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「Muteの魔法 第二章」

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/04/19 第549号

○「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

第六十六回:Tak.さんと日記とログの違いについて by うちあわせCast | A podcast on Anchor

第10回:『世界は贈与でできている』 - ブックカタリスト

ブックカタリストで『世界は贈与でできている』を紹介したところ、著者の方からツイートを頂きました。こういうのはやっぱり嬉しいですね。

あと、自分が読んだ本を他の人に説明すると、急激に理解度があがります。知的生産としてみても、ブックカタリストのような活動はきわめて有用である、という実感が最近つよくあります。

〜〜〜英語の本を読む〜〜〜

私は、それなりに本を読む方だとは思いますが、基本的には「日本語で書かれた本」がメインターゲットです。どれだけ有名な本であろうとも、翻訳されていない場合は「まあ、翻訳されるのを待とう」と待機状態を維持してしまいます。

しかし、すべての本が翻訳されるわけではありませんし、KDPのようにどう考えても翻訳は期待できない本はあるわけで、いつまでも「読まず嫌い」ではいけないよなと思い至り、「デジタルノート」の話題でよく言及される『How to Take Smart Notes』を読んでみることにしました。

英語のボキャブラリーが乏し過ぎるので辞書を引きながらの読書になりますが、それでも内容に興味があるならば、退屈せず(つまりは挫折せず)進められるのではないかと期待しております。

読み終えたら、また感想も書いてみます。

〜〜〜タイトル案を考える〜〜〜

執筆中の原稿が、とりあえず節目を迎えました。全章のプロトタイプ稿ができあがったのです。

まだこれから全体の統一を見据えたチューニングが必要なのですが、その前に、タイトル案を考えようとしています。

企画を書き始めた段階でも仮のタイトルはあったのですが、いよいよその「「仮」を外すときがやってきたのです。

最終的にタイトルの決定権は倉下にはないのだと思いますが、それはそれとして、全体の統一を見据えたチューニングにおいて「タイトル」は極めて重要な意味を持っています。

なぜならば、タイトルは「この本はどんな本なのか」を表すものであり、本の統一を見据えてチューニングするためには「この本はどんな本なのか」を意識する必要があるからです。

つまり、今やろうとしているのは、

プロトタイプ稿を書き上げたうえで、改めて「この本とはどんな本なのか」について考えること、

です。

ブログ記事であれば、記事を書いた後にタイトルをつけることはざらにありますが、それと同じことを書籍原稿でやってしまうのがバザール執筆法です。

いささか大仕事のようにも思えますが、しかしすでに材料は出そろっているわけですから、あとはいかにピントを合わせるかでしょう。

とりあえずブレストの基本として、100案くらいタイトル案を出すところからスタートしてみます。ランダムに・言葉遊び的にタイトルをつけながら、「いや、この本はそうじゃないないだろう。だとしたら何か?」という違和感駆動によって、しかるべきタイトルを発見しようと思います。

〜〜〜ツイートまとめ〜〜〜

一週間に一度、自分のツイートを読み返しています。「----1週間切取線-----」とつぶやいて、前回の「----1週間切取線-----」までをざっと見返すのです。

これまではこのメルマガの「はじめに」のネタ探しのためだけに読み返していたのですが、それだけはどうももったないのではないかと思い、以下のようにツイートをまとめたページを作るようになりました。

◇2021年4月17日までのツイートノート |Addless Letter

Webページを作るなんて、すごく手間を掛けているように思われるかもしれませんが、Hugo + GitHubの仕組みを使っているので実際は至極簡単です。mdファイルを作り、それをGitHubにpushすればあとはNetlifyがうまいことやってくれます。

でもって、この仕組みは以前「ミニサイトを作りたい」という欲求に突き動かされて作ったものなので、今回新しく作成したものは何もありません。「過去の自分」に便乗したわけです。

ただし、公開の仕組みは単純でも、ページの内容は単にツイートをコピペしたものではありません。それぞれのツイートに見出しをつけて、内容が近しいものについては一つの見出しの中に集まるように手直ししています。また、その手直し中に追記したいことが出てきたら書き加えます。つまり、編集が行われているのです。

単に「一定期間のツイートの記録」だけならば、それこそツイログやツイエバを使えば簡単に振り返ることができるのですが、その場合は単に見返して終わりになりがちです(経験則)。その点、コピペして見出しをつけるようになると、「知的生産エンジン」が駆動しはじめます。言い換えれば、過去の自分がつぶやいたことについて、今の自分が改めて考えることになるのです。

この仕組みはいまのところいい感じに続いてます。でもって、その感覚がGTDによって生成された「レビュー」の感覚をも変容させようとしています。

その変容ついては、またどこかで詳しく書くことにしますが、DoMAやバザール執筆法を含めて、倉下の知的生産システムの全体像が少しずつですが大きく変化しています。その感覚自体が、もう楽しいですね。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 今現在の、メインのタスク管理ツールは何をお使いでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。「Muteの魔法」の第二章をお送りします。

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○「Muteの魔法 第二章」

■実行のためのMute

私は今、こうして文章を書いています。文章は文から構成され、文は単語に、単語は文字によって構成されます。一つの文字を打ち込むなら、同じ瞬間に別の文字は打ち込めません。あたり前の話です。

この「あたり前」は、敷延して広がります。一つの単語を書くなら同時に別の単語を書くことはできず、一つの文を書くときには別の文を書くことはできません。一つの文章を書くことは、他の文章を書かないことを意味します。

何かを書くという行為は、常に「そうではない別の何か」を書くことを捨てる非行為もあるのです。行為とは、切断なのです。

一方で、思いは散り散りです。同じ瞬間に別のことが頭に思い浮かびます。さまざまな声が聞こえてきます。Aのことを書こうとしているときに、Bのことが思い浮かびます。その二つを同時に表そうとすると、どう書いていいのかわからず、結局書けないことになります。

それだけではありません。Aのことを書こうとしているまさにそのときに、Aのことなんて書かないほうがいいのではないか、と思うことすらあります。「こんなことを書いていいのか」「もっとうまく書けるのではないか」「もっとうまい書き方があるのではないか」。思いは散り散りです。

「文章が書けない」とき、対象についてまったく何も知らず、書くべき糸口が見つからないので書けないこともありますが、その逆に対象についていろいろ知っているからこそ書けなくなることもあります。

自分の知識が邪魔するのです。自分の審美眼が邪魔するのです。散り散りな声たちは、私たちの実践的行為を邪魔します。

そうしたとき、Muteは役立ちます。

■怯えと励まし

きっと聞こえてくる声は、ひとそれぞれ違っているのでしょう。私の場合は、「もっとうまく書けるはず」「もっと良い構成があるはず」といった声がよく聞こえてきます。そのたびに、文字を打ち込む手が止まります。思いと行動のベクトルが一致せず、分裂しているからです。

そんなときには、「お前ごときがうまく書けるはずがないではないか」という冷や水を浴びせかける言葉ではなく、「はじめからうまく書ける人なんて誰もいない。稚拙と思えてもまず書き、それを繰り返し改修することえで少しずつ良くなるようにしていくことが、凡人である自分にできることなのだ」という励ましの声を自分自身にぶつけます。ノイズキャンセリングです。

■逆相を捉える

もう一度、ノイズキャンセリングについて考えてみましょう。

外側から耳に入るはずの音波を分析し、逆相の音波をぶつけることで打ち消す──それを為すためには、ノイズとなる音波をまず拾わなければなりません。拾わなければ分析もできず、分析ができなれば逆相の音波を作り出すこともできません。

また、Twitterのミュートについても振り返りましょう。特定のアカウントやキーワードを指定することで為されるミュート機能は、「何をミュートしたいのか」を自分で決めなければなりません。言い換えれば、どのようなキーワードを含むツイートが、自分にとってノイズになるのかを見極める必要があります。分析です。

たとえば、ある政治的なツイートが嫌だとして、「政治」という言葉をミュートすればいいかというと、そういうわけではないでしょう。それをやってしまえば、広範囲のツイートが見えなくなる上に、見たくないツイートは依然として残り続ける可能性が出てきます。適切にミュートをさせるためには、キーワードの特定(=分析)が欠かせないわけです。

■声にぶつける声

逆説的なようですが、自分の心の声をミュートするには、耳を塞ぐのではなく、むしろその声に耳を傾ける必要があります。自分の心の声を聴き、そこに逆相の声を自分でぶつけること。それがセルフ・ミュートの技術です。

「はじめからうまく書ける人なんて誰もいない。稚拙と思えてもまず書き、それを繰り返し改修することえで少しずつ良くなるようにしていくことが、凡人である自分にできることなのだ」

という声が、ミュートとして機能するのは、この声が絶対的な力を有しているからではなく、私が「もっとうまく書けるはず」という声を持っているからです。こうした声を持っていない、あるいは別の声を持っている人には上の声は逆相としては機能しません。

これは極めて大切な話です。

声に対する声とは、処方箋のようなものであり、それぞれの「症状」に対してそれぞれの声が割り当てられます。エリクサーのような万能性はなく、絶対的な声も存在しません。

まず、自分がどんな声を持っているのかに注目し、そんな声をぶつければその声がミュートできるのかを知ること。それが最初の一歩になるわけです。

■声を残す

文章が書けないとき、それが非常な疲労から来る停止でないのならば、どんな声が自分の中にあるのかに注意を向けてみましょう。

きっといろいろな声が渦巻いていると思います。それらを一つひとつ解きほぐしていくための声がありさえすれば、私たちは、再び言葉を紡いでいくことができます。しかしその言葉は、もともと持っていた声が抱える危惧を解決したりはしません。つまり、「もっとうまく書けるはず」という自分の欲望を抹消したりはしないのです。ただ、そのタイミングではその声をMuteしておく。それだけの話です。

なぜ声を消し去るのではなくMuteするのかは、上の例からも明らかでしょう。

書くことにためらいがあるとき、そのためらいが「もっとうまく書けるはず」という気持ちであるならば、その気持ちは良い文章を生み出すために有用であるばかりか、必須のものと言えます。

考えてもみてください。「もっとうまく書けるはず」という心の声を抹消することで、文章を書いたとしたら。たしかにそこはスムーズな作業が待っているでしょう。「うまく書けるかどうかなんていっさい気にしない」という気持ちであれば、なんの抵抗感もなく進めていけるはずです。そして、当然のように、「うまく書けるかどうかなんていっさい気にしない」という気持ちで書かれた文章ができあがります。きっと、読むに耐えないような文章ができあがるでしょう。

文章を書き慣れている人ならば、そこまでひどいことにはならないかもしれません。つまり、読むに耐えうる程度の文章ならば、何も気にしなくても書ける可能性はあります。でも、それだけです。

読むに値する文章は、ぜひとも読みたいと思ってもらえるような文章は、この文章を他の人にも読んでもらいたいと思ってもらえるような文章は、何も気にしないで書くことはから生まれません。適当に釘を打った建築物に、誰も感心しないのと同じことです。

「もっとうまく書けるはず」という声に潜む、「良いものを求める気持ち」はたしかに大切なのです。ただし、それが文章を書き下ろす段階で強くすぎると手が止まってしまい、結果的に「書いたものを少しずつ直して良くしていく」というプロセスが取れなくなります。避けたいのは、その状況です。まかりまちがっても、「もっとうまく書けるはず」なんて考えても無駄だからそんな思いは捨てろ、という横暴な態度ではありません。

■二つの性格を使い合わせる

他の場合でも同じです。

その人が神経質な性格をしているとき、細かいことが気になりすぎて作業がなかなか前に進まないことがあります。そのとき、自分の神経質な声を一時的にMuteして、大ざっぱな進め方ができるようになれば、進捗が生まれます。その進捗が生まれた後に、もともとの神経質な声によって細部を詰めることができれば、素晴らしい「スキルの合成」が行われたことになります。

その人の手にやすりが握られているときに、一時的に斧に持ち替えて大木を切り落とし、その後やすりに持ち替えて木材を磨き上げていく。

こうしたハイブリッドなやり方ができれば、その人の元来の性質を損なわず、むしろうまく生かす形で物事を進めていけます。逆に、「何事も大ざっぱに考えましょう」などというアプローチでは、神経質さは害悪として取り扱われ、永遠に引き出しの奥へとしまわれてしまいます。嬉しい結果ではありません。

■洗脳でないもの

もともとの性質が何であっても話は変わりません。自分の心の声を聴き、その声と逆相の声をぶつけることで、相反する力を手にしながら、もともとの力も消さないこと。二つの声を併存すること。それがMuteが目指すものです。

たとえそれがどれだけ効果的なものであっても、本人が自分の心の声を聴くことを促さず、一方的に新しい声を上書きして問題解決しようとするならば、それは洗脳と代わりありません。それが「解放」を謳っていようとも結果は同じです。

自分の声を聴けないならば、Muteはできません。単に別の声に置き換えて、自分がそうした声に従って行動していることに気がつけない状態が続くだけです。

Muteと洗脳は違います。自分を望む方向に誘導するにしても、前者は自己との向き合いが避けがたく含まれています。その向き合いは、おそらく心躍るものではないでしょう。自分の至らなさ、くだらなさを痛感することになります。しかし、その向き合いを避けないからこそ、私たちは自分の声から相対的に自由になります。声というものの存在を知ることができるのです。

■声との向き合い方

では、どうすれば自分の声と向き合うことができるでしょうか。

大切なのは自己を観測する視点を持つことです。自分が今何を考えているのかをモニタリングする「自分」を確立するわけです。メタ認知と呼ばれているものが、おそらくこれに相当するでしょう。

もちろん「メタ認知を確立する!」と決意したら即座に確立できるものではありません。そもそも認知の確立は、脳にとっても大工事です。スポーツに練習が必要なのもこのためです。そこで、二つポイントを紹介しておきましょう。

一つは、自分が考えていることを文章に書くことです。といっても、「自分の意見を表明する」ための丁寧な文章を書く必要はありません。頭の中に浮かんでいる散り散りな思いをただ言葉に移し替えるだけです。いわゆるフリーライティングがこれに相当するでしょう。

あるいは、あなたが『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるスタンドを持っているとして、そのスタンドに語りかけるように自分の考えを述べてみるのも良いでしょう。

「観測者効果」という言葉がありますが、文章として書くために自分の意識に注意を向けることで、その実体が浮かび上がってくることがあります。はじめのうちは難しいかもしれませんが、慣れてくるとほとんど認知資源を使わなくてもできるようになります。

(下につづく)

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