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知的生産の技術の体系化に向けて その3

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/09/20 第571号

○「はじめに」

ポッドキャスト&YouTube Liveのアーカイブが公開されております。

◇第八十三回:Tak.さんと本を書く難しさについて by うちあわせCast | A podcast on Anchor

◇ラジオ収録「倉下さんと「重版イベント」と「情報管理ダイアログ」の打ち合わせ」 - YouTube

◇【アーカイブ】『すべてはノートからはじまる』の重版記念オンラインイベント - YouTube

よろしければご視聴下さいませ。オンラインイベントはちょっと長いので要注意です。

〜〜〜名づけの傾向〜〜〜

何かに名前を与えるとき、そこには個人の傾向があるのかもしれません。

たとえば、私はポッドキャスト番組を「うちあわせCast」と名づけました。これは番組なのではなく、うちあわせみたいなもの、という「言い聞かせ」を発生させるためのネーミングです。

あるいは、情報管理の一つのモデルとして自分のやり方を「DoMA方式」を名づけました。これは日本の「土間」のイメージを拝借した名づけです。

どちらももともと存在する名前を、普通ならそうは使われない文脈に置くことで異質な感じを出している名づけです。まるっきり新しい造語ではなく、「違った場所に置いてみる」というやり方ですね。自分の名づけの傾向を振り返ってみると、わりあいこういうパターンが多い気がします。

今週号の本編では、梅棹忠夫の名づけの傾向についても触れていますが、こういう傾向も含めて「何かに名前をつける」行為そのものが、一つの研究対象として面白いかもしれません。

〜〜〜Scrapbox転記〜〜〜

思うところがあって、百数十枚の情報カードをScrapboxに転記しました。次の本用の素材を書き留めている情報カードを、新しく作ったプロジェクトに移したわけです。

問題は、その方法です。

最初はカードを一枚一枚撮影して、その画像をScrapboxに貼りつける方法も少し考えたのですが、リンクのことも考えてテキストベースでポチポチと手打ちすることに決めました。

ただし、一ページの作成ごとに「+」ボタンを押すのは面倒だったので、最初に新しいページを1つ作り、そこにずらっとカードの内容を書き込んでいき、後からそれを一枚一枚切り出していくことにしました。

カードをScrapboxへ転記する作業は情報カードが必要ですが、切り出し作業はScrapboxだけがあればできるので、まずは「カードが必要な作業」を終わらせた格好だとも言えます。

で、こういう作業をすると「はじめからScrapboxに書いておけば……」という手間貧乏的発想が出てくるわけですが、実際はカードから転記しているときに、「ふむ、あれとこれは近いかもしれない」みたいなパターンの発見が起きているので、そう悪いものではありません。少なくとも「無駄」と断じられるような益のなさはありません。

とは言え、結局やってみたら情報カードの方が良かったという結論が出ることは十分にあるわけですが、むしろそれを確かめたいから今回はScrapboxでやってみるというような意図があります。試行錯誤の「試行」に当たる行為ですね。

一冊の本を書くときに「試行」するだなんてと思われるかもしれませんが、結局「本を書く」ことのテストは実際に本を書くかない(2万字の文章では同じようにいくかはわからない)ので、ここは「えいや」と思い切って踏み出してみます。

結果はまた後日、報告するとしましょう。

〜〜〜「書く」ことの雑誌〜〜〜

書店の雑誌売り場では、本当にさまざまなジャンルの雑誌が並んでいます。ビジネス寄りなものもあれば趣味寄りなものもあります。消費寄りなもあれば創造寄りなものもあります。

それでいて「書く」ことをテーマにした雑誌はほとんど見かけません。不思議です。

音楽やイラストやらカメラの雑誌はある。文房具や小説(読書)の雑誌もある。ライター業や懸賞への応募の雑誌もある。しかし、行為としての全般的な「書く」ことについての雑誌は見かけません。

たしかに「書く」という行為は、目立った機材を必要としませんし、「効果的に書く」方法も一般論が成立しないのかもしれません。しかし、よくよく考えれば、「書く」ことについての情報を摂取したいと思っている人って結構いるような気がします。

こういう雑誌を作る人(つまり編集者)にとって、あまりにも「書く」という行為が身近だから、それでいっちょ雑誌を作ってみるか、とはなかなか思えない側面があるのかもしれません。

〜〜〜 吟味しておきたい言葉遣い〜〜〜

非常によく使われるながらも、その内容がはっきりしない以下のような言葉があります。

「ちゃんと」「しっかり」「きちんと」

別段こういう言葉を使ってはいけないわけではありません。中身が曖昧なときは、むしろ使用が適切な場合すらあるでしょう。しかし、他人への指示でこういう言葉を連発したり、自分の計画にこういう言葉を何度も使っていると、だいたい何をすればいいのかがわからなくなってきます。

なので、"しっかり"と使わないように注意したいですね。

〜〜〜泥臭い小さな工夫〜〜〜

いわゆる「家政」にあたるよう本や雑誌をパラパラと見るのが好きです。料理とか整理整頓とか掃除とか家計簿とかそういうジャンル。

でも、そういうジャンルの本って、たいていピカピカに光り輝いています。すごく綺麗に整った部屋やら料理やらノートやらが「どう! です! か!」という感じでページを飾っているのです。

そういう写真には少し憧れを感じるもののの、実際は「そうじゃないんだよな〜」という気持ちでいっぱいになります。TシャツとGパンでフランス料理店に入ってしまったような感じが近いでしょうか。

たしかに料理やら整理整頓のノウハウは知りたい、しかし「そこまで」を求めているわけではない、という気持ちがあるのです。言い換えれば、「そこまで」を維持するコストの高さを想像してゲンナリしてしまうのです。

個人的にはもっと泥臭いというか、悪戦苦闘しながら、試行錯誤しながら、なんとか日々をこなしています、というレベルの工夫が知りたいのです。「やっぱり、そういう問題ありますよね」とうんうん頷きながら「ほほぅ」と感心できる工夫が知りたいのです。

そういう小さな工夫には、独特の魅力があります。それぞれの人が、それぞれの人生を生きながら、それでいてなんとか「生きやすさ」を構築しようというあがきが垣間見えます。

「たしかにそうなっていたら、誰からも文句は言われないでしょうし、立派だと思われるでしょうね」

という"立派な世界観"に自分を寄せていくのではなく、自分の着の身着のままのレベルから、一歩くらい「ちょっとましな状態」を目指す、というよな工夫。

たぶんそれが、近年のビジネス書が取りこぼしてきたものたちなのかもしれません。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 「書く」ことの雑誌を作るとしたら、その雑誌にどんなタイトルをつけますか。

ではメルマガ本編をスタートしましょう。今回は、知的生産の技術の体系化に向けての第三回をお送りします。

○「知的生産の技術の体系化に向けて その3」

前回は体系化の是非について検討した。現段階ではっきりしたことは言えないが、少なくとも読み手の想像/創造力の余白を奪わない形でまとめるのが好ましいという指針は立てられそうである。

では、そうした体系化が仮に可能だとして、それはどのような形になるのか。その点を検討してみよう。

■内容の高さ

まず、どのような「高さ」の内容を扱うのかだ。

ここでは『知的生産の技術』がまるっと一冊収録されている『梅棹忠夫著作集 11 知の技術』を参照しよう。1992年に出版されたこの本は、『知的生産の技術』が出版された後の話や、梅棹の意図などが開示されているので、我々が「知的生産の技術のその後に」を考える上で非常に有用な一冊となる。

さて、『梅棹忠夫著作集 11 知の技術』の「まえがき」の中で、梅棹は"方法"について簡単な整理を行っている。

まず学問研究には方法が必要だと梅棹は述べる。

学問研究には、つねに方法というものが存在する。研究の対象に対してどういうせめかたをするのかが、明確でなければならないのである。学術論文には、そのはじめの部分に、その点を明確にした「方法」という項目が提示されているのがふつうである。

気になる方は、日本語で読める論文を確認されてみるとよいだろう。たいてい冒頭に、その研究がどのような研究上のアプローチを取ったのかが明示されているものである。そうしたアプローチの選択こそが、学問上の分野を区分けしていると言っても過言ではない。

が、それらは個別の研究において規定される個別的な方法である。梅棹が「知の技術」の中で主題に挙げているのは、そうした方法ではない。もっと一般的で、汎用の方法である。

たとえば、文章のかきかたとか、論理のすすめかたとかのたぐいである。そういうものは、従来はとりたてて論じられることはすくなかった。ここで「知の技術」としてとりあげようというのは、その種の知的作業一般に適用できる「汎用」の技術なのである。

まず先回りしておくと、「文章の書き方」や「論理のすすめかた」に関する情報は、近年ビジネス書の分野で爆発的に語られている(とは言え「論じられる」レベルには至っていない)。このことが、梅棹が言うように"その種の知的作業一般に適用できる「汎用」の技術"であることを示している。つまり、学問上必要になる基礎的な技術が、ビジネスの分野においても要請される、ということだ

その構図を少しだけ拡張すれば、人生を生きる上でもそうした技術は必要になる、と言えるだろう。つまり、以下の構図だ。

知的生産の技術→仕事術→ライフハック

社会において情報を扱うことが不可欠な環境にある中で、市井の人間であっても情報を扱う技術(知の技術)の有用性が増している。それこそが、真なる意味での「汎用」であろう。

ともかくとして、ここで検討したいのは、個別のアウトプットを形作る「方法」ではなく、それらの下にある基礎を形作る「方法」 = 技術である。

■方法への抵抗

ここで一つの"抵抗"が想定される。梅棹は以下のように述べる。

これを技術の一種とみるかんがえかたには、かなり抵抗をしめすひとがある。そういうものは個人の資質と才能に依存するものであって、技術というように一般化できるものではない、というかんがえかたであろう。

どちらかと言えば、倉下の考え方はこれに近いかもしれない。「論理のすすめかた」はよいにして、「文章の書き方」を技術として一般化するのは少々無理が強い、という印象はある。

あるいは、こういう"抵抗"も梅棹は想定している。

あるいはまた、その種の知的作業のエッセンスの部分は、秘訣あるいは秘伝として、師弟間で伝承されるものであって、技術として公開され社会化されるたちのものではない、というかんがえかたもあるであろう。

再び倉下の考えに戻れば、この「エッセンス」が秘匿されるものとして師弟間で伝承するのが望ましいかどうかは別にして、そのような密度の濃い関係の中で細かい機微を含めてやりとりされた方が、間違いは少ないのではないか、という感覚はある。

技術は公開されるのが望ましいが、「公開」(パブリッシュ)という手段を用いた段階で抜け落ちるものがたくさんあるのではないか、という危惧である。

梅棹は上記のような"抵抗"を織り込みつつも、以下のように述べている。

しかし、現代においては、知的生産者ないしは知的生活者は社会の各層に拡大し、おびただしい数の人たちに、知的作業に関する技術の習得と訓練の必要をせまっているのである。

ここが重要なポイントだろう。ここまでその技術を必要とする人が広範囲に拡大してしまった状況では、「師弟間で伝承」のようなゆったりとした技術の伝達ではとうてい間に合うものではない。また、完全な「一般化」が不可能だからといって、じゃあやめておきましょうか、と放置できるものでもない。ある程度の不完全さは踏まえつつも、最低限の「技術」を普及させていく必要があるというわけだ。

この点については、梅棹の指摘に頷かざるを得ない。0か1か、つまりまったく無理か、完璧にできるかのような二択ではなく、ある程度の、必要最低限の、不完全ではあっても、基礎と呼べるような技術の習得を目指すことには意義があるだろう。

一つ希望があるとすれば、「知の技術」をある程度習得することができれば、そこから先は自分の足で歩いていくことができる、という点である。すべてを手取り足取り教えてもらう必要はない。不足があれば、自分で調べて、自分で考えて、自分で実践していける。まさにそれこそが、「知の技術」であるからだ。

この観点が、前回の私には欠落していたところであろう。「文章の書き方」といった一つの部分だけに注目して、その全体像が見えていなかった。「知の技術」を体系的に扱うならば、「調べて、読む技術」も入ってくるわけで、そうした技術が提示される「体系」から外に抜け出るドアになってくれる。言い換えれば、「調べて、読む技術」がある限り、人をその中に閉じこめておくことはほとんど不可能なのだ。

■名づけの影響

ここで「名前のつけ方」の重要性に思いを馳せる。

前回は「知的生産の技術」の体系化を検討していた。そうすると、私の思考は「成果物をアウトプットするための技術」にフォーカスが当てられる。そこで扱う技術が、成果物を生み出すためのものに限定されてしまう。

しかし、今回は「知の技術」という呼び方をしている。すると、上のような新しい発見がある。「調べて、読む技術」のような技術がそこに入っているだろう、という直観が呼び寄せられる。

このような「名前による思考の影響」は避けがたい。どんな名前をつけてもバイアス(名づけによる印象の偏り)は避けられないので、それをゼロにすることを考えるよりも、むしろ、イメージしてもらい方向にできるだけ近づけるような名づけを考えるのが有用だろう。

その意味で、「知的生産の技術」という名づけは、基本的には採用しない方がよい、とひとまずは言い切ってしまおう。サブタイトルなどで触れるのはよいとして、ここでの試み全体を代表する名前にはしない方が良いだろう。

一つには、先ほどのような事例がある。つまり、技術のカテゴリーが「生産活動」に偏ってしまう影響だ。これは、体系化を目指す上で望ましいものではない。

もう一つには、2021年における「知的生産」という言葉の位置づけの変化がある。1969年と2021年では「知的生産」という言葉が解される文脈が変わってしまっているのだ。言葉としては同じものであっても、それを受け取る私たちが変化しているので、同じ文脈にならないのである。

よって、ここでは、これらの行為全体を指し示す新しい言葉を──しかし昔から続く文脈に接続する言葉を──見定める必要があるだろう。

(下に続く)

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