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Scrapbox知的生産術14 / ブックマークレットの作り方その2 / 情報整理ツールの平面配置について

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/08/01 第616号

「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百九回:Tak.さんとノウハウ書の在り方について 作成者:うちあわせCast

今回は「ノウハウ書は、どのような機能を有していたらいいのか」について考えました。

ちなみにこの話は、個人的な野望と深く関わっています。新しい「ノウハウ書」の書き方を開拓したい、という野望です。いささか無謀な野望ですが、それでもこのままでよいとはとても思えないので、いろいろ考えたいところです。

〜〜〜アルバム単位〜〜〜

最近、一周まわって曲をアルバム単位で聴くようになりました。「一週回って」というのは、つまりはこういうことです。

最初はアルバム単位で聴いていた→やがてカセットテープやMDで「自分なりのプレイリスト」を作るようになった→それがmp3環境でも続いた→そこにspotifyやAmazon prime musicなどのレコメンドも加わった→やっぱりアルバム単位で聴くようになった

なかなかの遍歴です。そして、時代は巡るものです。

ちなみに、私はspotifyなどのレコメンドはあまり好んでいなかったのですが、よくよく考えたら昔からラジオであったり、USENであったりと、「自分が作った音楽環境」でないものを聴いていたわけで、単にそのチャネルが少し変わっただけと考えれば、そう毛嫌いするものではないなと気がつきました。

ただ、「自分のプレイリスト」と「誰かのレコメンド」の二つは主流になったものの、昔懐かしい「アルバム単位で聴く」ということをほとんどしていませんでした。そもそも、曲自体をiTunesなどで単発で買っているので、そうなってしまうのは当然の結果でしょう。

でも、それって「効率的すぎるな」と最近思うようになりました。そこで、好きなアーティストのアルバムを買って、それを頭から終わりまで聴くようにしています。それもまた良い体験です。

音楽の愉しみ方は一通りとは限らない。

当たり前の話ですが、頭が堅くなってくると、ついつい生活が習慣化されてしまうので、意識的にストレッチしていきたいものです。

〜〜〜いかなる形で書くか〜〜〜

以下のニュースレターを読みました。

◇技術書が書かれるまでの舞台裏 - by 堀 正岳 (@mehori) - ライフハック・ジャーナル

堀さんはこの記事の中で「技術書」を書く上での心構えを説かれています。

>>
自分の考えや感じ方を表現するエッセイなどとは違って、テクニカルな書籍は常に書かれている対象があります。その対象について虚偽の記述をしてしまうのは、その対象に対しても、読者に対しても二重の過ちになるので、責任重大なのです。
<<

特に説明は不要と思いますが一応書いておくと、「書かれている対象」とはたとえばiPhoneやらEvernoteといった具体的な存在で、それについて虚偽の記述をすることは、iPhone(やApple)に対しての過ちである共に、「誤った情報を伝えてしまった」という読者に対しての過ちにもなるわけです。

だから、調べられるものについては最大限調べて誤りが含まれないように気をつけましょう、というアドバイスはもっともなものでしょう。

一方で、引用文の最初にある「自分の考えや感じ方を表現するエッセイなどとは違って」に注目してみると、また違った観点が立ち上がります。そうしたものは、上記のような「対象」を持ちません。ようするに、自分の頭も中にあるものを表現するだけなのです。

そこでは、いかに自分の考えを精確に表現するのかが問われますが、「事実と合致しているのか」は問われません。その点に違いがあるわけです。

こうして考えてみると、いわゆるノウハウ(あるいは知的生産の技術)について語ることは、上記のような技術書的側面もありながら、エッセイ的側面もある、というコンバージェンスな内容であることがわかります。

この点をどのように整理し、どこに位置づけるのかが、大きな課題であると感じています。

そしてこの課題に関しては、『思考の整理学』も『知的生産の技術』も、エッセイとして書かれていたという事実が一つのポイントであるように思います。

〜〜〜読了本〜〜〜

最近、サッカー漫画の『アオアシ』を読みはじめました。熱いスポーツ漫画です。

『アオアシ(1)』(小林有吾、上野直彦)

それまで「天性の感覚」を用いて個人プレーで活躍していたサッカープレイヤーが、頭を使いチームプレイを「発見」していく、というのが序盤の流れです。その流れがとても面白いです。

たとえば、個人技の練習にしても、ただがむしゃらにやるだけでなく、その意味について考えて練習すると抜群に効果があがる、という話は(漫画的誇張があるにせよ)、非常に納得できるものがあります。体を動かすことにおいても、頭を働かせることは大切なわけです。

また、サッカーにおける「止めて、蹴る」は基本的な動作なようですが、それが当たり前にできるようになって、よりプレイの幅が広がるという話も出てきます。これも示唆深い話です。「文章を書く」という行為についても似たようなことが言えるでしょうし、きっと他の分野でも同じでしょう。

おそらく、「コツ」を求めすぎてしまうことの弊害は、そうした基礎的な動作の習得をすっ飛ばして問題解決に至ろうとする、その心理的な姿勢にあるのでしょう。

というわけで、『アオアシ』は続きも読もうと思います。アニメもやっているみたいなので、気になる方はそちらもどうぞ。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 最近、音楽はどのようなスタイルで視聴されていますか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週はScrapbox知的生産術の14と、エッセイを二つお送りします。

「Scrapbox知的生産術14」

今回は、補足的な情報をいくつか提示する。どれもたいした話ではないが、存外にそういう話が重要でもある。困ったときなどに参照してもらえれば幸いだ。

■不完全なライブラリ

ここまでの話の総括にもなるが、DCS(デジタル・カード・システム)としてScrapboxを使う場合は、「完全なライブラリ」を作ろうと考えない方が良い。

「完全なライブラリ」とは、

・すべての情報が過不足なく記載されている
・すべての情報の規格が統一されている
・すべての情報に適切な位置つけがなされている

といった要素を満たす装置だ。

こういう装置はイマジナリーとしては理想の存在だが、それを作り、維持するコストは現実的ではない。

記述が途中のカードがあってもいいし、粒度が合っていないカードがあってもいいし、完全な構造化に情報が置かれていなくてもいい。

そのような開放系において、使いながら整えていくのが、DCSの現実的な運用方法である。

・後で書き足せばいい
・後で整えればいい
・検索やリンクで見つかればいい

このような開き直りこそがDCSにおいては重要で、だからこそ、それまでのツールではなせなかったことをなせるようになるのだ。

■見つからなければ、とりあえず作る

不完全なライブラリであるDCSでは、「保存してあるかな」と思って探した情報が、うまく見つからないことが当然起きる。

そういうときは、あまり気にせず、探そうと思っていた情報のページをとりあえず作っておくことだ。

そうやってページを作っておき、必要な情報をもう一度、別の場所なりで探して、そのページに書き込んでおく。

こうすれば、次に探したときに見つけられるようになる(これが〈使いながら整える〉ということだ)。

「もしかしたら、昔作った同じ情報のページがあるのでは」と不安になったら、「同じ情報のページが複数あって何が問題だろうか」と考えるようにしよう。実際、何も問題ない。

もし、後で探していたページが見つかったら、新しく作ったページとタイトルを揃えることで、Scrapboxではページのマージが実行できる。そうして統合させておけば、特に問題はない。

とにかく、探してもすぐには見つからない、ということは普通に起こりうる。そうしたときに、細かく対応していくのがポイントだ。決して、先回りして準備し、何でも確実見つかるように整えておく、というやり方はしないこと。

■ページの粒度

ページの粒度(カード作りの単位)をどのように決めたらいいのか、という点が気になる人もいるだろう。それがわからないと、なかなかページの記述が進まない人もいるかもしれない。

しかし、悲しい答えを返すしかない。

「適切なページの粒度は、人によって違う」

身もふたもない話であるが、まったくもって事実である。しかも、人によって違う上に、それは実際に作って・使ってみないと答えがわからない。

フローチャートを分岐させて、「あなたに適切な粒度はこのサイズ!」と答えを出すことはできないのだ。

使いながら、「これは大きすぎるな、これは小さすぎるな」と判断し、その判断に応じてページを作り替えていく、整えていく。そういう作業が必要になる。

こういう地道な発見(発見と言っていいだろう)を避けようとして、すべてをマニュアル通りに進めようとすると、だいたいどこかの時点でうまくいかなくなる。中長期的に続けるものだからこそ、自分なりの発見を大切にしていきたい。

■着想以外の情報

DCSは、自分の着想を記述し、それと対話しながら自分の考えを育てていくための装置であるが、そこに書き込まれるものは着想だけとは限らない。

梅棹の情報カードも汎用性の高さが謳われていたが、DCSでも同様だ。着想以外のさまざまな情報を保存していける。

たとえば、出来事を記す「日記」がある。さらに、この日記にも「デイリー型」と「トピック型」の二種類がある。

デイリー型は、私たちが日記といって思い浮かべるタイプで、日付ごとに一ページを割り当てるものだ。

トピック型は、出来事の種類にフォーカスを当てるタイプで、出来事ごとにページを割り当てる。

Scrapboxらしい使い方は、トピック型の方だが、だからといってデイリー型のページを作ってはいけない、ということはない。また、最初にデイリー型で作っておいて、特別な出来事を一つのページとして斬り出すというハイブリッド型もありえる。
 
ここにおいても、適切な粒度は自分で使いながら見つけていくしかない。自分でいろいろ試してほしい。

その他、アンチョコ・勉強ノート・読書メモ・各種リストなども、DCSの一カードとして保存することができる。もちろん、そのそれぞれで上記のようにさまざまな粒度の設定スタイルがありえる。

なかなか面倒な話ではあるが、「正解は何か?」という視点ではなく「どれが使いやすいか?」という視点で探求を続けるのがよいだろう。

■仲間を集める

DCSでは、全体の構造化は行わない。せいぜい「お仲間」を集める程度である。あるいは、「同じ香りのするカードたち」を集めると言ってもいいかもしれない。

もちろん、その収集も1枚のカードで行う。一つのカードに、あのカードとこのカードとそのカードが近しいと書き込むわけだ。それも、箇条書きで並べるのではなく、その「近しい感じ」を文で表現しておくのがよいだろう。

もちろん、文章化が難しければ、箇条書きで列挙しておいても構わない。なにせ不完全なライブラリなのである。しかし、可能であれば文章として表しておこう。そうすれば、そこにある「構造」がより具体的に見えてくるし、新しい仲間を呼び込んだり、うっかり紛れ込んだ仲間外れを見つけたりもできる。

■次なるステップとしての構造化

DCSにおいて作成してきたカードを、「次なるステップ」で活用するためには、「スクリプト」が役立つ。これがアナログとは違う、デジタルの真骨頂だろう。

具体的には、以下のようなものがある。

◇ScrapboxからWorkFlowyにデータを移すためのUserScript - 倉下忠憲の発想工房

◇Scrapboxサルベージ(UserScript) - 倉下忠憲の発想工房

上は四年前に、下は四ヶ月前に私が作ったスクリプトである。下のスクリプトは、小田やかたさん( https://twitter.com/ottaka18 )のオーダーに合わせて作った。

細かい動作については省略するが、どちらもScrapboxにあるページの内容を、WorkFlowyにコピペするために整形したデータとして表示してくれる。

DCSは、こうした使い方が可能だ。上記はScrapboxのUseScriptを使った実装だが、他のツールでも何らかの手段を用いて、一定の条件に合うカードを抽出し、それを整形して表示することができるだろう。

そうしたスクリプトを通して、他のツールでカードの情報を「操作」することは何かしらのアウトプットを作成する上で有用である。

この場合のポイントは、そうやってデータ処理を行い、操作したとしても、おおもとのScrapbox/DCSには、何も影響を与えていない、という点だ。別の言い方をすれば、WorkFlowyでカード群を構造化したとしても、Scrapboxのページたちは、そうした構造化とは無縁の状態で置かれ続けている。ようは、二つの関係性は遮断されているわけだ。

もし、WorkFlowyの構造化が、Scrapboxの方にも反映されてしまったら、以降のカード作りもその構造に引きずられることになる。それは望ましい状態ではない。

電子的な情報を使うことで、ツールAからツールBに情報を移動させられるようになったことと、二つのツールが情報的に遮断されていることは、相反する要素のように思えるが、実際は大切な要素なのである。

一応アナログ手法で位置づけておけば、ScrapboxのカードをWorkFlowyに移動させてそれを「操作」する行為は、梅棹のこざね法に相当する。あるいは、川喜田二郎のKJ法に相当する。

特定のアウトプットに向けた、限定的な構造化。

それが二つの手法に通じる要素であり、Scrapbox→WorkFlowyの中にある要素でもある。

一方で、この操作は、梅棹が述べた「カードをくる」ではない。それは、日々カードを作り、その関連性を考えてく行為の中に宿るものだ。大きな構造を作らず、カード同士の関係について思いをはせること。それが「カードをくる」ことであり、DCSの中核をなす知的営為である。

私自身の体験からいって、この二つは交じり合うことがない。というか、まぜようとすると別の手法になってしまうのだ。「大きな構造」を作らずカードを作っていく行為と、「一つの構造」の元に要素を配置していく行為は、あくまでまったく別種の知的営為なのである。

それを効率化のために接続しようとすると、どちらもが中途半端な結果になってしまうだろう。その点には注意されたい。

以上、細かい補足を押さえた。あとは、全体を総括する話をまとめよう。

(つづく)

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