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助動という考え方 / 小さく儚い情報たち / WorkFlowyの柔らかさ / 来るべきノウハウ書に向けて

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2023/06/12 第661号

はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇BC065「英語・数学・プログラミングを学ぶ」 | by goryugo and 倉下忠憲@rashita2

今回は倉下のターンで3冊の「勉強本」を紹介しました。英語、数学、プログラミングに関する勉強本です。

とは言え、これらの本は一般的な「勉強」とは違った視点で「人が対象を学ぶこと」を展開していて、その点が魅力的です。倉下が「勉強」と呼ばない学習はだいたいこれらを指しています。

よろしければお聞きください。

〜〜〜ただ他人がやっているだけ〜〜〜

自分としては何も変化がなくても、ただある行為を他の人がやっているのを見るだけで、その行為に対するモチベーションが湧いてくることがあります。

タスクリストを見てもやる気が湧かない。他の人から命令されるなんてもってのほか。でも、誰かがそれをやっているのを見ると「やってみようかな」という気持ちになる。

人間とは不思議なものです。心は外部に開かれているのでしょう。

おそらくは二つ原因があって、一つは「それは実際にできることなのだ」という実行可能性が実感的に把握できること。もう一つは具体的な行動のイメージがそれ以上ないくらい具体的な情報として知覚されることです。

この辺の話はかなり込み入ってきそうなので今回は割愛しますが、「人が何かをし、その姿を他者に晒すことは、他者に対して影響を持つ(外部性がある)」という点は意識しておきたいところです。

〜〜〜自分ができること〜〜〜

知的生産の技術を探求していると、そこに多様な方法が展開されていることがわかります。文章の書き方ひとつとっても、人によって違いがあって、まったく同じ方法はありません。

ある人は綿密に構成を立て、別のある人は一行目から思いつくままに展開していきます。前者をコンテ派、後者を流れ派と呼んだとしても、その流派の中にさらに多様な違いが含まれています。

これから文章を書こうとする人、あるいはその方法を学ぼうとする人にとっては、「無限の可能性」が目の前に広がっているように思えるでしょう。どんな書き方も方法としてありうるのだ、という希望めいた予感がするはずです。

そうした「無限の方法」的集合の中には、効率がよいものもあれば、そうでないものもあるでしょう。高い質を担保できるものもあれば、そうでないものもあるかもしれません。

だったら「一番よい方法」が欲しくなりますね。

残念ながら、「方法」というのはそんな風に選べるものではありません。新車を買うときにあらゆるオプションとカスタマイズを組み合わせて「自分好みの車」を作るようなセレクトはできないのです。

「自分にできることは、自分にできることだけ」

これはまったくもってトートロジーですが、トートロジーであるがゆえに偽が含まれていません。同様に「自分が書ける書き方は、自分が書ける書き方だけ」という命題も偽ではないのです。

方法それ自体が無限にあるとしても、自分が選べるものはごく限られています。それは人間が無機質な存在ではなく、経験によって能力を獲得していく存在だからです。人には歴史があるのです。

もちろん脳には可塑性があるので、ある時点から一生懸命修業すればそれまでに使えなかったやり方が使えるようにはなるでしょう。しかしそれは想像するよりもずっと時間のかかることです。しかも、ようやく使えるようになって、はじめて「それまでと同じクオリティーのものができる」レベルでしかありません。

だとすれば、今自分が書けるやり方をベースにして、そこから少しずつ変化を生み出していく方が好ましいと言えるのではないでしょうか。

あるいは好ましさ以前の問題として、そもそも人間にとって無限の選択肢など混乱のもとでしかない、という話もありそうです。可能性としてさまざまな方法に思いをはせるのは楽しいものですが、現実的に本当に無限の選択肢から選ばなくなったらきっと何も選べなくなるでしょう。

だからまあ、今の自分が書けているなら、そこからスタートするのがよいのだと思います。そこで立ち止まるのではなく、そこをスタートにする。それがポイントです。

皆さんはいかがでしょうか。方法についてどんな期待をしていますか。あるいは方法とどんなつき合い方をしていますか。よろしければお聞かせください。

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では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は4つのエッセイをお送りします。

助動という考え方

前回「自己助動」というネーミングを提唱しました。予定では、今回はその中身について考えていくつもりだったのですが、「助動」という概念そのものも遊び甲斐があるなと気がつきました。

ですので、今回は「自己助動」という概念を掘り下げてみます。

■助動

助動のコンセプトは「動きを助ける」です。積極的、能動的、根源的に「動かす」のではなく、「動き」を補助すること。

そうした考え方の背景にあるのが「人は動くものだ」という視点です。なにせ人間は動物ですからね。動くことはお手の物というか、動くためにさまざまな器官・筋肉・骨といったものが組成されています。

人はアプリオリに動くものである。しかし、何かしらによってその動きが阻害されてしまうことある。あるいは好ましくない方向に動いてしまうことがある。そうした状態に変化を与えるのが「助動」です。

行動経済学にナッジという考え方があり、それは「ちょっと小突く」という言葉の感覚から来ていて、力強く押し込むのではない、というニュアンスがあるのですが、それと似ているかもしれません。あるいは「小突く」というよりは「ちょっと引っ張る」くらいの感覚。

なんであれ、もともと対象には動く力があり、その力を活かすことが助動の姿勢です。まかり間違っても、「こちらの意図する通りに動かしてやろう」というのではありません。そうした意図は、対象が本来的に持つ動く力を貶める結果になってしまうでしょう。別の言い方をすれば、主体性(エージェンシー)が疎外されてしまうのです。これは嬉しい結果ではありません。

よって基本となるのは「人は基本的に動く力を持っているのだ」という観点です。その観点をベースに、力の流れを整えるのが助動というアプローチになります。

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