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Scrapbox知的生産術08 / Twitterコミュニティーの面白さ /二種類の"使える言葉"

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/06/20 第610号

「はじめに」

最近、「プロジェクト管理」について考えています。複数のプロジェクトを並行して進めていくのに、どんな体制をとればいいのか。これまで(さほど)真剣には考えていなかったテーマを掘り下げています。

・GTD
・アジャイル
・カンバン
・KPI/OKR

といったトピックを漁り、そこから伸びた枝についても読みあさり、さまざまな知識を仕入れています(こういうやりかたも、どこかでまとめた方がいいかもしれませんね)。

現状は、まだ十分にまとまってはいませんが、それでもいくつかの必要事項は列挙できそうです。

・一覧性の確保
・クローズド領域の確立
・定期的な振り返りの実施

この三点は、さまざまな手法に共通しています。具体的な実装はそれぞれに違っていますが、それでもこうした要素を持っている点は同じなのです。

あとは、それを自分のスタイルにどう取り入れるか。今年後半の大きな課題になりそうです。

〜〜〜読書の勧め〜〜〜

ウェブ記事か何かで、両親が読書を勧めるかどうかが子どもに大きな影響を与える、という話を見かけました。

自分のことを振り返ってみると、身近な人から読書を勧められた経験がまったくありません。家には本棚もありませんでした。

一方で、読書をしてはいけない、と止められたこともありません。本を取り上げられたり、読書時間を限定されたこともありません。

トータルで言えば、「特に何も言われなかった」わけですが、今の私は読書がライフワークみたいになっています。まあ、そんなものでしょう。人生は何が起こるかわからないものです。

とは言え、「特に何も言われなかった」からこそ、私は読書を切実に求めていたとは言えるかもしれません。ほんとうに、何も言われなかったのです。読書以外についても。

〜〜〜便利さと話題性〜〜〜

あるとき、ふと気がつきました。あるツールの便利さと、そのツールに関する話題の数の多さが比例するとは限らない、ということを。

どういうことでしょうか。

たとえば私はScrapboxを日常的に便利に使っていますが、それが日常的に便利であるがゆえに、いちいちそのことをツイートしたりブログを書いたりしなくなっています。よって、もしそうしたアウトプットから私のツール利用を判断する人がいたら、Scrapboxなんて興味がなく、ぜんぜん使っていないように思えるかもしれません。

が、実際はまったく逆なわけです。

あまりに日常的で、当たり前に使えるツールは、「便利だ」と意識されることすらなくなります。そうなると、言及も減るのです。

たとえば、日本に住む多くの皆さんは「日本の電車はちゃんと時間通りに来る!」とツイートしたりしないでしょう。それと同じです。

スムーズに使えていて、ほとんど身体化してしまっているツール。問題が特に起こらず、設定を弄らずに使い続けられるツールは、特に話題にならないのです。

だからバズっているツールだからといって、……、まあそれ以上はやめておきましょう。

〜〜〜動画〜〜〜

Netflixで『攻殻機動隊 SAC_2045』を見終えました。

相変わらずの攻殻機動隊で、やっぱり刑事物ではあるのですが、テレビ版とはかなり雰囲気が違っています。全体的にダークなイメージ。

フル3DCGアニメーションも、最初は違和感がありましたが、観続けているとだんだん慣れてきます。

で、作品のテーマですが、あえて言えばシンギュラリティと『1984年』になるでしょうか。あるいは、ポスト・ヒューマンがもたらす危機にヒューマンはどのように対峙するのか、という視座を立ててもいいかもしれません。

話の結末については、賛否がわかれるところだと思います。個人的にはSF作品らしい終わり方だったな、と思いました。

ちなみに、一番好きなセリフは、タカシが少佐のことを「まれに見るロマンチストであり、夢と現実の違いがほとんどない」と言ったところです。有名な言葉をもじっていえば、「高度に発達したロマンチストはリアリストと区別がつかない」、となるでしょうか。

その少佐は「夢は現実の中で戦ってこそ意味がある、他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ」とかつてのセリフで言っているわけで、本作と対比して考えると、いろいろ示唆深いものがあります。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q.あなたはリアリストですか、それともロマンチストですか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週はScrapbox知的生産術の08と二つのエッセイをお送りします。

「Scrapbox知的生産術08」

前回「大きなものを組み立てたければ、まず小さく作っていくことが肝要」と確認した。このことを掘り下げてみる。

まず、本を書くことは、「自分の考え」を表すことだと言える。むろん、他人の情報を組み合わせただけで終わりにする「情報発信」もあるかもしれないが、少なくともそれは梅棹が定義した「知的生産」ではない。

知的生産とは、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」である。

この「自分の頭を働かせて生み出した新しい事柄」は、「自分の考え」だと言えるだろう。

とは言え、その「自分の考え」も、サイズの違いがある。ツイート一つのサイズもあれば、2000文字のブログ記事のサイズもあれば、本一冊のサイズもある。当然、後者になるほどそのサイズは大きくなる。

つまり、知的生産において「大きなものを組み立てる」という行為は、「大きな自分の考えを組み立てる」行為でもある。これが一つ目のポイントだ。

■ゼロから立ち向かう困難

さて、ここで思考実験をしてみよう。

あなたは10万字ほどの本を書くことになった。そのテーマについての文献は揃っているし、それらの文献にも目を通してそれなりに「考え」みたいなものも浮かんでいる。

そうした状況で、「さあ、書こう」と腕まくりをして白紙の原稿用紙(あるいはテキストエディタ)にいきなり向き合ったとして、スムーズに執筆が進められるだろうか。

おそらく難しいだろう。テーマについて検討しているときは、あれも書けるし、これも書けるし、こりゃ10万字なんかでは収まらないぞ、というワクワクを感じていたとしても、実際に白紙の原稿用紙に向き合って一行目を書きはじめたくらいから暗雲が立ちこめるはずである。

うまく書けないのだ。

何をどう書いたらいいのかわからない。簡単に言えば、頭が混乱してしまう。

これは、「大きなものをそのまま組み立て」ようとした失敗である。ちなみに、よくある話でもある。

■アウトライン作りで分散化

上記のような混乱を回避するために、「アウトライン」と呼ばれるものが作られる。簡単に言えば、章立て・章構成だ。

まず、どこに何を書くのかを考えていく。その順番(構成)を表したものがアウトラインである。それを作っておけば、先ほどの混乱は多少収まる。

なぜ混乱が収まるのかと言えば、それは「アウトライン作り」を通して、書く対象について「考えている」からだ。つまり「頭を働かせて」いるからだ。一つの大きなプロセスを、分離させたと言ってもいいだろう。分散化である。

そのように負荷を分離するからこそ、アウトライン作りは役に立つ。

そしてまた、そうして頭を使って作ったからこそ、そのアウトラインもまた「自分の考え」を表すものであると言える。

■項目について考える

では、そうしてアウトラインを作ったら後の執筆は順風満帆かと言えば、もちろんそうはいかない。『書くためのアウトライン・プロセッシング』(Tak.)でも紹介されているが、そこからがまた難しい工程である。

なぜ難しいのか。

それは、通常「アウトライン」を立てているときは、その項目で「何を書くのか」をそこまで深く掘り下げていないからだ。もう少し言えば、それについて十分に「考えて」いないからだ。

これは当然だろう。アウトラインを立てるという行為が、大きな方向性と順番の確認だけであり、そうして限定化するからこそ思考の分散化の意義がある。何もかもを同時に考えようとするならば、白紙で原稿用紙に向かっているのと変わりない。

よって、通常のアウトラインを作った後で、執筆に向かったら、今度はその項目について何をどう書くのかを「考える」必要がある。もちろん、すべての項目について同様の操作があるのだから、執筆という作業がしんどくなるのも当然である。

(追記:そうして項目について考えると、章立てについての考えも変わってくる、という困難もあるが、それはTak.氏の著作で触れられているのでここでは割愛する)

■あらかじめの思考

ここで、一つ仮想的なイメージを持ち込んでみよう。

もし、それぞれの項目において書かれることを「あらかじめ」考えているとしたら?

もしそうなら、執筆の負荷はさらに小さくなるのではないか。

原理的には突拍子もないことは何もない。アウトライン作りによって、頭の負荷を分散しているのと同じだ。ただ、違いは本を書きはじめる前に、その項目について考えている、というその一点だけである。

少なくとも言えるのは、遅かれ早かれその「思考」は避けては通れない、ということだ。対象について文章を書くためには、その対象について考えなくてはいけない。考えなしで「自分の考え」を表すことは(定義から言って)不可能だ。それをしようとしたら、他人の考えを剽窃するしかない。知的生産としては下の下、愚の愚である。

だったら、「先に」そのことについて考えておくことができるのではないか。これがカード法の胆であり、一番勘違いされやすい点でもある。

■勘違いされやすい点:その1

まず、対象についてあらかじめ「考えて」おくからといって、そしてそれを「他人が読める文章」で書き表すからといって、そのまま執筆に流用できるわけではない、という点だ。

つまり、アウトラインを作って、その項目にカードからひょいひょいとコピー&ペーストしたら「はい、完成」というわけにはいかない。そのような安易な知的生産を勧めるのがカード法ではない。

カード法で行うのは、あくまで「その対象について考える」という作業である。「何を、どう書く」という思考領域があるとしたら、前半の「何を」について考えるだけであって、「どう書く」はまったくスルーされている。

よって、アウトラインを作り、その項目についてカードを参照することはできても、そこでどんな文章を書くのかは改めて考える必要がある。むしろ、そうして「考える」を分割することが大切であって、「考え」をなくすることを目的としては、知的生産としては落第になりかねない。

■勘違いされやすい点:その2

もう一つ勘違いされやすいのは、カードの書き方である。これは「その1」の裏返しと言っていいだろう。つまり、カードに文章を書くときは、何かしらのテーマを念頭に置いた文章にはしない、という点だ。

カード法のカードは、そのままでは執筆には使えない。「だから」、執筆に使えるようなカードの書き方にしよう。その方が効率的だし、という考え方はカード法を捉え損ねている。

もちろん、そうした運用で情報ツールを使っていくことはできるが、それは「カード法」が目指しているのとは違った方向である。ようするにそれは、巨大な「ネタ帳」なのであって、「カード・システム」ではないのだ。

カードシステムにおいてカードを書くときは、どんなテーマで使われるかを考えないようにする。言い換えれば、どのようなテーマでも使われうるように書く。

再三注意しておくが、この「使う」はそのままコピペして素材に利用することではない。そうではなく、あくまで参照することを意味している。

そうした利用に適したようにカードを書く。脱文脈的に、非テーマ的に書く。

これが肝心である。しかし、普段からテーマに紐付けるように文章を書く癖がついていると、これがなかなか難しい。つい、何かしらのテーマを念頭においた文章を書いてしまうのだ。これを脱するためには、ある程度意識的な訓練が必要だろう。

ある着想が、何かしらのテーマと紐付いて思いついたとしても、その中から核となる部分を取り出して、それを脱文脈化してカードに書く。そういう訓練である。

ちなみに、こうした訓練において「一つのことを書く」と「要約タイトルをつける」の指針は非常に効いてくる。

■「考え」を促していく

書籍などの大きな知的生産を行うためには、たくさんの「自分の考え」が必要で、それを分散的に進めて行くのがカード法である。

その意味で、ネタ帳は素材の蓄積であるが、カード法は考えの促進である。「考え」が残してあること以上に、自分の思考が進んでいくことが重要なのだ。言い換えれば、カードシステムは「自分の考え」をサポートする装置である。

その装置は、着想(アイデア)を保存しておき、それを適切なタイミングで取り出すためのものではない。そうではなく、自分の考えを駆動していくためのエンジンなのだ。

(つづく)

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