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知的生産のためではない知的生産の技術 / シン・R-styleに向けて

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2023/03/06 第648号

はじめに

春すなわち、花粉症のシーズンです。

毎年のことながら結構つらいです。ゲームで「デバフ」という表現がありますが、まさにデバフされている感覚。

鼻がズルズルいうのは100歩譲って我慢できるとして、目がむずむずするのは原稿に集中できなくなるので非常に bad です。

とは言え、シーズンに入る前に確定申告を終わらせられたのは僥倖と言えるでしょう。この二つが重なったらもはや地獄という以外にありません。今後は3月冒頭にはあまり業務を詰めすぎない"マネジメント"を為したいところです。

ちなみに、初めて花粉症用の目薬を買ったのですが、たしかに目のかゆみを抑える効果がありました。普通の目薬よりもちょっとお高いのですが、その分の価値はありそうです。

〜〜〜リスキリング〜〜〜

最近「リスキリング」という言葉がビジネス界隈で流行していて、この言葉を見つけるたびに「リスを殺すなんてかわいそう」などと思ってしまうのですが、それはさておきこういう流行は中身を伴わないのがよくあるパターンです。

で、この場合「リ・スキリング」と言うけども、一度目のスキリングってどうだったのよ、という部分が完全に空白になっています。日本の会社員の場合、大卒でまったく白紙のまま会社に入って、そこから会社での仕事を通して能力を身につけるというルートが"伝統的"だったはずですが、その流れで言えば、リスキリングするためにはそのための業務を再び経験することになるでしょう。もちろん、そんなことがイメージされているはずもありません。

ということは、労働者が自分で勉強してスキルを身につけることになるわけですが、あたかもそれが簡単なことのように理解されているとしたら大失敗が待っているでしょう。

2〜3冊のビジネス書を読んで何かしらのスキルが得られるなら、リスキリングも簡単に実践できるでしょうが実際そんなはずがありません。そもそも大学という場所は、「自分で勉強(study)していくための力」を得るための機関なわけですが、いわゆるFランと呼ばれるような大学においては「ともかく卒業する」が学生の願いであって、そうした力が身についている事例は少ないのではないでしょうか。

そうなると、高校以前までの「前に先生がいて、生徒はその話を聞き、板書をとる」というのが学習の唯一のモデルとなります。しかし、仕事の現場で使えるスキルはそういう形で学べるものではないでしょう。

結局、リスキリングの前提となるスキリングの基礎的な能力がないと話が成立しないのですが、そうした観点がこのブームでどこまで考慮されているのかは見えてきません。

あるいは、板書モデルにおいてリスキリングをブームにすれば、「スキル・コンテンツ・ビジネス」が儲かるからよいよね、というコンセンサスがどこか上流で生まれているのかもしれません。これもよくある話ではあるでしょう。

ひとりの人間が職業人生において、常に学び続けていかなければならない、ということは概ねまっとうな話だとは思います。しかしだからこそ、それを支援する制度は、その「学び」についてまっすぐ見据えていなければなりません。でなければ効果的な制度など作りようがないでしょう。

でもまあ、このリスキリングの流行は、昨今の独学ブームの潮流と混ざり合いながら中規模の産業領域を生み出していくのではないかなと個人的には予想します。

〜〜〜noteの新機能〜〜〜

ついに note に待望の機能が実装されました。記事を外に出す「エクスポート」機能です。

◇エクスポート機能について – noteヘルプセンター

https://www.help-note.com/hc/ja/articles/15597380918425

これまで note は使いやすい投稿プラットフォームとして存在してはいたもののの、簡単にエクスポートできないことによって他の人にお勧めしにくい状況にありました。

倉下の場合は、まずテキストエディタで書き、それを自分のローカルに保存してからnoteのエディタにコピペする、という運用をしているので、エクスポートができなくても何も困らないのですが、何もケアせずにそのままエディタで書き続けていた人がいざ別のブログに移転したくなったときにオーマイゴッド、な状況が生まれてしまうことは十分に考えられます。エクスポート機能は、このような悲劇を回避してくれるわけです。

この広告まみれのWebにあって、note は心地よい読書体験を提供してくれる数少ない存在と言えます。ビジネス的にはまだまだ厳しい状況にあるようなので、今後も頑張っていただきたいところ。エクスポート機能という「外に出る」ための機能が、むしろ「内に入る」人を増やしてくれればよいのですが。

〜〜〜読了本〜〜〜

ラッセル・A・ポルドラックの『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか』を読了しました。

習慣というものの強固さを、心理学的な側面だけでなく脳神経科学的な側面からも説明する一冊です。「習慣」というものが私たちの脳においてどのような役割を担っているのか、いかなるメカニズムによってそうした「習慣」は確立されていくのか。さまざまな実験結果を通して、習慣のメカニズムが解説されます。

それと共に、最新の脳科学の手法もコラムという形で紹介されます。特定のニューロンの活動を精緻に観測するための技法は年々精度を上げているらしく、そうした技法の確立によって新たな実験が可能になり、そこから新たな知見が生まれる、という科学特有の歩みが当然のようにこの脳科学でも繰り広げられていることがわかります。

あわせて、どこかのユーチューバ−のようにある結果を発表した論文があるから「AはBです」のような断定的な物言いがいかに拙速であるのかも本書を読めばわかります。サンプルサイズが重要なこと、ビジネス的観点によって結果がゆがめられてしまうことがあることなどが適切に言及されています。こうした観点も、科学者向けではなく一般向けを意識した本作りの影響なのでしょう。

とは言え本書はみすず書房から出版されています。つまりみすず価格です。買うのにちょっとためらいはあるかもしれませんが、「習慣」に真剣な興味があるならば、のぞいてみる価値が十分にある一冊と言えそうです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりでも考えてみてください。

Q. 成人してから新しく身につけたスキルは何かありますか。それはどのようにして身につけましたか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は倉下の仕事の今後の方向性を考えるエッセーをお送りします。もう一つ新R-styleについてのお知らせも少し。

知的生産のためではない知的生産の技術

あらためて考えたことがある。自分が興味を持っている対象にどんな名前が与えうるのか、という問題だ。一見すると自明なようで、その実ふよふよした感覚が漂う問題である。

たしかに私は「知的生産の技術」と呼ばれる分野に興味がある。かといって、自分は「知的生産」を志しているかといえば心もとない。少なくとも純粋に首を縦に振るのは難しい。だからそうした行為に言及するときについ、「知的生産的な行為」などと表現してしまう。「的」が多い言葉はあまりよくないとは思うのだが、そう表現せざるを得ない気持ちがそこにはあるのだ。

梅棹忠夫の『知的生産の技術』という書籍にはたしかに感銘を受けたし、影響も受けている。著者の主張は全面的に正しいとすら思う。にもかかわらず、自分は「知的生産」をやろうとしているのかというやっぱり違う気がする。

そもそも梅棹忠夫に出会う以前から、メモをとり、ノートを書き、文章を表してきた。名前が欠落していても行われていた行為があったわけだ。梅棹の本を読んで、自分がやってきたことが「知的生産」と呼ぶことができるのだと納得したとしても、自分の目標がはじめからそこにあったとは言えない。こういう名付けと目標のズレをずっと感じていた。

■言い換え探し

一体自分は何をやっているのか。自分がやっていることを適切に呼ぶとしたら、それはどんな名前になるのか。

そんな益もない疑問を潜伏的に持ち続けていたのである。だからこそ、私は「知的生産」や「知的生産の技術」の言い換えを探していたのだろう。そうした言葉遣いにズレを感じていたからだ。しかし、そのズレの有り様を私はこれまで見誤っていた可能性がある。どういうことか。

これまでの私は、たとえばこんな問いを持っていた。「現代において知的生産の代わりになるような言葉は何か」。たしかに大切な問いではあろう。

ずっと昔に提起され、そこから少しずつ開発が進んでいった知的生産の技術は現代においても重要である。むしろ、現代においてこそ重要さが増しているとも言える。しかし「知的生産」という言葉の響きは、モダンとは言えない。そこで昔からの技術と現代を生きる人々をつなぐために新しい言葉を探す。こうした問い立てはいかにも有効なように思える。

しかし大きな問題が残る。結局のところ、その接続先の片方は「知的生産」であり続けるという問題だ。どのようにパラフレーズしたところで、言い換えられる前の「知的生産」は厳然として残る。つまりその言葉との付き合いは避けては通れない。

私がこうしたパラフレーズの探求に明け暮れて、しかしその答えにたどり着けなかったのは、この根本的な状況を直視していなかったからだろう。簡単にいえば、「私は知的生産をしているのか」という疑問だ。

この疑問に、イノセントに「はい、しています」と頷けるならば話はもっと簡単だったに違いない。何かしらのパラフレーズを思いつき、それで手を打てていた可能性もある。でも、実際はそうではない。素直に頷くことは難しい。

だからどれだけ別の言葉で言い換えようとしても「なんかちょっと違うよな」という気分が消えないのだ。それは「知的生産」という言葉の言い換えがうまくいっていなからではない。そうではなく、そもそも「知的生産」でいいのかを考えていないからだ。

しかしながら、どうにもそうした疑義を提出するのは気が引けるような雰囲気が私の中にはある。先達の仕事を軽んじているような、そんな冒涜感すらもある。

しかし、冷静に考えて、私は梅棹に師事していたわけでもないし、私淑しているつもりもない。たいへん立派な仕事をされた方だなと尊敬はしているが、それ以上の深いコミットは存在しないのだ。

だから私は一度ゼロ地点に立ち返って考え直すべきなのだろう。私が興味を持ち、日々行っていることははたして何と呼べるのだろうか、と。これまで有用に使われていた言葉から距離を置くのは、まるで冬場に革ジャンを捨て去るくらいの震えを感じるが、それでも「自分の仕事」を始めるためにはどうしても避けられないように思う。

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