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『すべてはノートからはじまる』と『知的生産の技術』

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/08/23 第567号

○「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇BC018 アフタートーク&倉下メモ - by goryugo and 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

第18回のアフタートークです。加えて、もう一つ記事が公開されました。

◇ブックカタリストのサポータープランについて - by goryugo - ブックカタリスト

こちらはブックカタリストの「サポータープラン」です。ポッドキャスト自体は今後も無料で視聴できますが、今後の番組の発展のために(たとえば機材購入費用など)応援していただけるならばよろしくお願いいたします。

〜〜〜2刷出来〜〜〜

『すべてはノートからはじまる』の2刷ができあがったそうです。

現状Amazonでも購入はできるのですが、Amazonではない販売店からの発売となっていて、定価ではありません。Amazonに在庫がないということなのでしょう。売れていること自体は嬉しい反面、(小売業経験者なので)品切れ状態は心苦しくもあります。

2刷ができたので、徐々にそういう在庫不足も解消されていくでしょう。まずはよかったです。

〜〜〜集中するための儀式〜〜〜

「よし、この時間からは集中して原稿を書くぞ」、となったらWebブラウザ(Firefox)を閉じるようにしています。そしてテキストエディタに向き合います。

逆に言えば、そういう瞬間以外はブラウザは開きっぱなしということです。他の作業をしていても、常にブラウザはそこにあるのです。これは、WorkFlowyやScrapboxなどの情報ツールを必要に応じてすぐに開きたいからなのですが、ついついTwitterを開いてしまうトラップがあります。そして脇道へGoです。

だったら、はじめからブラウザを開かなければいいのですが、むしろ「よし、ブラウザを閉じよう」というその気持ちが、モードのスイッチになっている節もあります。メリハリがある、ということです。

気持ちがフラットのまま、すぐに原稿に集中できるのが一番効率良い形なのでしょうが、個人的にはメリハリがある方が(多少非効率であっても)楽しく感じます。もちろん、個人差はあるかと思いますが。

〜〜〜身にしみている情報ツール〜〜〜

本当にたくさんの情報ツールを触ってきましたが(そして時間と共に疎遠になってきましたが)、

・気楽で開放的で(ややノイズがある)Twitter
・部品的・途中的・非同期的に話ができるScrapbox

の二つは、いまのところまったく代替がありません。「それっぽい」ことができるツールはありますが、どうあがいてもその代わりにはならない存在感があります。

でもって、この二つは(細かい定義はさておいて)ある種のコミュニケーションツールです。その先に「人」がいるツールなのです。

そう考えると、やっぱり人間は社会的な動物なのでしょう。

〜〜〜「らしさ」とdisturb〜〜〜

かーそる第四号が無事出版され、ぼちぼちと第五号の制作に向けて動いております。

第五号では、通常の執筆陣に加えて、新しい方が原稿を寄せてくれる運びとなりました。最初のメンバーのまま固定するつもりはまったくありませんので、新しい参加者さんは嬉しいものです。

でもって、そうやって新しい参加者さんが加わることで、これまでの「かーそるらしさ」みたいなものが変わってしまう部分は出てくるでしょう。少なくとも、「これがかーそるである」という理念を先駆的に決定し、執筆陣にその理念に従うよう要請をしているわけではないので、参加する人によって雑誌の色合いは確実に変わってきます。

で、それで良いと思います。自分で決めた理念に縛られて身動きが取れなくなるくらいなら、そのときどきの参加者さんに「攪拌」されて、いろいろ動き回っていく方がはるかに健全です。

その上で、全体を通して何となく感じられる「かーそるらしさ」みたいなものが浮かび上がってくるならば、それはやっぱり嬉しいことでしょう。

〜〜〜ゆっくり本を読む環境を作る〜〜〜

新刊発売後、イベントやらエゴサーチやらで慌ただしい日々を送っていました。すると、どうなるかというと落ち着いて本を読むことができません。イベントのことが気になったり、エゴサーチのことが気になったりして、本に「入り込む」ことができないのです。

一応差し迫った締め切りみたいなものはなく、ある意味で「時間」はたっぷりあるわけですが、だからといってゆっくり本が読めるかというと、それは別の話なわけです。

『本好きの下克上』という作品では、主人公のマイン(たいへんな読書好き)がゆっくり本を読む環境を整えるために悪戦苦闘するエピソードが出てきますが、そういう気持ちってよくわかります。一通り周りのことを片づけておかないと、落ち着いて本が読めないのです。

GTDなどの「整理術」が役立つのも、こうした文脈においてなのだと思います。

〜〜〜書ける目次案〜〜〜

ごくあたり前のことですが、自分が立てた目標があるにして、その目標を自分で達成できるとは限りません。「目標を立てる」系の話がややこしいのは、そういう「無理な目標」があるからです。

同様に、自分が立てた目次案があるにして、その目次案通りに(あるいはその水準で)原稿が書けるとは限りません。実際に書いてみて、「こりゃ、無理だ」と思うことは確かにあります。

そのようなギャップに遭遇するのはつらいものですが、このことを逆に捉えると、「人間は、自分が書けるとは限らない目次案を作ることができる」という突飛な能力の発露だとも考えられます。なかなか他の動物にできることではないでしょう。

そして、その「書けもしない目次案」に引っ張られるように「今の自分が書ける原稿」の上限が少しだけ(あくまで少しだけ)かさ上げされるようなこともあります。背伸びをするからこそ、できることもあるということです。

もちろん伸び過ぎたら転んでしまうので程度の問題ではありますが、「理想なんて必要ない」という言説は私にはあまりに退屈に感じられる次第です。

〜〜〜負荷との付き合い〜〜〜

4つ思っていることがあります。

その1.効率的に学ぶことは大切だし、必要なことではあるが、効率性をとことん追求して「動かない筋トレ」的なところまで行ってしまっては、なんだかおかしなことになってしまう。ある種の負荷は避けがたい。

その2.「無駄なことはしたくない」という気持ちもよくわかるが、何かを無駄かどうかを判断しているその自分の判断力が未熟である可能性がいつでもある。

その3.何かのノウハウを「売る」ために受け手の判断力を落とすような提示の仕方がされることがあって、それは一つの手法ではあるのだけども、考えるためのノウハウでそれをやるとおかしなことになる。

その4.ぱっと何かを思いついてそのまま提出するのではなく、一旦立ち止まって「まてよ」「もしかしたら」という工程を入れること。そうしたところでそれが「完全」に至れるわけではないが、少しはマシになる。

なんとなく、全体的に言いたいことが通底している気がします。まだうまく言葉にできませんが。

同様に「ファスト教養」(ファストフードの教養版みたいな概念)という言葉を見かけて、そのいびつさについてずっと考えているのですが、それも上の話に通じることだと思います。

この話はまたどこかで深めるとしましょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 集中のための「儀式」を教えてください。それともそんなものは不要でしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は拙著新刊についていろいろ書いてきた8月の最終回となります。そこで、拙著新刊と某名著との「共通点」について考えてみましょう。

○「『すべてはノートからはじまる』と『知的生産の技術』」

『すべてはノートからはじまる』が出版された後、何人かの方から「これは現代における『知的生産の技術』的な本になるのではないか」(意訳)という感想をいただきました。少しびっくりしました。

◇倉下忠憲『すべてはノートからはじまる』について - Word Piece


でも現代の「知的生産の技術」のあり方について考えるのは容易なことではない。
(中略)
……という背景の中で、『すべてはノートからはじまる』を読んでいて思ったのは、この本は『すべては知的生産からはじまる』にタイトルに変えても通用する内容になっている、ということだ。
<<

◇知的生産って?と、かーそると、すべてはノートからはじまると – iPhoneと本と数学となんやかんやと


まだすべてを読んだわけではありませんが、読み始めてすぐ感じたのが、「これこそが知的生産の技術ではないか」「ここで語られている記録術についての話と知的生産とは同一のものであると言えるのではないか」といったもの。

確認しておきたいのは、第一に、私の中にはずいぶん前から現代における知的生産の意義やその技術の重要性を説きたいという思いがあった、ということ。第二に、そうはいってもこの本でそれを為そうとは1mmも考えていなかった、ということ。ここに不思議な謎があります。

なぜ「そうは意識していないのに、これこそが知的生産の技術ではないか」と言ってもらえるような本になったのか?

名著として名高い『知的生産の技術』と自分の本を並べて語るのはいささかのおこがましさはありますが、それでも同じ「新書」という土俵に乗っている点は間違いありません。よって、一観察者の視点から、この二冊の本の相似性を確認してみたいと思います。

■自分の本のコンセプト

まず拙著のコンセプトを振り返っておきましょう。前号で本書のコンセプトの「歴史」を開示しましたが、どの段階をとっても「現代における『知的生産の技術』を作ろうぜ」という意気込みは見つけられません。本当にただただ「ノートについて」書こうとしていただけです。

たとえば、一番最初のコンセプトは以下でした。

>>
仕事・学業・セルフマネジメント全般において活躍するノート。アナログノートだけではなく、現代ではデジタルノートも一般的になりつつある。広義で言えば、ブログやwikiもまたノートと言える。それを自分の力に変えるにはどうすればいいか。具体的すぎる一つの「ノート術・ノート法」ではなく、人間が記録し、それを利用するという観点でアプローチする。
<<

「知的生産」という言葉はどこにも出てきません。「知的生産の技術」っぽさもほとんどないでしょう。

一方で作業の終点となる「タイトルを考える」段階になると(564号で紹介しました)、「知的生活」という言葉が出てきます。

・5秒でできる創造的生活
・世界一手軽な知的生活入門
・今日からできる未来思考
・あなたの人生を変えるノート術

とは言え、これは「このような行為を総括するとしたらどんな言葉になるだろうか」と考えて捻出されたものであり、つまり「結果的に」生まれたものに過ぎません。そして、そうであってもそこには「知的生産」という言葉は出てきません。最初から最後まで、私はこの本と『知的生産の技術』が関係するなどとは露ほどもイメージしてなかったのです。

にも関わらず、この本を読んだ人に「知的生産の技術」というキーワードを彷彿させる内容になっているのですから、実に興味深いものです。

しかも、私がずっと「知的生産の技術を現代において提出するためにどんな〈言い換え〉がよいのか」を考え続けていたのに、その答えは手にできていなかった、という点が興味深さに拍車をかけます。ずっとずっと求めていたものが、ぜんぜん意図しない形で手に入っているのです。ここには探究すべきtopicがいくつも眠っています。

■目指していたもの

著者(私のことです)の問題意識をもう一度発掘しておきましょう。最初に提出したこの本のもっとも「ごちゃっとした」企画コンセプトが以下です。

情報を保存し、あとから利用できるようにするものの総体をノートと呼ぶとき、私たちの生活はノートで満たされている。意識しようがしまいがノートは溢れかえり、私たちの生活を支えている。その力は、自分の仕事や生活に活かすこともできる。

人間の記憶力は不確かで、認知には偏りがある。行動経済学が示すように、提示された情報によって決断が変わってしまうことも少なくない。合理的な存在とは言い難い。情報環境に強い影響を受ける。しかし、人間はただ情報環境に流されるだけではない。自分で、自分の情報環境を作っていける。それがノートを使うということ。

情報の流れが高速化・混濁化している現在において、自分の情報環境を自分で構築していくことは極めて重要になっている。そこで、基本的なノートの使い方から、さまざまなノートに関する技法を紹介し、情報環境の構築に役立つ情報を提供する。

重要なのは、何かうまくいく「ノート術」を知ることではなく、状況や自分の目的に合わせて適切なノートの使い方を自分でジェネレートできるようになること。学校教育が基本的に画一的なメソッドの教授に終わってしまうことに対して、大人のノート術は、画一性から離れ、多様性を受容できるメソッドになりうる。その意味でも、多様なノート術の情報に触れておくのは有益である。

また、自分なりのノート術を開発し、そのノートを書き続けていくことは、自分が進む道の支援者を自ら作ることにつながる。大勢から離れ、自分だけの道を歩いていくとき、その道は、教科書もなければ、頼りになる人もほとんど見つからない獣道になる。しかし、自分がつけてきた記録は、そこから自分が進むための指針になりうる。情報を残し、記録をつけ、思考を綴るとき、もう一人の自分がそこに刻まれている。その存在は、心強い支援者になってくれる。

つまり、ノートを自由に使うこと=ノートを自由(のために)使うこと、となる。

加えて、そのような記録をインターネットに向かって公開することで、同時代において同じようにひとりで歩こうとしている人たちや、その後に続く人間への強力なエンハンスになる。「自分」の記録が、「自分たち」の記録に変質する。これまでそのような記録は「本」の形でしか残されてこなかったが、デジタル・インターネット時代ではそのような記録がより広く開かれることになる。

もちろん、デジタルツールならではの問題や制約もあるので、その点も踏まえた上で、自分と他人をつなぐことができるデジタルノートの強力な力とその課題を紹介する。

いろいろな要素が入っていますが、ざっと列挙すれば以下の4点がポイントになるでしょう。

・私たちは情報環境に影響を受ける
・その環境を自分で作っていける
・画一的なメソッドからパーソナルなメソッドへ
・「自分」から「自分たち」へひらく

この4点を意識して、さらに要約(文章化)してみます。

要約開始:

デジタル・インターネットがあたり前になったことで、私たちの情報環境は変わりつつある。しかし個人の人生にとって良い方向に向かっているかというと断言はしづらい。しかし、私たちは単に情報環境に流されているだけでなく、自分でその環境を作っていくことができる。自らで作り出した環境が、自分がどう生きていくかを方向づけ、サポートしてくれる力を持つ。情報の力を活かすのだ。

また、その情報の力は単に自己を助ける自己啓発的なものだけでなく、自分と他者をつなぐノードにもなってくれる。個人が社会の中で生きようとするとき、そうしたノードを自分なりに作っていけることは大切だ。そしてそうした活動の総体こそが、まさに「その人らしさ」へと繋がっていくのである。

:要約終了

といった感じで書いてみると、情報環境と社会の変化を視野に入れながら、そこで個人がどのようにたちふるまうのが有効なのかを論じよう、としていたことがわかります。

あれっ、これ、どこかで見たことありますね。

(下につづく)

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