記録と共に変化する その2 / 私と自分の関係性 / 書いたノートを読み返す
はじめに
ポッドキャスト、配信されております。
◇BC069 『アトミック・リーディング』 | by goryugo | ブックカタリスト
今回は、ごりゅごさんの『アトミック・リーディング』についてお話しました。8月11日発売予定の新刊です。
『アトミック・リーディング: 読むことと書くことから考える読書術』
よろしければお聴きください。
〜〜〜Workflowyの存在感〜〜〜
極論をいえば、WorkflowyとDynalistに大きな違いはありません。機能的にはほぼ等価ですし、なんならDynalistの方が高機能です。その上、Dynalistは無料ユースであっても作成できる項目数に上限がありません。誰かに勧めるとしたらDynalistを選びたくなります。
が、しかし。
そうした一般に向けた「お勧め」の対象がDynalistになるにしても、自分で使うにはやっぱりWorkflowyを選びたくなります。
一つには、機能が少ない分のシンプルさがあるでしょう。長い時間使うツールほど、余計な機能がついていないことがメリットとして表れてきます。日常は祭りではありません。日常は落ち着いた空間を望みます。
とは言え、最近のWorkflowyも徐々に機能が増えてきているので、この安楽の地がどこまで維持されるかはわかりません。いつかは機能の大盛り的ツールになってしまう懸念はあります。
それでも、です。
Workflowyの「ファイルをわけず、すべてを一つのアウトラインにまとめる」という在り方だけは、このツールがこのツールであり続ける以上残り続けるでしょう。でもって、それが他のツールには替えがたいと感じさせるのです。
別にDynalistだって実体のファイルを分けているわけではなく、単一のデータベースに保存されている情報を、あくまでUIとして「別ファイル」として表示しているにすぎません。でもまさにそのUIこそが問題なのです。
認知科学についての本を読むにつれ、人間にとって「それがどのように見えているのか」が情報処理において重要であり、だからこそUIがツールに決定的な影響を与えるのだなということを痛感しています。
一見すると不便になるかのようにみえる「ワンアウトライン」のUIが、実は最高に便利なんだぞ、ということを改めて確認していきたいところです。
〜〜〜気になっていること〜〜〜
GTDでは、「気になること」がケアの対象になっています。
「気になること」が頭の中にあるとストレスになるのでそれを綺麗さっぱり頭から追い出せば生産性が高まるよね、という話です。
しかし、私はこの観点に長年疑問を抱いていました。たとえば、私は本の内容や構成について考えているとき、それがずっと「気になっている」わけですが、じゃあそれを考えないようにすればハッピーなのかと言えば、低クオリティな本が生まれるだけでしょう。ストレスが減る代わりに、仕事の質も低下する。あまりハッピーではありません。
一方で、たしかに頭の中にため込んでいくと精神衛生上よろしくないこともあります。私はそういうときにWorkflowyを使って頭の中の整理する、という話は前回にも書きました。
つまり、頭の中にあって注意を引きつけるものでも、実は二種類(あるいはそれ以上)あるのではないか、ということが考えられます。一つは、早々に対処して気にしなくなるようにしたいもので、もう一つは粘り強く検討し続けて成果につなげたいものです。
その違いを鮮明にするために、「気掛かりなこと」という概念を導入してみましょう。
「気掛かり」という表現には、あらかじめネガティブな価値評価のニュアンスが含まれています。辞書を引けば「何か悪いことが起こらないかと考え、心が落ち着かないこと」とあります。頭(あるいは心)の中にあって、ネガティブな影響を及ぼすものが、「気掛かりなこと」です。これは早々に対処が必要でしょう。GTDの出番です。
一方で、本の内容やアイデアについては早々に対処してしまうと好ましくない結果が起きがちです。そうしたものついては、別のアプローチで対応していく。そういう切り分けを行うために、「気になること」に加えて「気掛かりなこと」という用語を設定するわけです。
あるいは「気掛かりなこと」と「気にかけていること」という対比をしてみてもいいかもしれません。似たような言葉でも、微妙にニュアンスが違っていることがわかるかと思います。
何にせよ、人間の活動は複雑です。シンプルな単一のアプローチでまとめきれるものでないことはたしかでしょう。
〜〜〜文章のメタファ〜〜〜
自分が使うメタファに非対称性があることに気がつきました。
たとえば、自分が文章を書くときは、よく「建築」に関するメタファを使います。設計図だとか、柱だとか、やすり掛けとか、そいういう言葉空間を用いて表現するわけです。
一方で、自分が文章を読むときは、そうしたメタファは一切登場しません。建築物を眺めるようには本は読んでいないのです。その代わり、食べ物を口にするときのメタファがよく出てきます。味わうとか、消化するとか、そういった言葉遣いです。
これはなかなか面白い現象ですね。私の認識にとって、文章を書くことと、書かれた文章を読むことはメタファ空間でぜんぜん別のところに位置しています。でも、そんなことがありうるのでしょうか。
もしかしたら、何か根本的なことを間違えているのかもしれません。たとえば、どちらかのメタファ空間の位置がズレている可能性があります。建物で統一するか、食物で統一するか。あるいは、どちらも間違っていて、ぜんぜん別の統一的なメタファ空間がありえるのかもしれません(たとえばケーキ作りなどは折衷的な雰囲気があります)。
もちろん、メタファはあくまでメタファであって、実体と直接対応するものではありません。執筆はときに作曲であったりもしますし、読書はときに旅であったりもします。さまざまな切り口がありえるわけです。だから統一されていなくても、ぜんぜんおかしくないと言えばそうなのかもしれません。
皆さんはいかがでしょうか。本を書くこと、あるいは読むことについてよく使うメタファはどのようなものでしょうか。よろしければ、倉下に教えてください。
ではメルマガ本編をスタートしましょう。今回は3つのエッセイをお送りします。
記録と共に変化する その2
「記録と共に変化する」というテーマで連続的な記事を書いていきます。
第二回は「変化のメソッド」です。
■変化のメソッド
私たちは、メソッドの話題が大好きです。
近年では、ライフハックや仕事術といったテーマがメソッドの話題を提供してくれていますし、少しさかのぼるば自己啓発や自己修練、あるいは自助といったテーマが似た役割を担っていました。
こうしたテーマは方向性や価値観に違いはありつつも、一つの点では共通しています。それは「変化を求める」という点です。
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