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メモ管理の混沌

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2019/9/02 第464号

はじめに


はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

現在、『僕らの生存戦略』の構成を考えています。「えっ、まだ構成を考えているの?」と驚かれる方がいらっしゃるかもしれませんが、私自身も驚いています。ここまで難航するとはまったく予想していませんでした。これまでの本の中で、一番手こずっているかもしれません。

まあ、新しい本を書くたびに、「これまでの本の中で一番難しい」という文言を繰り返しているので、若干オオカミ少年的ではありますが、それを踏まえてなお今回は別格の難しさを感じています。特に、第三章にあたる部分は難航中の難航です。

おそらくは、気負いすぎというのもあるのでしょう。自分の中でこの本が「節目になる」と思えば思うほど、中途半端は良くないという気持ちが高ぶり、「もっと良いものに、もっともっと良いものに」という欲求が芽生えてきます。

そうした心理は良い本を生み出すために必要なのかもしれませんが、度が過ぎてしまえば、いつまで経っても本は完成しません。どこかで「えいや」と思い切り、本文を執筆してみるのがよいのでしょう。

それにしても、こういうのは他人には簡単にアドバイスできても、自分で実行するとなかなか難しかったりするものです。厄介ですね。

〜〜〜適切な懐疑心〜〜〜

世の中で「常識」とか「当たり前」と呼ばれていることが、時代遅れだったり、まったくの勘違いだったりすることはありうるわけで、それを一度疑ってみるのは大切でしょう。

かといって、「当たり前」だからとそれらすべてを否定してしまうの少し変です。一応疑ってみて、問題なければ、改めてそれを「当たり前」として再徹底すればいいわけですから。

別の言い方をすると、「自分が当たり前を疑ってかかっている、という当たり前」を疑えるかどうか。いささかややこしいですが、そういう態度が大切なのかもしれません。

〜〜〜「本を読む」〜〜〜

かーそる第三号のテーマは「本を読む」ことですが、つくづく思うのが、他の人が本を「どう」読んでいるのかは、まったくのブラックボックスだな、ということです。

表面的に見れば、本を開き、そこに書かれている文字を読みながら、意味を取っていく行為ですが、その「意味の取り方」に多様性が潜んでいます。著者の主張を咀嚼しながら読む人もいれば、書いてある通りに受け取る人もいて、逆にいちゃもんをつけるために粗探しみたいに読む人だっているでしょう。あるいは、私が想像しえないような読み方をしている人もいるかもしれません。

でもって、それは外から読書中の姿を観察しているだけでは、まったく見えてこないのです。で、見えてこないから、他の人のそれを「真似る」こともできません。

そう考えてみると、読書の方法を学ぶ(≒真似る)のって、かなり難しいのかもしれません。だからこそ、多種多様な読み方が生まれてくるのだとも言えるでしょう。

〜〜〜印税率〜〜〜

書籍の印税は、大体が10%前後で、最近では8%やそれよりも小さい数字もあるようです。一見すると、販売価格の1割しか著者の手に渡らないのは低すぎるようにも思えますが、一冊の本が完成し、流通し、それが読者さんの手に渡るまでには、さまざまな人の手を介していることを考えると、10%前後という数字もそれほど低いとは思えません。

むしろ、著者のその仕事で、販売価格9割分の(他の人の)「仕事」が生まれているのだと考えると、むしろ少し嬉しい気持ちすら湧いてきます。自分が何かしら経済活動に貢献しているのだ、という感覚です。

もちろん、途中段階に入ってくるものが減るならば、印税が上がってくれるのは嬉しいことです。それは間違いありません。とは言え、何もかもが直販でいいだろう、という話にも頷きがたいものがあります。

たとえば、個性的な書店さんが、新しい本の売り方を考えてくれるように、書き手と読み手の間に入る「何か」が存在することは、本が持つ可能性を広げてくれる効果が期待できます。

個人的には、どんどん効率化して、何もかもがダイレクトにつながるのではなく、適度な「クッション」がある方が、全体の調和にとっては良いのではないかと、そんな風に思います。

〜〜〜欠落する宣言〜〜〜

あえて言うまでもありませんが、これから詐欺をはたらこうとしている人は、「私はあなたのことを騙します」と相手に宣言したりはしません。漫画のような特殊なシチュエーションなら話は別ですが、一般的な詐欺は、事前に何の宣言もなく(むしろ逆の宣言と共に)行われます。そして、似たようなことは詐欺以外でもいっぱいあるでしょう。

つまり、この世界には──言語的に可能であっても──決して明言されない宣言が存在しているのです。

そして、そのことに気がつけないと、なかなか厄介な状況に陥ることがあります。たとえば、詐欺はわざわざ宣言されないのですから、「相手が詐欺すると言っていないから、大丈夫」と安心感を抱くことはできません。むしろ、積極的に自分の方から「これは詐欺ではないか?」と疑ってかかるマインドが必要です。

もちろん、そんなものを持ち合わせていなくても、皆がハッピーに生きていける社会が一番なのですが、なかなかそうもいかないところが厄介なところです。

〜〜〜知的生産の技術の雑誌〜〜〜

前々から、「かーそる」とはまた違った、知的生産の技術系の雑誌があればいいな、と考えています。「かーそる」よりももっとカジュアルで、ビジネス系・料理系・ファッション系雑誌のようなノリの「知的生産の技術」を扱う雑誌。

たとえば、アプリ紹介があり、最新の文房具があり、マニアックなツールの徹底解説、そして知的生産的に注目の書籍や、個人のノウハウの共有。そういうのが盛りだくさんの雑誌があったら、(ごく一部の層には)すごく人気が出そうな気がします。

とは言え、雑誌を作るにはなかなか手間と時間がかかりますし、私もこれ以上作業を抱え込むような余裕はありません。

ということを考えていたら、これをnoteの「マガジン」機能を使って、複数人で自由に投稿するスタイルなら成立するかもしれない、ということに思い至りました。

興味がある人を50人くらい集めて、ひとり月一回は投稿する。書き下ろしてもいいし、自分のブログに投稿した記事のクロス・ポストでも構わない。それくらいの緩いルールなら、結構続けていけるのではないでしょうか。

とは言え、船頭になる人は当然必要なので、誰かがそういうことを始めないかな〜と願うばかりです。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

 >>
 1934年冬から翌年の夏まで、二度の失職と求職活動を挟みながら、
 25歳のヴェイユはアルストン、ルノーなど三つの工場で働いた。労働と
 労働者をつなぐ諸関係を深く知り、労働のうちに存する不幸と自由、
 尊厳の問題を考え抜くには、みずから女工の生活に飛び込む以外に
 ない――赴任先のフランス中部のリセで教壇に立ちながら、週末ごと
 に炭坑夫や革命的労
 <<
 >>
 「世界市民の哲学」こそ戦争をなくす!愛国主義、経済戦争、難民問題…日々揺れ動く世界は一触即発。それを押しとどめ、希望を見出す生きるヒントがここにある。
 <<
 >>
 2010年に刊行した『天才ガロアの発想力』を大幅加筆!
 5次以上の方程式は解けるのか? 2次方程式のときに学んだ解の公式は
 3次以上の方程式にも存在するのか?その謎を解き明かしたのがガロアです。
 本書は現代の数学に重要な役割を果たしているガロアの発想や
 方程式が解けるからくりを詳説するのはもちろん、
 大幅に次を加筆しました。
 <<

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにデモ考えてみてください。

Q. カジュアル系知的生産雑誌にあるコーナーを一つ考えてみてください。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週は少し、というかかなり長めの記事一つでお送りします。テーマは「メモ管理」について。どうご、ごゆっくりとお楽しみください。

※本号のEpub版は以下からダウンロードできます。

――――――――――――――――
2019/9/02 第464号の目次
――――――――――――――――

○「メモ管理の混沌」 #知的生産の技術

■起点としての混沌
■メモ管理にまつわる混沌
■新しいメモ管理
■メモ管理1.0→2.0
■org-modeの新境地
■ワンライン方式
■消えゆくデイリー
■実験結果
■ネットワークか語りか
■箱からの要請
■アウトプットをさらなる素材へ
■一つだけでは
■さいごに

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

○「メモ管理の混沌」 #知的生産の技術

■起点としての混沌

現在、混沌が訪れています。喜ばしいことです。

『アイデアのつくり方』の中でジェームス・W・ヤングは、アイデア生成のプロセスを喝破しました。その中に、特徴的なプロセスが出てきます。「心の消化過程」という工程です。

まず、私たちは対象に関する一般的知識と専門的知識を集めます。いわゆるインプットを重ねるのです。そうして情報を摂取し続けていると、ひどい状態に陥ります。

 >>
 何もかもが諸君の心の中でごっちゃになって、どこからもはっきりした明察はうまれてこない
 <<

何かが「わかっている」感覚を100とするなら、そのようなごちゃごちゃした状態は0と言えるでしょう。「これは○○である」とはっきり言えない、ツリー構造が描けない、何をどう配置しいいのかさっぱりわからない。そんな状況です。これを混沌と呼びましょう。

何か新しいアイデアが生まれるときは、少なからずこの混沌状態を通り抜けるとヤングはにらんでいます。そしてその眼光は実に鋭いものです。

まったく新しい、言い換えれば、これまでにその軸が存在しなかったアイデアは、漸進的には生まれてきません。Aを理解し、その上でBを理解し、その上でCを理解し、と階段を登っていくようにはたどり着けないのです。

なぜならば、アイデアとはそのような階段で誰も上ったことがない場所のことだからです。軸=階段の不在。

階段を登って至れるのならば、すでに誰が上っているでしょう。そこに階段があるとは誰も思わなかった場所にいくこと。それがアイデアです。

だからこそ、「水平思考」(リテラル・シンキング)が重んじられます。論理ではなく、連想を優先し、論理ではたどり着けない場所に辿り着く。そのための思考法が水平思考です。

既存の構造(階段)の上に乗っかるのではなく、まったく新規の構造を生み出すためにはそうした飛躍が必要となります。

ヤングの見立てもその水平思考と同様ですが、より動的だと言えるでしょう。

Xに関してのインプットを進める。そしてYに関してのインプットを進める。しかし、その時点ではXとYを含有する集合を適切に説明するフレーム(階段・軸)を持ち合わせてはいない。だから、「何もかもが諸君の心の中でごっちゃになって、どこからもはっきりした明察はうまれてこない」状態になってしまう。でも、それは新しい場所に辿り着くためには必要な過程です。

言い換えましょう。混沌(状態)とは未知のものに近づいている証です。少なくとも、自分がこれまで辿り着いたことのないフィールドに近づいていることを強く示唆します。

その混沌(状態)でなお考え続け、その後しばらく考えを休めると、意識が引っ込み無意識にそのバトンが引き渡されます。そして、以降は無意識がその答えを求め続けます。はげしく動き回り、のたうちまわります。蛇がぐねぐねと動くように、ニューロンネットワークが、最適なつながりかたを求めて模索を続けるのです。そして、ある日、突然その答えが意識に「降って」きます。「閃く」という表現をされることもあります。

人は、その一瞬の着想体験を──まるでカミナリガ落ちるようなイメージを──重視しますが、本当に大切なのはその前にある混沌状態なのです。そこをくぐり抜けない限りは、新しい着想が降ってくることはありません。だからこそ、世の中に流通する「わかりやすい」説明で納得してしまい、あらゆる疑問を即座に解消していると、新しい着想はやってこないのです。無意識が新たな解を求めて、強制的に動き回ったりしないからです。

だからこそ、混沌は好ましいと言えます。まだ誰も見出していない答えがそこに眠っているかもしれないからです。

■メモ管理にまつわる混沌

現在の私に訪れている混沌は、「いかにしてメモを管理していくのか」という知的生産の根本とも呼べる要素です。

基本的に、その骨子は10年、いやそれ以上の年月から変わっていませんでした。即座に書き取る。一枚一要素。一カ所に保存。仕分けして使う。使うツールは代われど、運用方針に動きはありません。そのやり方でずっとやってきました。

しかし、二度の激震が私の知的生産システムを襲い、それによって変化を余儀なくされています。

二度の激震とは、まずScrapboxによって生じ、次にorg-modeの利用に応じて生じました。実際はその激しい揺れの後ろで、細かい微震が大量に起きているのですが、それらすべてを記述するわけにはいかないので、今回はその二つの揺れだけに注目します。

一体全体何が変わろうとしているのか、どこに向かおうとしているのか。それが本稿のテーマです。

いくつかの、前振りとなる話についてはすでにこのメルマガで記事にしました。断片的な思いつきの扱い方、箱の力、Scrapboxとorg-mode……。それらの話を一つの枝として扱いつつ、本稿は話を進めていきます。あるいは、そうした話の総まとめと言えるかもしれません。

非常に多角的な話になると思われるので、ゆっくりと話を進めていくことにしましょう。むしろ、そうしてゆっくりともつれた紐を解きほぐしていかない限りはうまく前に進めなさそうな予感があります。

では、はじめましょう。メモの扱い方を巡る話です。

■新しいメモ管理

まず確認したいのは、Scrapboxでうまくいっていた、という点です。

Scrapboxの1枚のページに断片的なアイデアを書き留めていき、その中で「これ!」と思うものは別にページとして独立させる。そのような管理方法は、作業自体の負荷が小さく、次々と断片を増やしていけました。

また断片のサイズが小さいのでちょこちょこ触る機会も増え、リンクを増やす(リンクをつける)操作を通すことで、他のページの参照が発生し、そのことによって自分で書いたことを自分で思い出す機会も増えました。梅棹忠夫が言った「カードをくる」ことが実現できていた感覚があります。

このようなScrapboxの使い方によって、これまでその大半を死蔵させていた断片たちが輝くようになりました。その変化は、第一弾の変化と言えます。メモ管理1.0からメモ管理2.0への変化です。

■メモ管理1.0→2.0

スタートとしてのメモ管理1.0は、「ネタ帳」的管理でした。すでに役割が決まっている着想、言い換えれば宛先がもうある思いつきを、しかるべき場所(≒ネタ帳)に書き留めておき、必要に応じてそれを参照して行動やアウトプットに役立てること。私が長年変わらずにやってきたメモ管理の中心がこれです。

しかし、このメモ管理1.0では、「その時点では役割が明確でないもの」の扱いが不十分でした。だからこそ、多くの思いつきが死蔵されてしまっていたのです。Scrapboxが変えたのは、そうしたメモ(≒思いつき)たちの扱い方です。

どこのメディアにも行き先がなく、また大きな企画案に所属することもない思いつきたちを、豆論文のように独立的に(≒オブジェクト的に)記述して保存しておく。そして、キーワードをリンクにして、関連するページでつないでおく。そうすることで、これまで「ただ保存されていた」だけの情報たちに活躍の可能性が生まれてきました。

しかも、私はそのScrapboxプロジェクトを公開で使っているので、メモを別ページに切り出すことは、ミニマムなアウトプットとしての役割も持ちます。自分のためのオブジェクト・メモであり、ちょっとした記事でもある。そういう感覚もまた新しいもので、これまで「これは記事にするほどでないな」という気持ちからずっとメモ置き場に貯まっていた知見たちが、一気に日の目を見ることになりました。これも大きな変化です。

こうしてScrapboxによって、私のメモ管理はversion2.0に移行しました。しかし、そこにさらなる変化がやってきたのです。それがorg-modeでした。

■org-modeの新境地

org-modeとは、emcasというエディタで使えるモードの一つのことで、非常にたくさんの機能を有しているのですが、私が一番重宝しているのが「折りたたみ」機能です。見出し行を作成すると、その下の文章を隠せるようになる機能のことです。ようするに、アウトライナー的な使い方ですね。言い換えれば、私はテキストエディタを使いながら、そこにアウトライナー的操作を加えられるようになりました。

むしろ、私の「アウトライナー観」は、雛鳥のように一番最初に出会ったWorkFlowyによって強く規定されているので、org-modeの一番最初の使い方もそれに準じることになりました。つまり、細々とファイルを分けるのではなく、一つのファイルにさまざまな文章の断片を入れておく、という使い方です。

一番最初は、書きかけの原稿を入れておきました。たとえば、次号のかーそる用の原稿などは、とても一日で書き上げられるものではないので、毎日少しずつ手を掛けていかなければなりません。私の「お抱え案件」には似たような状態の原稿がいくつもあります。それを、org-modeで扱うファイルに入れていったのです。

アウトライナーを使っていてもわかりますが、中身を「隠せる」ことは、異なるものを混在させられる可能性を持ちます。普通なら、雑多な文章が一つのファイルに混ざっていると見た目的にも操作的にも邪魔ですが、「隠せる」ならば問題はありません。おかげで、「そのファイルさえ開けば、今自分が抱えている原稿案件すべてにアクセスできる」環境が作れるようになりました。

単にアクセスできるようになっただけではなく、「チラッと目に入る」「触りたくなったらすぐに開ける」というのが大切です。Aという文章を触っているときに(あるいは触ろうとしているときに)Bという文章の見出しが目に入る。そして、触りたくなったら、それを開いて触る。触ったら閉じておく。そうした〈行ったり来たり〉が可能になったのです。

同じようなことは、もちろん本家(というかなんというか)のアウトライナーでも可能です。しかし、アウトライナーの場合、項目を閉じようとすれば、それらを下位項目に配置しなければなりません。つまり、本文部分のインデントが一つ深い位置に移動するのです。

私はこれがどうしてもダメでした。インデントが一つ増えるだけで、途端にそれは「本文」ではなくなるのです。
※単に見た目の話に過ぎないのに不思議なものです。

その点org-modeは、本文部分はまったく変更することなく、単に見出しにしたい行に記号(*)を付け加えるだけで、本文を隠せるようになります。先ほど書いたとおり、普通にテキストエディタに文章を書く気分で使いながら、しかしアウトライナー的操作を加えられるのです。実にハイブリッドです。

このような使い勝手の良さから、私はバンバンとそこに「書き上げ途中」にある文章を加えていくようになりました。やがてそれは、私が「ワンライン」と呼ぶ方式へと成長しました。

■ワンライン方式

「ワンライン方式」は、一つのファイルに三つのブロックを設定します。

・デイリー
・ドラフト
・リスト

まず「デイリー」は日付ごとの見出しを持ちます。8月29日、8月30日、といった項目の下に、その日に思いついたことを書いていきます。それまでのメモは、どちらかと言えばワンフレーズなものが多かったのですが、emacsがテキストエディタということもあって、フレーズではなく、短い文章になることも増えました。これもちょっとした変化です。

次の「ドラフト」は、最初に書いた「書きかけの文章」を保存したものです。8項目(見出し)くらいが並んでいます。

その下に「リスト」があります。項目は、memo、novel、commandlist(emacs)、trach canです。memoの下には、大きな企画案が、novelには小説に使えそうな思いつき(タイトルや台詞など)が入っています。

もし、「ネタ帳」も一緒にorg-modeで管理するならば、この「リスト」に位置することになりますが、私はそれをEvernoteで管理しているので、今のところは入っていません。

以上三つのブロックで、思いつきが動いていきます。

たとえば、デイリーの項目に書かれたもので、下書き原稿や企画案使えそうなものがあれば、そこに移動してしまいます。あるいは、29日に書いたものが、30日に書いたものと関連性がある場合は、29日から30日に移動させてそれを一つのグループとして扱います。

そのようにして移動させていくと、いつしか29日のデイリー項目は空っぽになります。そうなったら、その日付項目を削除します。

もし、デイリー項目にたった一行だけ残っていて、関連付ける項目も見つからないが、かといって消したくはないと思うなら、それを当日のデイリーに移動させて、該当のデイリー項目を空っぽにすることもあります。

もう少し、心理ベクトル的に正確に言い直せば、「できるだけ、その日付の項目を空っぽにするように、項目を移動させる」というのが近しいでしょうか。日付が残っていると縦に長くなりますし、縦に長くなると「隠せる」効果が薄まります。かといって、それをより深い項目に配置すると、結局死蔵するので、むしろ積極的に移動させることを選んでいるわけです(この辺の話は以前の記事でも書きました)。

このような動作を行うことで、私の書き残した思いつきは、何かしらに文脈付けられることになりました。どこかのカテゴリの下に配置されるようになったのです。

■消えゆくデイリー

こうしてメモの処理はうまく片づいていました。しかし同時に不満もありました。あるいは、不満というよりも、不安というのが近しいかもしれません。

それは何かと言えば「日付」(の見出し)が消えてしまうことです。

もちろん、それを消すように操作しているのですから、日付項目が消えるのは当然の帰結です。とは言え、「一日ごとの記録」が残っていないことに、何かしらの不安を感じてしまうのです。

たとえば、手帳やノート(特にバレットジャーナル形式のノート)では、日付ごとの記録が残ります。そして、それを読み返すと、「そうか一週間前はこんなことを考えていたのだな」と振り返ることができます。一ヶ月前、一年前、十年前でも(記録が残っていれば)振り返ることができます。たしかな日付(そこにその日が存在していたという)の感覚が得られるのです。

しかし、ワンラインの運用では、思いつきは他の文脈に吸収され、デイリー項目は削除されるので、そのような「後から振り返ったときの日付の感覚」が得られません。そのことがどうにもヤキモキするのです。

これは、私がデイリー形式で長年情報を扱っていたことが関係しているのかもしれません。ほぼ日手帳しかり、デイリータスクリストしかり、私の一日のお伴のツールはデイリー形式でしたし、その記録はすべて残っています。その親しんだやり方に愛着を感じていてもおかしくはないでしょう。

私が感じる不安は、その愛着からくる懐古主義的な不安なのかもしれません。知的生産を進めていく上では、そんなものがなくてもまったく支障がない、という可能性は存分にあります。

その可能性を検証するには、実際に残してみるのが一番でしょう。断片を操作する場所としてorg-modeは残しておきつつも、それと同じ内容ものを別のツールにも保存しておくのです。

いくつかのツールを選択した結果、その保存先はEvernoteとなりました。WorkFlowyやDynalistなら項目を移動させたくなりますし、Ulyssesは日記の保存の用途にはあまり向きません。なにより、すでに私のEvernoteには、2019年の365日分のデイリーノートが作成されているのでそこを使えば簡単に済ませられる、というのが一番の理由です。

そこで、パソコン環境ならば、とりあえずEvernoteのデイリーノートにメモし、そこからorg-modeのファイルにコピペすることにしました。手間ですが、実験なので仕方がありません。モバイル環境の場合は、いったんFastEverで断片的なメモを取っておき、それをコピペして、Evernoteのデイリーノートとorg-modeにコピーするようにしました。

が、さすがにEvernoteのノートからEvernoteのノートにコピーするのは二度手間感がはんぱないので、iOSのショートカットを使って、モバイルからでもデイリーノートに追記できる環境を整えました。

この際に気づいたことがあります。Evernoteは、モバイルでもノートを作成するならば、簡単に行えます。しかし、既存のノートを呼び出して、そこに追記するのは簡単ではありません。特に、追記すべきノートがもうすでにわかっている場合は非常にまどろっこしい気分を味わいます。

何かしらのキーワードで検索して、それに引っかかるノートを見つけたい、というならばまだマシなのです。そのような情報探索において、しばらく待たされたり、時間がかかるのは許容できます。なにせ、自分ですら探しているノートが曖昧なのですから、仕方ないでしょう。

しかし、「あれ」というのがわかっているときに、同じような動作を取らされると非常に鬱陶しいのです。もちろん、その対策として、頻繁に利用するノートについては「ショートカット」(Evernoteの機能の方です)に登録しておけば、即座にアクセスできるわけですが、デイリーノートのように、アクセスしたいノートが一日ごとに変わっていく場合はこの方法は使えません。

それらのデイリーノートにタグをつけておき、そのタグを「ショートカット」に設定したとしても、結局そのタグの検索結果からさらなる絞り込みが必要なので、普通に検索している場合と大差がありません。

Evernoteが、「資料置き場」(アーカイブ)としては便利なものの、情報を動的に変化させていく使い方に適性を持たない理由はこんなところにもありそうです。作成はできる。しかし、追記に手間がかかる。これでは、ノートを育てて行くのは難しいでしょう。
※その点、Scrapboxは、追記したいページのタイトルさえわかっていれば、追記は簡単にできます。これは大きな違いです。

■実験結果

話が逸れました。ともかく、Evernoteのデイリーノートとorg-modeの両方に同じ情報を残していくことを一週間程度試してみました。その経験から一つわかったことは、「Evernoteのデイリーに書き込んだものは、非常に動かしにくい」というものです。

不便以前に、そういうことをしようという気持ちが湧いてきません。しかし、不思議とそれをorg-modeにコピペすると、動かす気持ちが湧いてきます。これは、私にとってEvernoteがログとして認知されていることの証左なのかもしれません。ログというのは、基本的に動かさないものですし、動かさないからこそ価値が出てきます。

また、一応頑張ってEvernoteのデイリーの情報を「使って」みようとしたのですが、不便なことがたくさん出てきました。その中でも、一番面倒だったのは、何かを書き込もうとしたときに、「これって、数日前に書いたあれの続きだな」と思ったときの処置です。

org-modeのワンラインであれば、その「あれ」はファイルのどこかに位置しているので、それを探してそこの下に書くか、書いたあとで移動させてくっつければOKです。

しかし、Evernoteのデイリー方式だと、数日前のどこかのデイリーページにあることしかわかりません。そこで、一日ごとのデイリーページを見返していく必要があります。

私の場合であれば、すべてのデイリーページが前後の日付のページリンクでつながっているのでまだマシでしたが、そうしたリンクがなければ、面倒でお手上げだったでしょう。

こうなると、思いつきは分断され、大きな塊に成長していきません。

今回の実験では、スタート時点からEvernoteを「記録のための場所」として使い始めたわけですが、もし「動かすための場所」としてやっていたとしても、きっとうまくはいかなかったでしょう。どうしても「記録のための場所」としての使い方に引っ張られそうです。

そういう意味で、Evernoteにとっての適材適所が見えつつあるのかもしれません。そしてこれはもう、よほど大きくEvernoteに手が入らない限りは変わらないでしょう。

■ネットワークか語りか

さて、実験の結果としてわかったことは、デイリーごとの(固定された)ログというのは、後から振り返って、写真アルバム的に使うには役立ちますが、知的生産の「現役」で役立つものではありません。だとしたら、余計な労力を割いてまで残す価値は小さいでしょう。

逆に言えば、大した労力を必要とせず、また日々のメンテナンスにも負荷を掛けないようにログを残せるならば、それは後からの楽しみとして取っておくのは良さそうです。この辺は、ツールや環境との折り合いとなるでしょう。

これで一つの結論は出たのですが、一番大きな問題は決着していません。それが、Scrapboxとorg-modeのどちらがいいのか、です。この問題が混沌中の混沌をもたらしています。

Scrapboxとorg-modeのそれぞれの方式は、性質が異なります。そして、それぞれに有用です。知的生産の「現役」において有用なのです。それは、私のこれまでの体験からもそう言えます。しかし、方向性が異なるのです。

Scrapboxは、思いつきを小さな粒度で書き留め、そこにネットワークを形成します。つながりのおかげで思いつきが死蔵しにくく、また「リンク」をつけるためには、一行だけの書きとめでは不十分なので、必然的に「説明」が記述されるのがポイントです。アナログノートの比喩で言えば、メモからカードへの変身がそこではあります。豆論文の記述です。

一方で、org-modeは、思いつきを、文章のかたちでまとめていきます。独立的に記述するのではなく、一つの文脈に収めようとするのです。すると、徐々に文章の塊が大きくなっていきます。

実は、この文章自体も(結構長いですよね)、org-modeに数日かけて集まったメモ書きが骨子となっています。org-modeにメモを書き貯めていく、ということは、こうしたアウトプットの生成に直接つながっていると言えるでしょう。

ここに大きな違いがあります。

Scrapboxは、思いつきをオブジェクト的に管理し、小さい断片のまま扱えるがゆえに、それは大きな文章の生成にはつながっていきません。断片が持つ可能性が制限されることなく、自由に広がっていくのです。

一方、org-modeでは、思いつきを最初から「文章」の中に位置づけるので、そのまま続けていけば、大きな文章の生成につながっていきます。いずれ、何かしらのアウトプットが生成されるのです。

もちろん、Scrapboxに集まった「思いつき」を使って文章を書くことはできます。しかしそれは、改めて素材を点検し、それらを配置し、流れを整えるという手順が一つ挟まるわけです。org-modeでは、はじめからそれを行っているので、ダイレクトにアウトプットが生まれます。

どちらも、書き留めた思いつきを活用している点は同じです。でも、その活用の「仕方」が異なるのです。

では、このどちらをメインに吸えればよいのでしょうか。

もちろん、両方残すのが理想的ではあるでしょう。片方でネットワーク型管理をし、もう片方でリニア型管理(とここでは呼ぶことにしましょう)をしてけば、最強の知的生産空間ができあがりそうです。しかし、理想は理想であり、現実は現実です。有限の時間という制約が私のもとに迫ってきます。

思いつきを二つの方式で扱うということは、単純計算でその時間が二倍になることを意味します。なにせ、Scrapboxでの記述とorg-modeの記述はスタイルが異なるのです(前者は独立して読めるように、後者は流れの中で読めるように)。しかし、私だって別に一日中暇しているわけではありません。家事をしたり、運動をしたり、本を読んだり、こうして原稿を書いたりしています。二倍かかるメモの処理時間を押し込む余裕はありません。

では、どうすればいいのか。この問いは、このままの形では答えが出せないでしょう。別にどちらを選んでも「間違い」ではないからです。では、どの観点から考えるのか。

それが「原稿」です。

■箱からの要請

以前のメルマガで「箱の力」という記事を書きました。ツイートとかブログとか本とか、そういう(書かれる)メディアによって引き起こされる思考の形も変わってくるよね、というお話です。

メモ管理について考えるには、その「箱」について決めておく必要がありそうです。言い換えれば、自分はこれからどういうアウトプットを出していきたいのかを決める、ということです。

もし私が、一日に数個、2000字の読み切り記事を書くことだけを欲するなら、そもそも新しい方式は必要ありません。それはこれまでの「ネタ帳管理」でうまくいっていたからです。私が新しい方式を欲しているのは、それとは異なるアウトプットを目指しているからです。以前はそれを「思想を育てる」という表現をしました。そのために、より大きな、より時間をかけたアウトプットの作り方、あるいはそれを支えるための新しいシステムを欲したのです。

よって、今の私が直面している選択の問題(Scrapbox or org-mode)は、そのアウトプットから、言い換えれば、「箱」の方から考えていく必要があるでしょう。私は、どのようなアウトプットを為したいのか?

そう考えれば、天秤はorg-modeに傾き始めます。Scrapboxは、その活動だけでは大きなアウトプットは生まれず(※)、org-modeでのワンラインは使っているうちにアウトプットが生成されるからです。
※むしろScrapboxそれ自身が一つの巨大なネットワーク型アウトプットだと言えるでしょう。

そして、このことは別の方向からも表現できます。それは、 思想というのは、文章が書かれるときに育つのだ、と。

まず思想というものが育ってきて、その果実として文章が生まれるのではなく、文章として何かを表そうとするときに、思想もまた育っていく。そんな風に言えるかもしれません。

もちろん、日々の思いつきの中で、その思想の一部となる着想はたくさん生まれるでしょう。でも、それが頭の中でネットワーク的に漂っているだけでは、思想は育ちません。なぜなら、思想というのも結局は一つの大きな文脈だからです。

ある文脈を形成しよとするときに、同時に立ち上がるもの。それが思想なのではないか。

そんな仮説を今の私は持っています。そして、その仮説に従えば、私がやるべきことは、文章を書き下ろすことでしょう。自分で、5000字や1万字や10万字の「箱」を想定し、それに向かって日々の「思いつき」を文脈づけていくこと。その営為の先に、私が求めている大きなアウトプットが待っているのではないか。というか、そうした「箱」からの要請がない限り、他のことで忙しい私はなかなかその素材に手をつけることは行われにくいのではないか。そんな経験からの直感もあります。

■アウトプットをさらなる素材へ

また、その観点に立てば、毎日のように生み出している2000字ほどの記事群たちも、そのままでは、つまり書いたら書いたままで書き散らした状態では、きっと思想の形成には役立ちません。それぞれの記事が「2000字」という箱のサイズに閉じ込められているからです。

だから、書いた記事も単にEvernoteに保存して終わりではなく、きらりと光るものがあるならば、何かしらの文脈でまとめ、それを統合して大きな本へと昇華させていく。そういう動きも必要でしょう。

これは、一つの記事を素材として(大きめの豆論文として)扱うということでもありますし、一度アウトプットしたアイデアを「メタ・ノート」的に扱う手法とも言えるでしょう。どちらにせよ、書いたままにするのではなく、一つ上の大きなアウトプットの素材として役立てることの意義はありそうです。

さらに言えば、これは先ほど出てきた「時間の使い方」を少し改善してくれます。「毎日のブログを更新する」ことと「大きなアウトプットを作る」という行為が重なるからです。もちろん、書いた記事を集めた後に、また編集作業が必要になりますが(だからこそ、大きな思想の形成に役立つわけです)、しかし、いきなり10万字の原稿を書き下ろすよりは、「困難の分割」が行えているように思います。

■一つだけでは

ここまでの議論を振り返ってみると、メインはやはりorg-mode(ワンライン)であり、そこにどんどん思いつきを書き留め、それを文脈づけ、文章を生成していく、という流れが良さそうです。

とは言え、そのツール一本でいけるかというと、若干の疑問は残ります。

たとえば、ワンラインの中で、思いつきの断片をどこかに文脈づけることで処理していくとして、「明らかにどこにも属さないもの」の扱いはどうすればいいでしょうか。もちろん、それ自身を一つの大項目として扱えば事なきを得ますが、問題は時間が経てばそうしたものの数が増えていき、結局縦長のリストが出来上がってしまう点です。これはワンラインの使い勝手を落としてしまうでしょう。

見方を変えれば、「明らかにどこにも属さないもの」は、それ自身で完結しているものとも言えます。そうしたものはScrapboxに保存しておき、中で使われるキーワードをリンクにしておくやり方がよいかもしれません。

また、時間の問題とも関わってきますが、書き留めたすべての着想それぞれについてまんべんなく文章化していくのは難しい、という問題もあります。理想としてはすべてを文章化しておきたいが、かといって時間には限りがある。ということは、何かしらの優先順位で線引きしておくのが有効です。

で、その線引きの下に位置してしまうものについては、長々とorg-modeに引き留めておくのではなく、いっそのことScrapboxに放流してしまうのがよいかもしれません。他のページとつながるのを待ち、しかるべきときがきたら、org-modeに戻ってきて、文章化を進めていく。そのような流れです。

■さいごに

今回は、思いつきをいかに扱うのかについて、さまざまな観点から考察してみました。

現状の私のシステムは、最後に書いたとおりメインをorg-modeにし、補佐的にScrapboxを使う、という構成です。しかし、先ほども書いたとおり、文章化しようと思いつつも結局文章化できない思いつきの割合があまりにも多くなるようならば、もう少しScrapboxへの比重を増やした方がいいかもしれません。この辺りは、実際に進めながら判断していきます。

とりあえず重要なのは、「箱」からの要請です。これを見極めない限りは、適切なメモ管理システムは構築できないでしょう。

というわけで、一つの混沌は、少しの落ち着きを見せました。今こうやってわりと冷静に書いていますが、「実験」しているときは、「ああ、もう、どうすりゃいいんだよ」という心境になっていたことをここに告白しておきます。最初にも書きましたが、メモの扱いは知的生産プロセスのコアとも呼べるので、ここが固まらないことにはどうしても落ち着かないのです。

逆に、メモのシステムさえ固まっていれば、それ以外のものは多少変動しようとも、全体がぐらつくことはありません。それくらい大切なものです。

というわけで、長々とお付き合いありがとうございます。次回は、──今回よりははるかに短い形で──なぜorg-modeならうまくいくのかについて考察してみたいと思います。

では、では。

○おわりに

お疲れ様でした。本編は以上です。

今回は、デデーンと長めの記事をお送りしました。やはり、こうして文章として書き上げると、自分の中で「形成」された何かがあるな、という感覚があります。やはり文章を書くことは必要ですね。

それでは、来週またお目にかかれるのを楽しみにしております。

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