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知的生産の技術の体系化に向けて その2

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/09/13 第570号

○「はじめに」

『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』の3刷目が決定しました!

それもこれも皆様の応援のおかげです。ありがとうございます。

今後も長く読んでいただけるよう、販促も引き続きがんばっていきたいところです。

ちなみに、3刷目を記念してオンラインイベントを行うことになりました。

◇『すべてはノートからはじまる』の重版記念オンラインイベント 2021年9月17日(神奈川県) | こくちーずプロ

お時間あえば、ご視聴くださいませ。

〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜

ポッドキャスト配信されております。

◇BC020『理不尽な進化』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

今回は、今年読んだ中で一番わくわくした本を取り上げました。その分、紹介は非常に難しかったです。機会があれば、本も手に取ってみてください。

〜〜〜原稿的連動〜〜〜

今、メインとしているプロジェクトが一つあります。THと名づけられているプロジェクトです。いわゆる商業出版の書籍原稿執筆。

個人的なコミットメント度合いを、もし円グラフで表示するならば、THが全体の8割を占めています。主要な関心事です。でもって、他のさまざまなプロジェクトがトータルで2割くらい。細かい分配は日ごとで変わるので、トータルで捉えるくらいがちょうどよいです。

で、気がつきました。朝からTHの原稿がうまく進んだ日は、他のプロジェクトもサクサク進みます。一方で、THの原稿が進まない日は、ぜんぜん関係ないプロジェクトもあまり進みません。綺麗に連動しています。

おそらく、うまく進まない日は、私の脳が作業をしていないときでもTHについていろいろ思い悩んでいるのでしょう。一方で、うまく進んで「よし」と思えた日は、その注意が外れ、目の前のプロジェクトに向けられるのだと思います。

昔から、複数プロジェクトを並行して進めるのが難しかったのですが、おそらく悩みに悩みながら書いていたからでしょう。今は、バザール執筆法のおかげで「現状は難しいことを考えずに、ただ書くだけ」のターンがあり、その間は他のプロジェクトもそれなりに進められるようになってきています。

こういう按配についても、観察し、試行し、実験しながら確かめていくしかありません。なにせ自分のことですので。

〜〜〜並べ方を決めるのは何か〜〜〜

書籍の構成作りは、永遠なる命題です。「こうすれば構成ができます」という方程式はまだ見たことがありません。本を一冊書くたびに、悪戦苦闘が毎回発生しています。

でも、少し気がついたことがありました。

アウトライナーで目次案(見出しリスト)を作ったばかりのときは、それぞれの項目の「ボリューム」はまったく見えていません。せいぜい「おぼろげな予想」があるくらいです。

で、実際に書きはじめてみると、具体的な文章のボリュームが見えてきます。1000字くらいなのか、3000字くらいなのか、5000字くらいなのかが体感としてわかってくるのです。

そうやってボリュームがわかってくると、「並べ方」もわかるようになります。適切な話の順番が見えてくるのです。

たとえば、英語で文章を書く場合、長すぎる固まりは後に移動させることがあります。まず骨子だけ提示して、修飾は後ろに、という後置のパターンです。これは、ボリュームが並べ方を決めているのだと言えます。

原稿の順番も同じようなことなのです。ボリュームが並べ方を決める。

最初に目次案を作って、その通り書こうとするのが難しいのは、このボリュームの話を無視するからでしょう。あるいは、構成に合わせてボリュームを調整しようとするからでしょう。

主語に二単語、動詞に二単語、目的語に二単語で文を作りなさい、と言われたらひどく息苦しい気がするはずです。それと同じようなことをやってしまっているわけです。

まずボリュームありき。

だから、見出しの「並べ方」は、その中身を無視した「意味」だけでは決定できない部分があります。見出しをいじっているだけでは、決定的な「決定」ができないのです。

でもって、ボリュームを確かめるには、実際にそれを書いてみるしかありません。だからこそ、「とりあえず、先に書いてしまう」というバザール執筆法が有効なのでしょう。

〜〜〜知的生産ノート〜〜〜

世の中には、「hogehoge手帳」なるものがわんさかあります。それだったら「知的生産手帳」みたいなものがあっても良いでしょう。というか、知的生産活動は年という単位を超えて行われることが多いので、手帳ではなくいっそノートの方がいいかもしれません。知的生産ノート。

しかしながら、本家『知的生産の技術』に立ち返るなら、「ノート」ではなく「カード」が適切なはずです。でもって、それなら情報カードを買おう、以上、という話で終わってしまいます。残念無念。

だったら、知的生産手帳でもいいのかもしれません。一年間の読書記録をまとめたり、好きな文章を引用して書き留めておくための手帳も面白そうです。

〜〜〜サイドバー恐怖症〜〜〜

最近、がっつり作り込まれたNotionのテンプレートを見かけたのですが、サルトル的嘔吐感というとちょっと大げさですが、わりとゲンナリしてきた気持ちが湧いてきました。

そのテンプレートが不出来だったからではなく、むしろほとんど完璧に作り込まれていたからです。隙がない、とでも表現できるでしょうか。

2010年くらいは、私もそういうのを緻密に作ることをやっていたのですが、Scrapboxを使うようになってからは少しずつ気持ちが離れていき、いまではサイドバーにがっつり構造が作られていると、かなり気持ちが萎えるようになりました。

情報整理のための構造を作ることはありますが、WorkFlowy + DoMAスタイルのように固定的なものではなく、気が向いたらひょいひょい変えていけるリキッドな構造です。そういう「固すぎない、固さ」くらいであれば、わりとうまく付き合っていけます。

もちろん、がっつり固定的な組織で仕事をしているならば、ソリッドな構造の方が精神的にはフィットするのでしょう。良し悪しというよりは、単純に相性の問題なのだと思います。

〜〜〜使いこなす〜〜〜

前々から気になりながらもスルーしてきた言葉に「使いこなす」があります。

だいたいは何かしらのツールについて言及するときに利用され、その大半は未達の状態で使われます。つまり「使いこなせない」や「使いこなすには」や「使いこなしたい」という具合です。

不思議なことに、「私はhogehogeを使いこなしています」という自己申告の文脈ではこの言葉はほとんど見かけません。常に、不足を表す文脈で用いられるのです。

だからなのでしょうか。この言葉が本当のところ何を意味しているのかが見えてきません。逆に言えば、どうなったら「使いこなせている」と言えるのかがわからないのです。

あるいは、そうした状況のとき──つまり、どうなったら「使いこなせている」と言えるのかがわからないとき──この言葉が使われるのかもしれません。それはそれで興味深い現象です。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 「使いこなせない」と感じるときは、どんな状況でしょうか。

では、メルマガ本編をはじめましょう。今回は「知的生産の技術の体系化に向けて」の二回目をお送りします。

○「知的生産の技術の体系化に向けて その2」

前回は、「知的生産の技術」の体系化についてアンビバレントな問題提起をした。体系化を欲しているが、しかしそれが本当に必要なのだろうかという疑念も拭えない。そういうややこしい心理が今の私にはある。

振り返ってみると、私は知的生産にまつわる技術を、さまざまな書籍を漁ることによって学んできた。それまさに「漁る」という言葉が適切で、もはや冊数を挙げることも不可能なくらいである。

そうした本の大半は新書や文庫であり、どちらかと言えば2000年近辺よりはそれよりもずっと前のものが多い。だから、新刊書店だけでなく、中古書店も活躍した。むしろ中古書店の方が「素晴らしい出会い」が多かったようにも思う。

「知的生産の技術」の伝達者(あるいは媒介者)であろうと考えたとき、このような状況は非常に厄介である。自分がこれまで読んできた本をすべて列挙して、「これで学びましょう」と言うこと自体は簡単だが、親切とは言いがたい。お金もかかるし、それ以上に入手できるとは限らないからだ。

だからやはり、一冊にまとまっていた方が「親切」であるかのように思う。自分の苦労を後の世代に再生産しないのは、一つの努めではあるだろう。

だから、数年前の私はこうした情報をまとめたいと切に願っていた。これほど大切な(そして面白い)技術を学ぶのに、こんなに苦労するだなんて、間違っている、と。

でも、そんなに安直に進んで良いのだろうか。そんな疑問を持つのは、私が「教科書」に苦手意識を覚えるからであろう。

■教科書的

私は「教科書」を好んでいない。とは言え、慌てて説明するが、それは学校で使われる教材としての教科書ではない。そのような教材は、ものすごく丁寧に作られているし、読み物としても普通に面白い(そのことは大人になってから気がついた)。

私が好んでいない「教科書」は、Amazonで「ブログ 教科書」というキーワードで検索したときに大量に見つかるような類いのコンテンツのことである。

それらの「教科書」は、教材としての教科書と違って、個人の体験をそれっぽくまとめただけのものである。普遍性への探究も、一般化への苦労もない。ただ、個人の知識を何かしらのフレームワークで整理しただけ。そういうコンテンツを「教科書」と呼ぶことには、ひどい抵抗感を覚える。

私は何も、そうした本に書かれている知識が間違っていると言いたいわけではない。そうではなく、あたかもそのような「やり方・在り方」が絶対的に正しいものだ(つまり、正解である)と簡単に豪語してしまっている点に嫌悪感を覚えるのだ。

ブログの在り方はさまざまであってよい。儲けを目指してもいいし、目指さなくてもいい。公益を担ってもいいし、趣味に走ってもいい。そのような自由な選択が可能であることが、個人が持てるメディアとしてのブログの良さであっただろう。

「教科書」は、そのような自由をかなりの程度制約する。「こういうブログが正しいのですよ」と言ってのける。あたかも学校の教材としての教科書が知識の正しさを保証するかのように。しかしそれは、あくまで一個人、あるいは類似のグループ内の知見や体験でしかない。そういう限定的なものを、全体における「正しさ」として断言するその姿勢は、薄ら寒くすら感じてしまう。よくそこまで他人の可能性を制約することに無自覚であれるな、と。

そういう人たちは、他人の可能性を開いているように見えて、実は情報の発信者が想像できる可能性の内側に他人を閉じこめているのだ。

私が「知的生産の技術」の体系化に怯えを感じるのはそれと同種のことを自分がやってしまうのではないかという疑念があるからであろう。

■知的生産について

言うまでもなく、ブログというのは「知的生産の場」である。現代において個人が持てる最高の場の一つでもあろう。そうした「場」の可能性が、「教科書」によって制約されてしまうならば、「知的生産の技術」に敷延しても同じことが起こるのではないか。そんなことを考えてしまうのだ。

つまり、「教科書」に書いてあるからその通りにやれば、「知的生産」が達成可能である、と思われてしまう。そういう状況を作り上げてしまう。それはまったくもって「知的生産」ではない。

なにせ知的生産とは、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」なのである。教科書通りにやれば合格点がもらえる、みたいなこととはまったく違っている。むしろ真逆ですらあるだろう。

もちろん、コンテンツの作り方としてニーズに応えることは必要なことだ。情報の受け手が「教科書」的なものを欲しているのならば、「教科書」的に提示するのは、ビジネスとしては正攻法であろう。

しかし、それはまったくぜんぜんイノベーティブではない。新しいものは何も生み出さない。ただ、工場のように同じものを繰り返し作っているだけだ。私はむしろ、「頭を働かせることが必要なのに、教科書的な情報を欲してしまう」という状況を変革するような、楔を打ち込みたいと欲する。

でもって、それが「知的生産」の精神ではないだろうか。

■人それぞれの

以上のようなひねくれた考えを私は持っているわけだが、しかし単に天の邪鬼マインドが発揮されているだけではない。その考えを補強するいくつかの要素がある。

まず、私は体系的に「知的生産の技術」を学んでは来なかったが、しかし今こうして知的生産を行っているし、何ならそれが職業になっている。この時点で、体系化の必要性がやや薄れる。

もちろん、「それは生存バイアスではないか」という疑問はあるだろう。先ほどの「一個人の体験を一般化している」のと同じというわけだ。

しかし、私の身の回りにいる知的生産に従事している人も、別段体系的に学んだということは少なそうに思える。たしかに大学に入り、論文執筆などで鍛えられた人もいるだろうし、割合としてはそうした人の方が多いかもしれないが、しかし、そうした人たちばかり、というわけではない。ブログに絞れば、むしろ非アカデミックな人の方が多いくらいである。

でもって、そうした人たちは、私が読み漁ってきた本とは違った本を漁って知的生産の技術を学んできている。もちろん、重複するものも多いが、ピタリ重なるとは言い難い。結構違っている。

さらに言えば、そうした人たちの「技術」と「実践」はずいぶん多様である。本の書き方、文章の書き方一つとっても、統一的とは言い難い。少なくとも「教科書に書いてあることを、そのままやっていれば」的なものではぜんぜんない。

ここで一つの仮説が思いつく。

私たちはバラバラの道で知的生産の技術を学んできた。結果的に、それぞれの人が少しずつ違った形で知的生産の技術を自分なりに確立させた。そして、それぞれの人が違った形の知的生産の成果物を生み出している。この3つは影響し合っているのではないか。

つまり、個性ある知的生産を行うためには、個性ある知的生産の技術の確立が必要で、そのためにルートがバラバラであることが必要だったのではないか、ということだ。

もしこの仮説が真であるならば、安易な体系化は没個性的な「知的生産」を大量生産しかねない。あるいは知的生産そのものを殺しかねない。十分な注意が必要だろう。

(下に続く)

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