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何のためのメモ/記憶の形と構成/精神の自由/ネットワークの取り込み

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/09/23 第467号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。

今週も不調が続いておりますので「はじめに」は短めです。また、本編は「断片」が多めの変則号となっております。
※ただし分量はそこそこあります。

〜〜〜医者のあたりはずれ〜〜〜

35歳くらいまではほとんど病院に行かない健康優良児として生活していたのですが、さすがに40歳も手前となると──不摂生もたたって──病院にいくことが増えてきました。

で、いくつか病院を訪ね回るうちに──こういう言い方はどうかと思いますが──お医者さんにも「あたり」と「はずれ」があるのだなと気がついた次第です(もしかしたら、これは世間の常識なのかもしれません)。

もちろんこれは医療技術の話ではありません。というか、そんなものを見極める知識は私にはありません。簡単に言えば、「接客」の話です。

ある先生は、会って話をするだけで、ほっと落ち着くような安心感を与えてくれます。こちらの話を聞き、ちょっとした世間話なんかも交えながら、私が不安に思っていることを聞き出してくれるからでしょう。

一方ある先生は、こちらが症状を説明しだした途端、脳内のフローチャートが激しく稼働し、処方する薬を高速で決定して、まるで動画サイトの2倍速モードで再生しているかのような早口で私に説明し、「他に何かありますか?」というほとんど修辞疑問のようなセリフで診察を終わらせようとします。私の中にある不安感は一切ぬぐえていないのですが、たぶんこれ以上話しても意味はないな、という無力感が私を退室に向かわせます。

もちろん、事情はいろいろあろうかと思います。特に混雑している病院なら、一人ひとりの患者さんにあまり時間をかけていられません。ということを頭では理解していても、やっぱり感情的には「あたり」と「はずれ」マークをつけてしまうのは止められないものです。

〜〜〜元気を出す言葉〜〜〜

オダトモヒトさんの『古見さんは、コミュ症です。』という青春ラブコメ漫画があります。タイトルからわかる通り、人と接するのが苦手な美少女が織りなす人間関係がテーマの漫画です。

で、その主人公である古見さんが、頑張って人に話しかけようとするときにつかう言葉があります。

「フンス!」

てのひらを上にし、脇を締め、ぎゅっと拳を握りしめて、「フンス!」と気合いを入れるのです。
※ぐぐる→https://www.google.com/search?q=%E5%8F%A4%E8%A6%8B%E3%80%80%E3%83%95%E3%83%B3%E3%82%B9

で、現在我が家でこの言葉が大流行していまして、よし頑張ろうというときに、妻と二人で「フンス!」と拳を握りしめると、不思議なことにちょっとばかり元気が出てきます。

もちろん、遊びというか他愛ないおまじないでしかありません。それでも、そうしたものがあるというのは、なかなか良いものです。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

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 ドゥルーズ的思考をドゥルーズを越えて過激に展開する哲学者の空前の達成。媒介と様相にまみれた既成の哲学の対極に「来るべき民衆」としての生成変化の哲学をうちたてる。
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 《空間》と《場所》に焦点を合わせた
「アルコール・スタディーズ」初の試み――
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 哲人たちの「死」についての思索と苦悩 本書で取り上げる「哲学者」とは、釈迦、ソクラテス、プラトン、イエス・キリスト、空海、源信から、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、カール・セーガン、手塚治虫といった「死」について考え抜いた偉人たち。
 「哲学者」とはいえ、ご覧のように哲学者だけでなく、宗教者もマンガ家も科学者も入っています。本書では、彼らを総称して「哲学者」「哲人」「先哲」としています。そんな先哲たちの「死」ついての思索(死生観)と、彼ら自身が一人の人間として「死」にどう立ち向かったかをたどります
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さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 元気を出すための言葉は何かお持ちですか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/09/23 第467号の目次
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○「何のためのメモ」 #メモの育て方

○「記憶の形と構成」 #断片

○「精神の自由」 #断片

○「ネットワークの取り込み」 #断片

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「何のためのメモ」 #メモの育て方

知的生産の事始めは何かと言えば、やっぱりそれは「メモを取ること」です。この「メモ」が何を含意するかはさておき、何かを書き留めることがまったくないのであれば、知的生産は進めづらいでしょう。

一方で、タスク管理の事始めはというと、やっぱり「メモを取ること」になりそうです。GTDを筆頭に、「何か気になること」をまず書き留めて、それを処理せよと教える仕事術は多いですし、それを欠いてタスク管理を進めることは難しいだろうと予想します。

では、ここにある共通点はいったい何なのでしょうか。

「タスクはメモであり、メモはタスクである」

おそらくこういう言い方はできるでしょう。「あっ、あれをやらないといけない」という思いつき(のメモ)からタスクが立ち上がるのですから、タスクはメモであると言えます。

また、何か着想を書き留めた(アイデア)メモは、「これは何かしらの処理を施さなければいけない」というタスク性を帯びています。たとえば、1.これについて何か記事を書く 2. 少し調べてまとめておく 3. 執筆中の原稿に反映する、などといった処理です。

あっと驚くような閃きでも、その閃きが何かしらの動作を要求するのであれば、その(アイデア)メモは、タスクでもあります。だからこそ、「タスクはメモであり、メモはタスクである」と言えるわけです。

話をここで終えたのならば「共通点あるよね〜」というノリで幕が閉じてしまうのですが、もう少し突っ込んで考えてみましょう。

なぜ、そんな共通点があるのか?

その問いは、「書き留める」という行為に注目することで、解への道筋が見えてくるかもしれません。

そもそも、なぜ知的生産やタスク管理はメモすることを我々に課すのでしょうか。

もちろんそれは、私たちの脳が頼りないからです。次に(あるいは一ヶ月後に)やろうと思ったことを覚えておけないから、あるいは今度書こうとしたエピソードを記憶に留めておけないから、私たちは書き留めます(ルビ:メモします)。

つまり、脳の補助記憶装置として、書き留めたものを扱うのです。

現代では、むしろ脳の保存容量よりも大きいデータを外部に保存できるので、一体どちらが補助なのかわからなくなりつつあるような問題もありますが、それは脱線なので、ここでは割愛しておきましょう。

ともかく、私たちは脳が(主には短期記憶が)処理できない量の情報を、処理するために書き留めることを行うわけです。

ここまでは、特に問題はないでしょう。問題があるとすれば、次の問いです。

「ではなぜ、私たちは脳が処理できない量の情報を処理しようとしているのか」

この問いは少々厄介です。

たとえば、はるか、はるか、はるか古代の人類であれば、人々は何の「書き留め」も持たずに生活していたでしょう。洞窟に残された壁画などはありますが、日常生活に役立てていたとは思えません。

人々は、自分の脳で対応できるだけのタスクやアイデアだけで日々を暮らしていたのでないでしょうか。

現代の私たちが、そのような生活ではとてもやっていけないのは、あまりに多すぎる要求に晒されているからです。それは社会的な要求でもありますし、また自分自身の欲望でもあります。

どちらにせよ、生物として持つ記憶力よりもはるかに多い情報を用いて行動を起こしていく必要があるからこそ、私たちは「書き留める」必要があるのです。

無論、それが現代の文明を築いてきたことは論を俟ちません。誰も「書き留めない」世界では、科学の発展は望めなかったでしょう。

それでも、一応は気に留めておきたいところです。私たちは、脳以上の情報処理をしようとしているのだと。そのことには、必ず良い側面がありながらも、そうでない側面もきっと潜んでいるだろうと。

知的生産やタスク管理についてさまざまに考察していく前に、押さえておきたいポイントです。

さて、話を少し戻しましょう。

知的生産にせよ、タスク管理にせよ、書き留めること(ルビ:メモすること)が必須なのは、記憶があやふやだからでした。

しかし、いくら記憶があやふやだからといって、自分の目に入ったすべての映像を保存することはしないでしょうし、散れぢれに思い浮かぶ雑念や感情の高ぶり、他人への欲望を赤裸々にメモすることもしないでしょう。そこには、何かしら恣意的な選別が働いています。

「思いついたことを何でもメモしましょう」と謳うメモ術ですら、メモされないことはあるはずです(特に、書籍でメモ術を発表する著者ほど、そういう非メモは多いと想像します)。たとえば、しょーもないオヤジギャグはメモされるかもしれませんが、他人への罵倒やひどい自己嫌悪の感情はメモされないでしょう。あるいは、気になったセクシーアイドルの名前なども、おそらく記録されないのではないでしょうか。

つまり、「思いついたことを何でもメモしましょう」と言ったところでそれは表面的な言い方というか、ある種の文章的誇張であって、実際は、「ある心の動きとして着想したことは何でも」というのが正確な表現なはずです。

タスク管理においても、「地球が平和になったらいいのにな」とメモする人はほとんどいないでしょうし、「サンタクロースの正体が子どもにバレないようにする」と書き込む人もやっぱりあまりいないでしょう。ここにも、何かしらの選別が働いているわけです。

では、その選別とは何でしょうか。

私たちが、日常的に目に入る風景の全てを記録しようとは思わないのは、それに利用価値があるとは思わないからです。

もちろん実際のところはわかりません。そのような風景の全データの中に、何かしら後から価値が見出せるものが含まれていることは十分にありえます。たとえば、ひき逃げの犯人が映っていた……というのは少々極端な例ですが、何かしら利用価値があるものが出てきてもおかしくはありません。

しかし、それはそれとして、私たちがそのような風景データに、その時点では価値を見出してないこともまた確かでしょう。だから、わざわざ残そうとは思わないわけです。

逆に言えば、私たちが何かを記録に残そうとするとき、あるいは書き留めようとするとき、そこには価値あるいは価値の萌芽を感じ取っているということになります。

今、きわめて当たり前の話をしているように思われますが、これは非常に重要なことです。

それはたとえば、大量のデジタル情報をどのように扱うのか、仕事のタスク管理の問題点とは何か、異なる時間における「ふたりの自分」による価値の揺れ、といったことに強く関わってきます。

しかし、この話は、後々展開していくことになるでしょうから、今のところは軽く触れるに留めましょう。

ともかく、価値あるいは価値の萌芽を感じているものを書き留めるのがメモです。ではなぜ、それをするのかと言えば、その時点よりも、少し後の(≒未来の)自分に影響を与えるためです。あるいはそういう欲望を持つからです。

もしそのような欲望をいっさい何も感じていないなら、人はわざわざ書き残そうとはしないでしょう。もちろん、「書き留める」という行為自体に、未来への投資価値とはまた別の、現在的な(あるいは瞬間的な)価値があることはたしかであり、それを理由に書き留めることをしている人はいるかもしれません。

しかし、知的生産やタスク管理において、書き留めることが要求するのは、その時点よりも少し先の自分・未来に影響を与えるためです。

そして、その視点を採用すれば、ここでは「タスク管理」や「知的生産」という線引きは急激に無効化され、むしろ「メモの技術」という新しい観点が立ち上がってきます。その観点は、知的生産やタスク管理を内包する、一つ上の階層からの視点と言えるでしょう。

これから考えていきたいのは、そのような視点です。知的生産だけでも、タスク管理だけでもない話。それを掘り下げていきましょう。

(つづく)

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