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執筆における助動 / Evernoteのシン運用の続報 / ツールを使う指針の変化

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2023/06/19 第662号

はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百二十九回:Tak.さんと優先順位について 作成者:うちあわせCast

一見、仕事術の話をしているタイトルに思われますが、全体的にディープな話になりました。なんであれ「それは何の問題なのか」を検討することは有用だと思います。

よろしければお聞きください。

〜〜〜表現と概念〜〜〜

何かの記事を読んでいたら、タスク管理の文脈で「プロジェクト」という言葉が使われていたのですが、それを見てちょっとびっくりしました。「タスクと違って、プロジェクトは終わりがないものだ」と定義されていたのです。

言いたいことはわかります。ライフワーク的なものをプロジェクトと呼ぶことは珍しくありません。日常用語の範囲ではあるでしょう。しかし、タスク管理の文脈ではプロジェクトは「終わりがあるもの」としてよく定義されています。まったく逆の意味なのです。

とは言え、その定義が間違っていると糾弾したいわけではありません。所詮「用語」であり、一般的な定義もあれば、そうでない定義もあります。通じやすい通じにくいの違いはあれど、正解も間違いもないでしょう。

もし哲学的にアプローチするならば、projectという言葉の語源を調べ、どちらの意味の方がより適切なのかと探求する方法もあるでしょうが、実務技能の話でそこまで求めるのは酷でしょう。実務の話が通じるならぶっちゃけなんでもいいとは思います。

しかし、「プロジェクト」を終わりがあるものとするのかないものとするのかという違いはあれど、"一定期間において継続的に行われる営み"と"終わりがなく永続的・持続的に行われる営み"という区別が存在していることは共通しています。「プロジェクト」という言葉が"表現"だとすれば、その意味と区分は"概念"だと言えるでしょう。

大切なのは、表現を統一することではなく、概念を揃えることです。概念さえ揃っていれば、相手が違う言葉を使っていても「ああ、あれのことだな」とわかります(アメリカ人がネコを指差して"Cat"と言っても理解できるように)。

倉下が切実に求めているのは、そういう意味合いでの概念の整理です。概念さえ適切に整理されていれば、お互いが持つ実務技能ついての意見や情報を交換しやすくなると思うからです。

だから今後も、そうした概念の整理に取り組んでいきたいと思います。

〜〜〜Scrapboxのすごさ〜〜〜

先日、数年前に自分が書いたScrapboxの解説記事を読んだのですが、まったく古びていないことに驚きました。自画自賛ではありません。Scrapboxがまったく同じように使えることに驚いたのです。

さすがに数年も経つとメニューの配置などに違いは出てきていますが、それ以外はまったく変わりません。基本的な操作方法は同じで、使い方も変わりません。強力な機能が増えたから、まったく新しいことができるようになった、ということがないのです。

昨今のITの流れに慣れ切っていると、上記の表現はディスっているように感じるかもしれませんがもちろん逆です。そうした流れにあってなお、初心者を置き去りにしない、ユーザーにキャッチアップを強要しない姿勢を維持できていることに驚嘆しているのです。

ちなみに目立つ新機能の追加はなくても、細かく地味なアップデートは頻繁に行われています。ようは「開発の手をかける場所」が他のツールと違っているのでしょう。

おかげでScrapboxは一度習得したら、あとはもうScrapboxについて考えることは不要になります。書くことに集中できるのです。それがどれだけありがたく、嬉しいことなのか。

10年前の私はまったく気がついていなかったことでした。

〜〜〜「自分の方法」〜〜〜

すごく個人的な希望なのですが(すべての希望は個人的なものなのかもしれませんが)、この日本社会で「自分の方法を生み出す」という考え方が広まるといいなと思っています。

だって、そうした「方法」が一番自分の手にしっかりフィットするはずですから。どうせなら、そういう方法でやっていきたいところです。

しかしながら、昨今の日本社会ではそうした観点は希薄です。マニュアルやテンプレートなどの「正解」があり、それを手にしたらどんな問題も解決できる。そんな価値観がうっすらと感じられます。

そうした価値観にあっては、そもそもとして「自分の方法」という観念が成り立たないでしょう。あるいは成立するにしてもそれは良いものというよりは忌避されるべきものとして認識されるかもしれません。当然そうしたものを「生み出す」という視点も育まれません。

別に「学校教育を革命せよ!」のような話をしたいのではなく、日常のどこかに(あるいは人生のどこかに)「自分の方法」が成立する余地があったらいいなと思うのです。そうしたスペースの中で自分の方法を生み出していくという営みがあればいいな、と。

そのようにして方法を自分なりに生み出すことに慣れていけば、引いては「自分の生き方を生み出す」ということにもつながっていくでしょう。これは広く必要なことだと、個人的には考えています。

〜〜〜『学校DX物語』〜〜〜

『逆境に負けない 学校DX物語』という本を献本いただきました。

『逆境に負けない 学校DX物語』(魚住惇)

県立高校において、DX(Digital Transformation)化を試みる一人の教師の物語です(フィクションではなくノンフィクションです)。

タイトルに「逆境に負けない」とありますが、たしかに逆境だらけの状況で、自分だったら早々に放棄しているか仕事をやめちゃっているだろうなと思われる場面がたくさんありました。お疲れさまです。

で、いろいろ思うところはあるのですが、結局のところ仕事というのは「人」なのだなとを改めて確認しました。システムやツールが整備されたにしても、やはり人が動いてナンボであり、それが動かなければどうしようもない、と。

でもって人を動かすのはITシステムではないのですね。ここが大切だと思います。

結城浩さんの箴言に「読者のことを考える」がありますが、教師の場合であればその受け手は「生徒」になるでしょう。先生はいかに生徒を動かせるか(その心や頭を動かせるか)を考えること。それが大切でしょう。

でもって、教師は学校という組織で働く一メンバーでもあり、そこでは同僚や上長もまた受け手になります。特にDXの導入は、仕事の仕方がかなり変わってしまう部分があり、同僚や上長も「勝手にやれば」というわけにはいきません。その人たちの心を動かす必要があります。

その際に、そうした人たちのことをどれだけ考えられるかが大切なのでしょう。それができずに「合理的だからやりましょう。やらないのは愚かです」みたいな雰囲気になってしまっては──生徒にそんなことをいっても動かないはずです──うまくはいきません。

やや極端なことを言うと、ITにおいて一番邪魔なのは「人」です(あるいは人の心です)。そんなものがなければ、情報処理は圧倒的に高速になります。IT好きの人はこういう考え方をよくするのですが(私もその一人です)、だいぶ傲慢な考え方だと今は思います。

私も妻に「便利なITツール」を教えてそれを使ってもらえないことにイライラを感じてしまうことがあるわけですが、心が狭いのは明らかに私でしょう。"啓蒙者"の傲慢さがそこにはあると感じます。

本書を読むと、何か新しいことを導入する難しさと共に、「人」を置き去りにするとだいたい厄介なことになるというリアルな現実がよくわかります。逆に「人」が寄り添ってくれると驚くほどの成果があることもわかります。

皆さんはいかがでしょうか。自分が先導して新しいものを導入し、うまくいった経験はあるでしょうか。あるいはうまくいかなかった経験は。そのときのエピソードなどがあればぜひ教えてください。

ではメルマガ本編をスタートしましょう。今回は3つのエッセイをお送りします。

執筆における助動

最近、私の中でホットな概念となっている「助動」ですが、これは執筆においても使える概念だと思います。

「執筆の動きを助けること」

あらゆる執筆術はそのようなものであるべきでしょう。

■二つのアプローチ

執筆法・文章術は、その性質によって大きく二つに分類できます。一つは、特に書きたいことがあるわけではないが、役割上仕方がなく書かなければいけないのでそれをサポートする方法。もう一つは、書きたいことがあって、それをできるだけ「うまく」書くことをサポートする方法。

この二つの方法は、似た要素があるにしても根本的な部分が違っています。土台が別物なのです。もちろん、片方からもう片方に「変換」する手法もあって(興味がない対象について興味を持つように促す方法など)、それはそれで有用なのですが、変換があるからといって二つを同一のものだと仮定する必要はないでしょう。むしろ、変換を必要とするくらいに別物だと考えておく方が良さそうです。

ちなみに、その変換も一つの「動きのサポート」なわけですが今回は立ち入りません。あくまで二つの執筆法タイプに絞って話を進めます。

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