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鎧を捨てて文章を書く/新書で書く、ということ/読者は無力ではない

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/08/09 第565号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

◇第七十七回:瀬下さんと『ライティングの哲学』と『すべてはノートからはじまる』について by うちあわせCast | A podcast on Anchor

◇第七十八回:Tak.さんと『ライティングの哲学』について by うちあわせCast | A podcast on Anchor

◇BC017 アフタートーク - by goryugo - ブックカタリスト

今週は、臨時回も合わせてうちあわせCastが二回ありました。二回とも新刊まわりのお話をしております。

〜〜〜ライフハックブームは何をもたらしたのか〜〜〜

『ライティングの哲学』という本の感想をTwitterでよく見かけるのですが、その中でも多いのが「アウトライナーというツールをはじめて知った。使ってみよう」というもの。数が多いのか、単に私の印象に残りやすいのかはわかりませんが、結構な頻度で目にします。

そこで思うのは、一時期あれだけ「ライフハック」がブームだったのにも関わらず、アウトライナーという情報ツール、それもEvernoteに継ぐ一つのビッグウェイブを形成したWorkFlowyの知名度すらもそれほど高まっていなかったのだな、ということです。

もちろん、一口に「ライフハック」と言っても、流派というか学派の違いがあって、アウトライナーのような情報ツールについてはほとんど言及しない人たちもいました。もしかしたら、そちらの方が「ライフハック」の多数派だったのかもしれません。だとしたら、アウトライナーの知名度がさほど高まっていないのは当然の帰結ではあるでしょう。

となると、一つ気になることがあります。ライフハックブームはいったい何を残したのでしょうか。その痕跡は、私たちの中に何を刻んでいったのでしょうか。

この疑問には腰を据えて答えていく必要がありそうです。

〜〜〜アウトライナー論への期待〜〜〜

もし「アウトライナー論」を立ち上げるのならば、それはどのような手つきで為されるのかよいのか。

はっきりした答えはわかりませんが、一つのイメージとして、これまで存在したアウトライナーと呼びうるツールの特徴を巡りながら、そこに見出される特性の共通点を点検し、そこから「アウトライナーとはなんぞや」を検討していくアプローチが考えられます。

各々の開発者が「よし、アウトライナーを作ろう」という気持ちでツール開発にいそしんだならともかく、「こういうことができるツールがあったらいいな」という気持ちの結果として、アウトライナー的なツールが作成されているとするならば、「アウトライナー」のイデアを前もって構成するのではなく、それらのツールの系譜の中から、結果的に生まれている共通点として「アウトライナー」なるものをあぶり出していく、というやり方です。

そういう回りくどいやり方は、昨今ウケはよくないのかもしれませんが、でもそうした本はやっぱり面白いと思います。というか、たとえばトラクターの歴史だって丁寧に見ていけば面白いはずで、同じことは包丁や綴じノートにだって言えます。アウトライナーという道具がそこから外れることはないでしょう。

もちろん、もっと実用的な側面から「アウトライナー」を定義、それを有効に使っていく方法論を立ち上げることも極めて大切な仕事ではありますが、もう少し人文学的なアプローチがあってもよいでしょう。

もちろん、そんな仕事はまったくもって私の手には余るので、それが得意な方にお任せする他はないわけですが。

〜〜〜工夫について〜〜〜

新刊関連のイベントで話しているときにふと気がつきました。私は「工夫」というものが好きです。自分で工夫するのも好きですし、他の人の工夫(あるいは工夫の跡)を見るのも好きです。

その理由の一つには、そこに「人」が感じられる点があります。もっと言えば、「その人」がいると感じられるのです。

人が置かれた環境があり、その人が抱える課題があって、その関係をうまく調和させようとする試みが工夫だとするならば、その人の自我によって環境全体を書き換えるような不敵な試みでも、あるいは置かれた環境にすべて身をゆだねるでもない、中間的な在り方が「工夫」なのだと言えるでしょう。そして、その中間的な在り方にこそ、「その人」がにじみ出てくるのです。

私がライフハックという分野に惹かれるのも、そこにたくさんの工夫があるからです。

ライフハックは、基本的にこぢんまりとしたものです。大掛かりなものはライフハックと呼ぶに値しません。言い換えれば、ライフハックは常に「工夫」のレベルに留まります。

その点が、ライフハックに「革新性」を求めていた人には物足りなさがあり、興味を失わせる要因になったのかもしれません。それはそれで仕方がないことです。

他者から見れば、ライフハックは「手軽に試せる小さなテクニック」でしょうが、当事者から見れば「自分でできる小さな問題解決」です。そして、その積み重ね(あるいは継続的な改良)こそが、ライフハックの神髄であると個人的には思います。

そういう話を抜きにして、テクニックだけ学んでも、たぶん「ライフハッカー」には慣れないでしょう。それになる必要があるのかどうかは、わかりませんが。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. ライフハックブームって何だったのでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートします。今回は前号について新刊話ですが、主に「本を書くこと」について考えてみました。

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○「鎧を捨てて文章を書く」

前回は、『すべてはノートからはじまる』の文体について紹介しました。読者が「まっすぐに」読み進めていきやすいように、普段自分がよく使う要素を抑制して書いた、という話です。

再確認しておくと、本文中に引用や書籍名を入れること自体に問題があるわけではありません。むしろ推奨される行為でしょう。読者が情報源にリーチできるようにしておけるのは、著者の仕事の一つとすら言えるかもしれません。

上記はまったくもって正しいことですが、その「正しさ」が言い訳となることもあります。正しいのだから、何も考えずにその通りにしておけ、という思考停止が起こるだけでなく、なぜそれを自分がやっているのかを意識しないままにそれが行われてしまうことが起こるのです。どういうことでしょうか。

たとえば、自分の心とまっすぐに向き合ったとき、そうした書籍紹介をあまりに過剰に本文中に入れ込みたくなる気持ちには、「自己防衛」の要素が含まれていることに気がつきます。

「自分はちゃんとした文献を読んでいる。だから自分は間違っていない。よって、読者が著者を攻撃するのは間違っている」

こんな感じです。ようは、他の人の著作を引用することでそれを「防波堤」にして、自分への攻撃を躱そうとしているのです。あるいは単に、自分はこんなにたくさん本を読んでいるんだぜ、というエゴを表明したい気持ちもあるのかもしれません。

文章の中にやたらめったら丸括弧を入れて、補足したくなる気持ちも同様です。文意を補足するためというよりも、すべての機微を拾うことで「つっこまれる余地」を無くそうとたくらんでいるのです。

もちろん慌てて補足しますが、人間の心理はそんなに単純なものではありませんし、一つの行為に複数の理由が働いていることも珍しくありません。適切な文献を表示したい気持ちと、それによって自分を守りたい気持ちが同時に働いていることはありますし、文章に機微を入れ込みたい気持ちと「つっこまれる余地」を無くそうと企てていることが同時に起きていることもあります。

ただ、読者がその文章を読みやすいかどうかをまったく考えないままに、上記のようなことを行っているのだとしたら、「自分のことしか考えていない」≒自己防衛が強く働いている、のだと推測することはできます。そして、自分のことを振り返ってみると、おおむねその推測は正しいだろうと感じます。

■強過ぎる自己防衛

社会生活と同じで、執筆においても自己防衛が強くなりすぎると不具合が生じます。たとえば、書籍の中で強い主張を一切しなくなる、というのがその一つです。

強い主張を回避して、両論併記をしておけば、批判される要素は減っていくでしょう。そして、両論併記自体は「間違い」を含んでいないので、正しさの点ではそれは支持されます。

しかし、その本って面白いのでしょうか。

もちろん、辞書的なコンテンツであれば強い主張は不要なわけですが(異論は認めます)、人がわざわざ本を手に取って読むときに、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という文章を欲しているのでしょうか。

「いや、欲しているかもしれない」──この推論も正しいものですから、上のような行為を否定することはできませんが、私はここで強い主張をしておきましょう。

「人は著者なりの主張が読みたくて本を読むのだ」

上の主張には、私自身がいくらでも反論を思いつきます。でも、たとえば8割くらいはおそらくそうだろうな、という感覚もあります。そして、著作という「舞台の上」では、その8割くらいをまず前に出したほうがよいのではないかと思うのです。

何も2割を無視せよとか、抑制せよと言っているわけではありません。ただ、自分の中で8割のものと、2割のものを「両論併記」してそれらが等しく見えるように提出するのは、何かが違うのではないか、という気がするだけです。

自分が8割のことを大切だと思っているならば、まずそれをずばっと出してしまう。批判され、攻撃されることも受け入れて、読者のキャッチャーミットに全力の直球を投げ入れてみる。そういうことができたらいい(あるいは自分の球種の一つにあってもいい)のだと、最近は考えています。

■すべてが「思い」になる

あるいは、別の視点もあります。

たとえば、文章を書く作法として「事実と意見を分ける」がありますが、自己防衛を徹底すると「すべてを〈思っている〉ことにする」という無敵の書き方が生まれます。事実でも、意見でもなくしてしまうのです。

”1980年にXが起きたと私は思っている。その理由はYだと私は思っている。そのおかげで世界はこのような状態になったと私は思っている。なぜなら、Zが示すデータがそのような帰結になると私が思っているからだ”

このように「私が思っている」カプセルに包み込むと、そこに真偽のまなざしを向けることは叶わなくなります。たとえば、「それは事実と違いますよ」と否定しても、「いや、私がそう思っているだけですから。事実は特に関係ありません」と拒絶することが可能です。究極の「のらりくらり」が完成するわけです。

多くの人が共有できる「事実」があり、それをベースに著者が主張(意見)を形成することで、はじめて他者を交えた議論が可能になるわけですが、すべてを「私が思っている」に包み込むことで、むしろ何も「主張」をしない文章ができあがり、結果的に何の議論も起こせなくなります。

当然のように、そのような書き方は、批判を回避する目的を一番うまく達成するでしょう。なにせ相手にされなくなるわけですから。

でも、そうして相手にされない文章を書くことには、特に著作という「舞台の上」で書くことには、どんな意義があるのでしょうか。

■不安定さと自由さ

結局、自身の身を守る=鎧を着た文章というのは、たしかに書き手にとっては安全かもしれないが、文章としての「作用」が非常に弱いものになるのではないか、というのが最近の私の考えです。

むしろその鎧を投げ捨てて、著者の主張をまっすぐに投げ込んだ方が、読み手に響くのかもしれません。

そんなことを考えながら、『すべてはノートからはじまる』は書かれました。だから、この本には著者を権威づけるようなことはほとんど書かれていません。私はこの分野の専門家だ、だから素人は黙っていろ、みたいな雰囲気はまるでないと思います(著者が勝手にそう思っているだけかもしれませんが)。

逆に、自分は素人だからというエクスキューズもありません。ただ淡々と「書くこと」について書いてあるだけです。そういう書き方は、(鎧がない分)ひどく不安さがありますが、そのトレードオフとして自由さがあります。凝り固まることなく、のびのびと論を展開していける自由があるのです。それはそれでよいものです。

もちろん、上記の話はわざわざ批判されることを書け(≒炎上せよ)という話ではありませんし、参考文献を軽視せよという話でもありません。文章の細かいニュアンスにこだわらなくてもよいわけでもありません。むしろ、そうした話は、基本的なレベルで重要な事柄です。

ただ、自分が過剰に批判を恐れていないかと一度点検してみた方がよいだろうとは思います。なぜなら、上記は基本レベルで「正しい」ことなので、鎧を重ね着することに対するアラートが自然には生まれないからです。それを放置していると、どんどん防御力があがっていき、身動きが取りづらい状態になってしまうでしょう。

1ミリもダメージを受けないが、何の作用も与えられない本、何の動きも生まれない本。

そういう本ではない本を書いていきたいものです。

(下につづく)

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