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プチレポを書く / JavaScriptの置換 / 『ファスト教養』を読む その1 /

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/10/10 第626号

「はじめに」

たまたま入ったコンビニ(ファミリーマート)に、ドドーンと陳列されているのを見かけて思わず買ってしまいました。

◇HG1/144ガンダムエアリアル - 倉下忠憲の発想工房
https://scrapbox.io/rashitamemo/HG1%2F144%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB

コンビニで働いていたときは、こういうプラモデル的なものもちょくちょく買って組み立てていた(そして、お店に展示していた)のですが、物書き業にジョブチェンジして以降は疎遠になっていました。

今回はたまたまガンダムの新シリーズが始まった直後ということもあり、何かしら名状しがたいモチベーションが湧いてきたので購入した次第です。

で、まだ組み立てている途中なのですが、ともかく細かいです。パーツも細かいし、シールも細かいです。昔はまったく考えたこともなかったですが、こういうパーツを「設計」している人がいるわけで、それはすごいことだなと思います。

だって、その「設計」は、自分で組み立てるものではないのです。中学生とか、もかしたら小学生くらいの人間が、説明書を片手にせっせと組み立てるもので、ようするにまったくの「他者」が作れるものでなければなりません。

きっと、実際の工業的な「設計」とはまた違ったデザインが求められるのでしょう。

なんにせよ、パーツをニッパーで切り離し、余計な部分を削り取り、組み立ててから、また次のパーツを切り離し、ということをやっていると、だんだん自意識が消えていき、忘我の状態に入っていきます。ガンプラ的マインドフルネスです。

やはり「物」を作るのは楽しいものです。本を読むのとはまた違った面白さがありますね。

〜〜〜休憩時間〜〜〜

一日の仕事をどのように進めるかを真剣に考えていると、「休憩時間」についても考えざるを得なくなります。

たとえば何かしら原稿を一時間書いたとして、直後に別の原稿に移っても頭がまだその原稿のモードなのでうまくいきません。

そこで何かしらの「休憩」を挟むわけですが、この休憩もなんでもよいわけではないのです。

・頭が切り替えられる
・ストレスがたまらない
・戻ってくることができる

まず、頭のモードを切り替えることが目的なのですから、その目的が達成できないといけません。ある程度集中を要するものが好ましいと言えます。

一方で、それが難しすぎるとストレスが高まります。休憩している意味がありません。集中は必要だとしても、ある程度は「ゆるい」ものが必要です。

さらに、あくまで休憩目的なのでどこかで切り上げて、作業に戻ってこれないといけません。集中を要しすぎて、気がついたらものすごい時間が経っていた、というのではマズいわけです。

この三つのポイントの、前二つだけならばTwitterは最高の息抜き、気晴らしになります。言葉を扱うメディアなので脳のモードは切り替わりますし、雑に書けるのでストレスもありません。

しかし、誰かとリプライを始めてそのまま没頭したり、誰かがツイートした面白いWebサイトから記事を読み漁ることが始まったりと、うまく戻ってこれない可能性が秘められているのが難点ではあります。

そういうときは、タイマーを設定しておいて「10分経ったら切り上げて作業に戻る」と自分にリマインドすればいいのですが、その行為そのものが面倒なのでなかなかうまくいきません。

その点、作業の実行と休憩がセットになっているポモドーロ式は実にうまいやり方と言えるでしょう。

自分なりにそういうスタイルを取り込んでみたいものです。

〜〜〜読了本〜〜〜

以下の本を読了しました。

『日本語からの哲学: なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか? (犀の教室 Liberal Arts Lab)』

まず、「日本語」から哲学を起動させる、という試みが面白いです。日本で哲学の本を読むと、だいたいが西洋哲学の話になっていて「哲学というのはそういうものなのだ」という思い込みが生まれますが、実際日本語からでも哲学はスタートできるわけです。

慌てて注意しておくと、ここで言っている「日本語で」は、哲学的な思考を日本語で記述する、ということではなく「日本語」の言葉遣いを分析対象として哲学的思考を展開させる、という意味です。だから本書のタイトルも「日本語から」となっています。

で、実際どういう言葉遣いが対象になっているのかと言えば、副題が示すように〈です・ます〉や〈である〉という文末(文体)です。もう少し言えば、一般的に「常体・敬体」と呼ばれている──本書では別の言葉遣いが選ばれますが──概念を契機にして、哲学的な考察が深まっていきます。

哲学的な本が好きな方ならば間違いなく楽しめる一冊ですし、文章を書く人間、とくに「常体・敬体」にこだわったり、あるいは悩んだりしている人にも参考になる一冊だと思います。

こういう新しい試みの本に出会うとワクワクしますね。自分も何か新しいことができそうな気がしてきます。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 休憩時間には何をしておられるでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は倉下の仕事術として「プチレポ」を紹介します。加えて、二つのエッセイをお送りします。

「プチレポを書く」

今回は「プチレポ」の話をします。

プチなレポート、つまり「小さいレポート」を意味するこの概念は、倉下自作の概念です。名前の通り、たいした話ではありません。ちょこっとした記録を残していこう、という方針のようなものです。

デジタルで記録を残すようになってから、この「プチレポ」習慣はずいぶん長く続けています。以下では、具体例を交えながら、そのプチレポの内実を見ていきましょう。

■ハチの巣駆除

先日、雨戸の隅っこに蜂の巣ができていることに気がつきました。すでに、ハチ(アシナガバチだったと思われる)が数匹うようよしています。

以前にもハチの巣ができていたことがあり、そのときに「ハチ用の殺虫スプレー」を買っていたので、今回もそれに活躍してもらいました。十分に注意を払ってプシュー、しばらく様子を見てから再びプシュー。

少しの間放置してから覗いてみると、ハチが姿を消していたのでそのまま巣を取り除き一件落着です。

それが終わった後、私はプチレポを書きました。上記のような状況と過程を手短に記したノートを書いたのです。

ツールにこだわりはありません。何でもよいと言えばなんでもよいです。ただ、最近はScrapboxをよく使っています。上記のように「ちょっとしたこと」を気兼ねなく書けるのがGoodです。

私と妻が所属しているScrapboxのプロジェクトがあるので、そこに「20220918雨戸に蜂の巣」というタイトルのページを作り、そこに簡単に記述しておきました。

ただ、それだけのことです。その単純な行為が「プチレポ」です。

■日記とプチレポ

この「プチレポ」は、日記と呼ぶこともできるでしょう。もう少し言えば「トピック型日記」です。

トピック型日記とは、普通の日記のように一つのページに「その日のこと」を書くのではなく、一つのページに起きた「出来事」を書くものです。アナログだとなかなか難しいですが、デジタルツールだと簡単にトピック型日記がつけられます。

情報を切りとる視点で言えば、このトピック型日記とプチレポは非常によく似ています。しかし、まったく同じではありません。

何が違うのかと言えば、文章が違います。

日記は、自分だけが読む内的な文章ですが、プチレポは名前の通り「レポート」を書きます。他の人に向けた文章として書くのです。また、レポートなので心情などの記述は薄くなります。まったく書かないわけではありませんが、厚みとしては「事実の記述」が多くなります。

その意味で、これは日記というよりは日誌が近いかもしれません。トピック型日誌。それも、他人に向けて書かれる日誌です。

■コーディング用プチレポ

上記は、家庭の出来事でしたが、それ以外でもプチレポは書かれます。たとえば、コーディング作業をしているときは、よく発生します。

何かわからないことがあって、それを調べたら、その内容をまとめたノートを書きます。これも、プチレポです。

あるいは、実装したい機能があって、それに必要な要件を検討し、実装するまでに起きた出来事もノートに書いておきます。これも、プチレポです。

蜂の巣駆除やコーディング作業などは、実施の前に「タスクリスト」を作ったりはしません。わりと思いつきで作業を始めます。一方で、そうしたものが終わった後には、記録をつけます。

計画せずとも、記録は残す。

これがプチレポのマインドセットです。

■ちょっとした記録

重ねて書きますが、プチレポは──わざわざこういう名前をつけているように──詳細な記録を残すことは目指していません。ちょっとした記録でいいのです。

蜂の対処には殺虫スプレーを使っただとか、次から雨戸に注意をしておこうと思っただとか、新しいスプレーを常備しておこうとか、そういう話だけで十分です。アシナガバチの生態などを細かく調べる必要はありませんし、雨戸の構造をスケッチする必要もありません。秒単位の時刻を測定する必要もありません。「要点」が残っていればいいのだ、と考えます。

なぜそのように考えるのかと言えば、大げさな記録を残そうとすると、間違いなく面倒になるからです。

たしかにさまざまな記録が残っていた方が有効性は高いでしょうが、だからといって記録を残すのが面倒に感じるなら本末転倒です。

まず記録を残すようにすること。

その姿勢を習慣を確立するために、プチレポは「プチ」であることを指向します。

■出来事の反芻として

では、そうしたプチレポを残しておくと、どんな良いことがあるでしょうか。

ここで説得的な事例を列挙できれば、カッコイイのですが、別段たいした効能はありません。直接的で具体的なわかりやすい効能はほとんどないと言っても間違いではないでしょう。

たしかに書き留めておいたことが、後々役立つことはあります。しかしそれは、ほとんどたまたまに近い確率です。少なくとも「必ず役立ちます」と力説することはできません。

だったら、何でおまえはそんなことをしているのかと言えば、それは出来事を「反芻」するためです。森有正の言葉を借りれば「体験」を「経験」に変えるためです。

私たちの時間は慌ただしく過ぎ去っています。向ける注意は、次々に生まれ出る新しいものに向けられ、一つのものに留まる時間はどんどん短くなっています。

そうなると、私たちが記憶できるものは、非常に曖昧でおぼろげになります。これはもう、本当に驚くくらいです。細部という細部をまったく覚えていないのです。

その状況を変えるためには、その対象により長い時間注意を向けるしかありません。だからこそ、振り返るのです。実際に何かをやった後に、「何をやったのか」をレポートするのです。

■経験を味わうために

「生産性」という点で言えば、このプチレポは及第点をもらえないでしょう。すでに終わったことを振り返っているだけで、何も新しいものは作り出していないからです。

しかし、私たちは生産性を最大化するために生きているわけではありません。生物としてではなく、意識としての「自分」は、体験を求め、経験を味わうために生きているのです。

その意味で、プチレポ習慣は、「足を止めて、振り返る」行為を促すための習慣と言えるかもしれません。前に向けて進むことだけに取り組むのではなく、ギアを落とし、ブレーキを踏み、視点の高度を変更するための時間を日常に入れ込むための習慣なわけです。

別段、高尚な何かをやっているわけではありません。単にさっきやったこと、起きた出来事をノートに書いているだけです。

しかし、こういうことを日常的にやっていると、「時間の感覚」は変わってきます。あるいは、そこにあるギアが感じられるようになると言えるかもしれません。そのギアによって、私たちの心理的な状態は変わってきます。

おそらく、何かを計画することはそのギアを上げることにつながるでしょう。それはそれでワクワクするものです。しかし、そうであればこそ、逆にギアを落とす何かも持っておきたいものです。でないと、バランスがとれませんので。

(次回は、TODOリストの破綻について)

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