではあるでしょう。でも、わからない部分をわからないままに飛ばして読めば、全体的に何を言おうとしているのかはわかる内容になっているとも思います。

上のような記事を読むと、この世界には自分の知らない知識があり、わからないことがある、ということがわかります。そして、そうした知識が実際にこの社会のどこかで使われていること、それらを楽しそうに語る人がいることもわかります。

私たちがわかろうがわからまいが、この社会というものがあり、そこで使われている知識があります。それらの総合によって、この社会は運営されているのです。自分が目をつぶったところで、その事実そのものが消えてなくなるわけではありません。

だとしたら、「わからないけれども、そういう知識がある」ということを知れるのは、とても大切なことではないでしょうか。たとえ部屋に閉じこもっていたとしても、各種インフラを維持する仕事や、農業や工業や流通などの数々によって、人間の生活は成り立っています。そうした仕事やその仕事に従事する人たちに対する敬意は、知識を「わかりやすく」歪めて伝える状況では生まれてこないと思うのです。

身の回りの情報が、すべて「わかりやすい」ものとして伝えられる社会は、歪んだものになるのではないでしょうか。心配しすぎなのかもしれませんが。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 本についてワイワイ盛り上がるイベントがあるとしたら、参加してみたいでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。9月は「知的生産の技術の体系化に向けて」をテーマにお送りします。

○「知的生産の技術の体系化に向けて その1」

1969年に出版された『知的生産の技術』は極めて有用な内容だが、それでも三つの課題を持っている。

・デジタルツールおよびインターネットが普及した時代における技術の研究
・組織やチームにおける知的生産の技術
・知的生産の技術の体系化

一つ目の課題ははっきりしている。現代では、梅棹忠夫が『知的生産の技術』を著した時代には存在すらしていなかったさまざまなデジタルツールが登場している。さらに、インターネットの普及が、私たちの情報環境を一変させてしまった。

そうした環境の変化の中で、知的生産の技術も新しいものが要請されるのは間違いないだろう。はたして、それはどのようなものなのかが探究されなければならない。

それと共に、起点となった『知的生産の技術』から現代においてまで通じる「技術」があるとすれば、それはずいぶん普遍性が高いものだと言えるだろう。言い換えれば、新しいものを探究することで、「新しくなる必要がない」ものについても考えていける。そうした思考のアプローチは「技術」を考える上で欠かせないものである(つまり、新しければそれでよい、という物差しは使えない)。

新しい技術について考えながら、古い、いや「今でも生き残っている」技術についても考える。そうした試みが、2020年以降のこの現代では必要だろう。

■組織やチームにおける知的生産の技術

ついで、複数人における知的生産の技術である。これは梅棹がその著書で自ら示している。

この本は、はじめから個人を対象にしてかいている。
すでにのべたように、この本でとりあつかったのは、個人における知的生産の技術である。当然、集団あるいは社会のレベルにおける知的生産の技術にまで、議論は発展してゆかなければならないはずのものである。

梅棹が議論の発展を期待していたように、たしかに私たちはこの議論を行わなければいけない。それは、個人の領域の知的生産の技術がすっかり探究しつくされたからではなく、前述したようにインターネットが普及したことによって、それまででは考えられないレベルで「集団」というものが構成されるようになったからだ。

村社会型のコミュニケーション範囲内で生活しているだけならば、集団における知的生産の技術を開発する必要性はそれほど高くない。おおむね、そのような仕事をしている企業の中で、独自に発展していくに留まるだろう。しかし、現代は異なる。

小さい地域コミュニティーの中だけでなく、また均一的な企業体の中だけでもない、それらを越境した人と人とのつながりが生まれやすくなっている。ちょっと考えてみるとわかるが、これはとんでもない事態だし、測定不能な量の「エネルギー」を潜在的に持っていると言える。

数々の問題解決において、あるいは創造性の発露において、そうしたエネルギーが活躍するだろうことは、想像に難くない。

しかし、真摯に現代を見つめたときに、私たちがそのエネルギーをどれだけ活用できているかというと、心もとないと言わざるを得ない。むろん、まったくのゼロではないし、たとえば1990年に比べれば相当に面白いことがたくさん生まれているのは間違いないが、それで十分とは言えないだろうし、その後の30年で飛躍的にそうした活動が広がっている、という感触も持ちえていない。むしろ縮小しているのではないかとすら感じるくらいである(これは私の認知バイアスだろう)。

ここに技術の不足を見てとることは可能だろう。

「SNSは議論に向いていない」だとか、「人間にはインターネットは早すぎた」といった言説で、現状のマイナスを肯定することは別段構わないが、そうした大振りな話で決着させるのではなく、私たちの技術が不足しているのかもしれないと考えることで、そこからの発展を考えることが可能なはずである。少なくとも「人間」の問題だから、どうしようもないとさじを投げるよりもはるかに建設的だろう。

そしてまさにそれこそが「技術」について考えることの価値であるように思う。この点については、また後述することになるだろう。

とりあず、私がここでまなざしているのは、非常に広い意味での「個人を超えた知的生産」である。「個人ではない存在」としてはまっさきに組織を思いつくが、その発想そのものが「ビフォーインターネット」的であることは間違いない。たしかに、組織における知的生産の技術は必要であるが、それは企業の経営者ならば痛感していることであって、今さらその必要性を論じる必要はない。

今この時代において、+α的に訴えかけたいのは、組織体のようなソリッドな集団における知的生産だけでなく、インターネットを介して生まれる、境界線の線引きが難しいようなリキッドな集団、ないしは偶発的に生まれて、その瞬間だけに発露される、まるで泡のようなグループにおける知的生産──辻クリエーションとでも呼ぼう──における技術の必要性である。

後者のような、もはや「出来事」と呼べるようなものに技術が必要であるとは想像されないだろう。だからこそ、それを訴えかける意味があるのである。

■知的生産の技術の体系化

上記の二つは、いわば『知的生産の技術』の発展的展開と言えるだろう。社会的な課題であるし、現代的な課題でもある。一方で、最後の一つは少しだけ毛色が異なる。それが「体系化」だ。

梅棹はこう書いている。

わたしがこの本でかこうとしたのは、おおげさにいえば、やはり一種の学問の方法論ということになるかもしれない。ひとつひとつの技術についてはいえば、まったくバカみたいなことで、だれでもしっているようなことなのだ。ただそれが、全体としてひとつのシステムにくみあがろうとしている。さまざまな技法が、あい連関して、共通のプリンシプルでむすばれているのである。そういう点で、ひとつの方法論とみることもできるだろう。

さらにこう続く。

このシステムは、ただし、まったく未完成のシステムである。社会的・文化的条件は、これからまだ、めまぐるしくかわるだろう。それに応じて、知的生産技術のシステムも、おおきくかわるにちがいない。ただ、その場合にも、ここに提示したようなかんがえかたと方法なら、じゅうぶん適応が可能だとおもうが、どうだろうか。

ここで珍しく梅棹は読者に疑問を投げ掛けている。本書の中ではずいぶん珍しい書き方である。もちろんそれは、未来のことはわからないのだから、断定しようがないからであるが、この点において本書は「ひらかれている」と言えるだろう。その答えを、こちらが(つまり読者が)引き受けなければならないのである。

一番最後に梅棹は「こういう話題について、たくさんの読者の、活発な討論と研究発表を期待したい」と本書を結んでいる。よって、問いを引き受けた私たちは、2021年の現代において腕まくりをすることになる。「さて、あの未完成のシステムを完成へと持っていってやろうではないか」と。

それが、私が本連載で取り組みたいことである。

(下につづく)

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