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二つの分類、アウトライナー文化論、世界の可変性/振り返り、掘り下げ、広げ、つなげる

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/03/22 第545号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

◇第六十三回:Tak.さんと「アウトライナーの使い方ド下手問題」について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

◇音声024:倉下忠憲さんに「DoMA」について聞く(大橋の最新のDoMA) - シゴタノ!記録部

◇第08回:『ヒューマン・ネットワーク』 - ブックカタリスト

うちあわせCast第六十三回は、かなり盛り上がるテーマになりました。こういうネタを取り上げるレアなポッドキャストとして頑張っていきます。あと、他の人のDoMAについて話を聞くのは面白いですね。

〜〜〜Hypernotes〜〜〜

前回紹介したHypernotes、少し気に入っています。

◇Zenkit Hypernotes - Experience a new way of collaborative writing.

Roam Researchっぽいことができるのですが、多機能すぎる状況にもなっておらず、しかもノートブックごとに分冊できるスタイルなので、テーマごとの「名前空間」(リンクのサジェストを切り分けるもの)を作ることができます。

さらに、ページ移動のボタンがついているので、パラパラ読み進めていけるのも高評価です。

ただ、テキストエディタなどから文章をコピペしたときに、改行ごとに項目が分割されず、一つの項目にすべての文章がつっこまれてしまうので、それが難点ですね。それさえクリアしてくれれば、良いツールになると思います。

〜〜〜WorkFlowyに画像がアップロード可能に〜〜〜

これまでDynalistに比べて、機能が貧弱であるとさんざん揶揄されてきたWorkFlowyですが、この度めでたく画像&ファイルがアップロードできるようになりました。

◇WorkFlowyのimage&file upload - 倉下忠憲の発想工房

ぱちぱちぱちぱち。

と大喜びするほどではありません。WorkFlowyではテキストしか扱えない、という前提のもとで情報ツールの系(システム)を作り上げているので、新たに機能が追加されても使い道を思いつかないからです。

それよりも、少し前に追加されたMirror機能が抜群に強力ですね。倉下も精力的にその使い方を探索中です。

〜〜〜手書きが促す自覚〜〜〜

少し前から、サイゼリヤは「注文書」を採用しています。店員さんに直接オーダーを告げるのではなく、注文書に番号と個数を書いて渡すのです。マスクの重要性からもわかるように、大きな声で店員さんに向かって注文する、というシチュエーションを減らすのは感染予防に効果的でしょう。

しかも、タブレットによる注文システムに比べると、圧倒的に低コストかつスピーディーに導入できます。なかなか知恵があるな、と(かなり上から目線で)関心していました。

しかし、先日サイゼリヤで注文書を書いているときに気がついたのです。「あれっ、自分は四品も注文しちゃっているぞ」と。手で書く行為は、瞬間的・直感的な感情を静め、かわりに理知的な思考を高めてくれます。当然のように、「じゃあ、注文はここまでにしておこうか」という気分も湧きます。

そのような思考の切り替えは、体重管理には良いかもしれませんが、お店の売り上げにとっては良くないことでしょう。

たとえば、おこづかい帳なども自動で記録されていると合計金額しか目に入りませんし、そもそもどれだけ個数が増えても体感的な違いはありません。しかし、それを手書きで記録していると、「数が多い」という感覚が明らかに強く出てきます。その感覚は、行動へのフィードバックにもなるでしょう。

この話は小売り業・飲食業的には深刻な問題かもしれませんが、知的生産の技術的には実に面白い話です。
*生協の注文が手書きからタブレットに変わったとき、平均客単価がどう変わったかのデータがわかるとより考察が進みそうです。

〜〜〜分かれているからこそ〜〜〜

Hugoはとても素晴らしい静的サイトジェネレーターであり、Obsidianと組み合わせることが可能です。

だったらそこに、WorkFlowyとScrapboxを混ぜればアンビリーバボなツールができると思い描きがちですが、実際そんなものができたら、使いにくくて仕方がないでしょう。あらゆることが中途半端にしかできないツールになるはずです。

少し考えてみても、そこまで機能が集まったツールはショートカットキーが混乱するはずです。メニューもどこに何があるのか把握できないでしょう(とあるツールが思い浮かびますね)。

八百屋さんは野菜と果物を、魚屋さんは魚介類を、米屋さんはお米を、お茶屋さんはお茶と売る。それぞれのお店が、それぞれ専門的なものを売る。そして、そうしたお店群が、商店街としてグルーピングされている。そのような関係性が良いのだと思います。

でもって、「商店街としてグルーピングされている」とは、情報の行き来がスムーズにできることを意味します。それ以上の融合を願うのは、悲しい結末を呼び込むことになるでしょう。

〜〜〜電子メモ付きカバー〜〜〜

以下のような「アイデア」をひらめきました。

◇電子メモ付きのiPhoneカバーはどうか - 倉下忠憲の発想工房

一応iPhoneでも「手書きメモ」はできるのですが、それ以外のこともできてしまうので、メモする気持ちが逃げやすい点があるのと、それ以上に電子メモは「消さなければ書いたまま残っている」のが特徴で、買い物用のメモなどは絶対電子メモの方がよいと思います。

どこかのメーカーが作ってくれないものですかね。あるいは、KOKUYOさんとかにプレゼンすべきか……。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 合体したら嬉しいツールの組み合わせを教えてください。

では、メルマガ本編を始めましょう。今週も長い記事1つ+短い記事1つの構成です。

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○「二つの分類、アウトライナー文化論、世界の可変性」

今回は、二つの「分類」について考えます。分類の方法について分類するのではなく、「分類」そのものを類します。

■所与=絶対の分類

アリストテレスは十のカテゴリー(範疇)を記述しました。

・実体
・量
・質
・関係
・場所
・時
・体位
・所持
・能動
・受動

これらは第一に、排他的です。つまり何かが(≒単語表現が)、「時」であるならば、それは「場所」でも「質」でも「受動」でもないことになります。「午前2時」が示すのは、「時」であり、それ以外の九のカテゴリーには含まれません。同じことは「ニューヨーク」や「走る」という言葉にも言えます。

あるカテゴリーに含まれれば、他のカテゴリーには含まれない。これが排他性です。

さらに、このカテゴリーは所与のものです。アプリオリと言い換えてもいいでしょう。私たちが人工的にこしらえたものではなく、そういう切り分け(カテゴライズ)が人間の意志を超えて可能なもの、人間の認識に先立って切断線が引かれているもの。それが所与のものです。

もちろん、それはアリストテレスの認識であり、本当にそうなのかは検討の余地があります。たとえば、能動と受動の切り分けは、言語=文化による切断が強く、『中動態の世界』で國分功一郎さんが論じるように、現代の能動/受動の感覚と、古代のそれとがまったく同じであるわけではないでしょう。

また、人間以外の動物にとって、人間があたり前に得ている感覚がほとんどなかったり、逆にはるかに鋭敏だったりします。仮に「時」の感覚があるにせよ、それが人間と同質である保証はないでしょう。

しかし、そうした細かいツッコミはさておき、アリストテレスは上記のような排他的で、「与えられたもの」としてのカテゴリーを論じました。その与えられたカテゴリーは、人間には按配不可能なものです。「場所」を細分化することはできますが、場所に似た別の概念を同一階層に並べることはできませんし、新たなカテゴリーを設定することもできません。

そうした概念操作が不可能だ、という話ではなく、そうした操作を要請するためにアリストテレスが上記のカテゴリーを記述したわけではない、ということです。十のカテゴリーはそこにあり、人間はそれを受け入れる(受け入れている)というのが、アリストテレスのカテゴリーです。

これが第一の「分類」、すなわち絶対的分類です。あるいは「強い分類」と呼んでもよいでしょう。

■プリミティブな情報整理

次に、個人の情報整理について考えます。

たとえば、あなたがGTDやらなんやらかんやらの技法をまったく知らないとしましょう。それでも、頭の中が一杯なので、それを書き出すことによって整理することを決意したとします。前向きな一歩です。

とりあえずノートを買ってきて、そこに思いの丈をあらかた吐き出します。たくさんの項目が並ぶことでしょう。

そうして書き出してすっきりした後、腕まくりをしてそれらを「整理」していくことになります。とは言え、あなたは整理技法についての知識を持っていません。仕方がないので、手探りでそれを進めていくことにします。

書き出したリストを上から下まで眺めていけば、きっと「あっ、これとこれは似ているな」と思うことでしょう。人間の脳は「パターン」処理が大得意なので、その機能が不全状態になっていない限りは、「似ているもの」(=パターン)を見つけるはずです。

とは言え、そうして見つけられるパターンがすべての人で同じというわけではありません。むしろ、それぞれの人の経験や知識によって見つかるパターンは変わってきます。差異があるのです。見つけるパターンはさまざまに違うが、「パターンを見つける」ことは共通している、ということです。

ただし、差異があるにしてもそれはランダムにもたらされるものではありません。ある認知的な傾向が、見出すパターンの傾向になります。そして人は認知的な傾向に共通点を持つので、見出されるパターンも一定の共通点が見られます。人間である限りにおいて、ぜんぜんバラバラになることはありません。
*カントの「客観性」の議論に近いです。

よって、卓越したフランス料理の五つ星シェフが二人いたら、「思いの丈リスト」からパターンを見出すときに、いくつかの共通性が出てくるでしょう。たとえば「これはレシピに使えるな」とか「食材のことが気になっているな」など、共通の抽象性がそこに立ち上がるのです。

ポイントはその「抽象性」です。二人のシェフのリストに同じ項目が並ぶわけではありません。そうして並んだ項目から「これとこれは似ているな」と思うその感覚が近しいと言えるのです。

つまり、そうした感覚は極めて個人的なものでありながら、他者との共通性をいくらかは持っていると言えます。もしそれが存在しないなら、リストに関するあらゆる他者に向けたアドバイスは無意味なものになります。しかし、実際は共通性があるので、いくらかはアドバイスに役立つところが含まれるのです。

■強くない分類

さて、書き出した「思いの丈」リストの整理に話を戻しましょう。「あっ、これとこれは似ているな」という感覚に基づいて、整理を進めます。

やることは簡単で、「あっ、これとこれは似ているな」というその感覚に名前を与え、そこに含まれる項目をピックアップしていくだけです。「買い物リスト」、「行きたい場所リスト」、「絶対にやらなければならないことリスト」など、いろいろな名づけは可能でしょう。

そうしたリスト作りを全項目にわたって行えば、整理は終了です。そして、目の前には項目の「分類」ができあがっています。しかし、この「分類」は、強い分類ではありません。

第一に、それは排他的ではありません。便宜的に項目をどこかのリスト≒カテゴリーに配置することをし、それはつまり他のリストには位置づけないことも意味しますが、あくまでそれは便宜的であって絶対的なものではありません。

私たちは一匹の黒い猫を見て、──自分がそれまで得てきた記憶の集合を用いて──さまざまにパターン化します。猫というパターン化もありますし、小さい動物や、黒い動物というパターン化あります。近所をうろちょろしている生物や、My favoriteというパターン化も可能です。

そうしたパターンは排他的な性質を帯びているわけでなく、便宜的に恣意的にリストを切り分けているだけです。別の言い方をすれば、あらかじめ排他的に分類が設計されているわけではありません。そこにはいろいろな多重性や越境可能性が含まれています。

■所与でもない

第二に、それは所与のものではありません。その点は論じるまでもないでしょう。なにせ分類がまったく存在していない状態から、ボトムアップでその分類を立ち上げたわけです。私たちの人間存在、あるいはその意識よりも前に、こうした分類があり、それに従って情報を選り分けたわけではなく、あくまで「自分が感じるパターン」によって情報を便宜的にリスト分けしたに過ぎません。

たしかに、「自分が感じるパターン」は自分の経験によって形成されるものであり、その意味で「リストを作るその瞬間の自分」よりは、アプリオリなものに依っていることはたしかです。しかし、それは「神がつくりたもうた分類」のように絶対的な分類ではありません。

なぜなら、先ほども述べたようにパターンは排他的ではないからです。パターンはいくつも見出せ、その項目は多重的です。つまり、恣意的に作られるリストは、いつでも別の形に転じられるのです。

この変化が可能である、という性質(可変性と呼びましょう)こそが、一番大切なことです。

とりあえず、ここでは可変性を含むそうした分類を、相対的分類、ないしは「弱い分類」と呼んでおきましょう。

こうした二つの分類が見出すことができ、しかしこの分類自体が弱い分類である、という主張が本稿の目標地点です。

(下に続く)

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