見出し画像

仕事の流儀/自らの軸を出発点として/カードが増える時期/FastDropの良さ/プロジェクトリストは本当に必要だろうか

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/12/07 第530号

○「はじめに」

12月です。皆さん12月ですよ。頬をつねってもらって、「えっ、夢じゃない」という小芝居をやりたいくらいには信じられません。今年がもうあと一ヶ月もないだなんて嘘みたいです。

去年の終わりから今年の頭にかけて極めて体調が悪く、その後春ごろから徐々に元気になってきて、そこからはもうあっという間でした。現状は並行して進めているプロジェクトもいくつかあるくらいで、一年前にはちょっと想像できないくらいに回復しております。

とりあえず、残り一ヶ月弱も、あまり無理をせず、しかし着実に成果を出せるように頑張りたいと思います。

〜〜〜自宅で作業する場所〜〜〜

カフェで作業する場合、カフェそのものは選べても「カフェの机で作業する」点は変えられません。

一方、自宅で作業する場合、普通の作業机もあれば、こたつもあり、そして適当な棚の上にノートパソコンを置いてスタンディング・デスクっぽく使うこともできます。多種多様です。

で、自分の行動を観察してみると、こたつが一番固定性が高く、その後作業机、スタンディング・デスクと少しずつ固定性が弱まってきます。固定性とは、一度その体勢になったとき、同じ姿勢で居続ける慣性のことで(適当につけました)、健康的には(もっと言えば腰的には)これが高すぎるとあまりよろしくありません。

ということは、スタンディング・デスクが一番良さそうなのですが、何度か試してみたものの、どうにもしっくりこずに続きませんでした。

結局、作業机を使いつつ、長時間座りっぱなしは避けるようにする、というごくありふれた解決策に至った次第です。

でも、本当にちょこっと立ち上がって腰やら肩やらを回すようにするだけで違ってくるものです。

〜〜〜書くのが易しいことそうでないこと〜〜〜

今週号で「仕事の流儀」について書いたのですが、本当に書くのが難しかったです。逆に、新しく始めたFastDropについて書いた記事は、かなりサクサク書けました。この二つの違いは、興味深いものがあります。

新しく始めたことに関しては、私自身の感度が高いので「書くべきこと」はいくらでも見つかります。重要性の判断も難しくありません。

しかし、仕事の流儀のような無意識にまで浸透している事柄を書き起こすのは骨が折れます。そもそも、何が自分にとっての仕事の流儀なのかが言語化しづらいのです。何かがあるのはわかるにしても、それが何なのかが具体的になりません。琵琶湖を前にして、小さな網を一つだけ持っているような感触です。

とは言え、楽なことばかり書いていると、目先が前ばかりを向いて、自分が持っている(しかも他の人に有用な)ものを開示することができなくなるかもしれません。それってちょっともったいない気がします。

その点、たとえば結城浩さんのメルマガなどは質問に答える形で文章が書かれており、質問が呼び水となって自分の中で「当たり前化」していることを引き出しやすいのではないかと推測します。

似たような仕組みを自分でも作れないだろうか、などと考えているところです。

〜〜〜物差しの貧しさ〜〜〜

価値を計る物差しが一つしかないと、評価軸は一つしか存在しえません。つまり、多様性は生まれてこないわけです。

たとえば異性の価値を顔の良し悪しでしか測れないなら、その人の交友関係はひどく狭いものになるでしょう。そういう話です。

つまり、物差しの貧しさが結果の貧しさと強く結びついているのです。

逆に言えば、結果を豊かにしようと思うならば、結果そのものに影響を与えるのではなく、むしろ人間の物差しに作用するものを探すのが良いのでしょう。

もちろん、それが何なのかは、まったくわからないわけですが。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

『「依存」の思想:「生きる」ための支点』(大槻宏樹)

社会の中で「個人」の重要性が説かれると、その裏側で「自立」が尊ばれるようになり、それはそのまま「自己責任」へと流れ着いていきます。それって本当にまっとうな考え方なのでしょうか。たしかに個人が個人として在ることは大切ですが、一方でその個人は他者との交流(もっと言えば迷惑のかけあい)の中で存在しているという点も忘れてはいけないように思います。

『手の倫理 (講談社選書メチエ)』(伊藤亜紗)

「さわる」とか「ふれる」って、不思議な言葉ですよね。あるいは「手当て」なんて言葉もあります。視覚や嗅覚は、感覚の先兵と呼べるもので、私たちの印象を形成してくれますが、触覚による知覚は、それよりもずいぶん対象に踏み込んだものを形成します。そこで生まれる倫理は、顔の倫理よりもさらに共感性が高いのではないでしょうか。

『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』(ポール・A・オフィット)

アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミー手術など、当初は新しい希望としてもてはやされたものが、人に不幸をもたらしてしまう結末をなぜ招いてしまったのか。そうした科学話が物語風に語られているようです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 仕事の流儀を持ちでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

画像1

○「仕事の流儀」

私は、まったくもって真面目ではありませんが、それでも何かをするときには──たとえそれが仕事であれ遊びであれ──、必ず真剣に取り組むようにしています。

この「真剣」は人によっては「全力」とか「本気」という言葉を当てるかもしれません。あるいは、もっと違った言葉もありえます。

どんな言葉を当てるにせよ、表している状況は一つです。「言葉を尽くす」という表現がありますが、それを流用すれば「自分を尽くす」こと。それが私が言う「真剣」に取り組むことです。

自分が10のエネルギーを持っているなら、10そのままを注ぎ込む。出し惜しみはなし。事をこなすことも、流すこともしない。

なぜ、そのような姿勢を持つのかと言えば、そうすることが一番成果を上げられるから──ではありません。むしろ、そのように考えるのは、私にとっては真面目な態度です。

成果を重視して、真剣にやる。たしかに倫理・道徳的に間違ってはいないでしょうが、私には物足りなく感じます。

私が物事に真剣にあたるのは、単にそれが一番楽しめるからです。その行為そのものや結果を一番楽しむための方法が、真剣にやることなのです。

私は中学生の頃から麻雀に親しみ、18歳の頃からコンビニでアルバイトをしていました。

麻雀は、四人でやる競技です。その四人の技量が近しく、それぞれが真剣に勝負に向き合うとき、最高にその舞台は盛り上がります。空気は張りつめ、恐怖が心につきまとい、だからこそ勝利の喜びが際立ちます。

そんな中に、たった一人でも、適当で勝っても負けてもどうでもいい、と考えている人間が交じり込むと、途端に空気は霧散し、先ほど醸成されたような価値は跡形もなく消えてきます。そういう現象を、「勝負が壊れる」などと呼んだりもします。

もちろん、勝負なのですから、勝つことは大切です。皆が勝つことを目指します。しかし、勝ちさえすればなんでもいい、というわけではありません。「勝てば官軍」は、あくまで「正しさ」の在りかを定めるものであって、その行為の価値を定めるものではありません。

価値を定めるものは、──少なくともその一部は──、それをいかにして手にしたかです。つまり、プロセスであり、過程です。過程に魂が注がれているからこそ、その結果が光り輝きます。

同じことは、コンビニの仕事にも言えました。

ともかく言われたことをこなし、ずっと「はやくおわらねぇ〜かな〜」と考えて過ごすよりも、自分がその仕事において何ができるのか、どんな価値を貢献できるのかを考えて、実際に行動することの方がはるかに楽しいのです。

こうやって書くと、いかにも意識高い系のように見えますが、私の中では「皆が麻雀を真剣に打つと楽しい」ということと「仕事に真剣に取り組むと楽しい」は、まったく同じ平面に属しています。単にそれが、社会的に評価されやすいかされにくいのかの違いがあるだけです。

パンの発注をやっておく、という業務があるとして、適当に数字を入れるのと、いかに欠品をなくすのか考えて取り組むことには違いがあります。どうやったら売り上げをアップさせられるかを考えることには、もっと大きな違いがあります。それは適当に牌を切るのと、勝つためにギリギリまで考えて切るのとの違いと同じものです。

で、後者になるほど、手間がかかり、頭をフル回転させる必要があり、だからこそ楽しいのです。

楽しさや楽しみは、受動的に待っていれば勝手に訪れるものではなく、むしろこちらからの積極的な働きかけによって見出せるものだ。

そんな風に感じて今まで仕事をしてきました。それは、物書きになってからもずっと続いています。

本を読むときだって、同じです。

「この本を批判してやろう」とか「どうせつまらないだろうな」といった気持ちで読むことはありません。むしろ、きっと面白いに違いない、その面白さを存分に堪能してやろう、という気持ちで読み始めます。

もちろん、結果がついてこないことはあります。麻雀や仕事がそうであるように、すべてが思い通りになることはありません。しかし、そうした積極的な姿勢を持っているからこそ掘り起こせる面白さが間違いなくあります。

読書を目一杯楽しむためには、「楽しもう」とする真剣な姿勢が欠かせないのです。

私は以上のようなことを考えて長年仕事に取り組んできたので、もやはそれを意識することはなくなっています。何かをするなら真剣に、それができないものはそもそも取り組まない。そうした価値判断が、私のデフォルトに設定されています。

なので、そういう考え方が一般的で普通なものだとずっと考えていました。私と仲良くしてくれているネット上の人たちも同じような姿勢を持っているので、それが「当たり前」だと錯覚していたのでした。

でも、どうやらそうではないようなのです。大学生のダルそうなアルバイトだけではなく、どうやら大人になっていても、仕事の「楽しみ方」を知らない人が一定数いるようです。それは──余計なおせっかいではありますが──ちょっともったいないことな気がします。

とは言え、真剣にやったからといって、結果が必ず保障されるわけではありません。真剣に取り組んでみたものの、思うような結果にはならなかった、ということは少なくありませんし、真剣に取り組んでいなさそうな人が結果を手にする場合もあります。

そうなってくると、なんとなく心がモヤモヤしてくるかもしれません。

しかし、たとえそうであっても、やはり真剣に取り組むのが一番体験の価値を最大化させるのだと私は信じています。何の論証もできませんし、私の体験による信念に過ぎませんが、他の信念に比べるとずっと強く私の中に存在し続けていることは間違いありません。

でもって、それが私が運営しているポッドキャストの姿勢にも関係しているのですが、それは下の原稿で続けましょう。

(下に続く)

ここから先は

9,261字 / 5画像 / 1ファイル

¥ 180

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?