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定期的に荷を下ろす / テクノロジーカルチャー再考 / 『ファスト教養』にいかに抗うのか その1

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/10/31 第629号

「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百十六回:Tak.さんとTextboxのお披露目会 作成者:うちあわせCast

◇うちあわせCast第百十六回:Tak.さんとTextboxのお披露目会 | YouTube

◇BC049「物語」とどう付きあうか - by 倉下忠憲@rashita2 | ブックカタリスト

今回のうちあわせCastは、ぜひYouTube版でご覧ください。倉下が自作しているTextboxというツールの動作を紹介しております。決して派手なツールではありませんが、これまでにあまりなかったタイプの情報ツールに仕上がりつつあります。

ブックカタリストは、倉下のターンで物語に関する二冊を紹介しました。まったく方向性の違う二冊ですが、合わせて読むと深みが増します。ちなみに、こういう二冊読み・三冊読みが個人的には本読みの醍醐味です。

〜〜〜執筆作業と疲労〜〜〜

もろもろ忙しい日があり、その日はほとんど文章を書く作業ができませんでした。で、次の日になって気がついたのです、めっちゃ元気だと。

よくよく考えてみれば、トータルで一日4時間ほど、かなり神経を集中して文章を書いているわけですから、そりゃまあ疲れます。

でも、今日も文章を書き、次の日も文章を書き、その次の日も文章を書きとやっていると、その「疲れ」が常態化されて、まったくわからなくなるのです。いわゆる「雑草化現象」です。

たまたま丸一日文章を書かない日に遭遇したことで、はじめてそこにある疲れに気がつけたわけですが、たぶん同じようなことは他の場所にもいろいろあるのでしょう。

これはこれで、「大切なことは目には見えない」ということの一例だと思います。

〜〜〜リアルジャム実験〜〜〜

スーパーのパン売り場で、朝食用のパンを物色していたら、近くにあったジャムコーナーでご老人とその付き添いの方が商品を選んでおられました。

そのご老人が、何か一つをカゴに入れられたのですが、その後、売り場をじっと眺めた後で、「いろいろあるからわからん。コンビニで買う」とそのまま何も手にとらずにレジへと向かわれました。

たしかにコンビニのジャム売り場に比べると、スーパーのジャム売り場は品揃えが豊富です。ジャム専門店というほどではありませんが、いちごジャムだけでも数種類ありますし、あまり見かけないタイプのジャムも並んでいます。

買い物が「選ぶことが楽しい」で支えられているならば、スーパーのジャム売り場の方が上位互換だと言えるでしょう。また、お客様の多様なニーズに応えるという意味でも、スーパーに軍配が上がります。

しかし私が目撃した場面は、必ずしもそうした売り場が万能ではないことを示しています。種類が多すぎると、何を買っていいのか迷う→認知資源が浪費される→「買う」という決断ができなくなる、という事態が起きるのです。これはシーナ・アイエンガーの『選択の科学』で紹介されているジャム実験そのものです。

結果的に、売り場作りにおいて大は小を兼ねないのです。大には大の良さがあり、小には小の良さがあります。これが、小売り業のニッチを構成しているのだとも言えるでしょう。

上記のようなことから、たとえば「ノウハウ本はいかに書くべきか」といった話にも視点を広げられるでしょう。必ずしも一つだけが正解なのではありません。さまざまなアプローチがあるはずです。

〜〜〜派手な機能〜〜〜

Textboxでは、本体ではなく各mdファイルが機能を持っています。おかげで、他の機能との衝突をほぼ気にしなくてもよく、思いついた機能があれば、ほいほいと実装できます。

それでここ半年くらいはいろいろな機能を実装しているのですが、一つの傾向としてわかるのは、「派手な機能は三日で飽きる」です。

たとえば、新しいWebツールで見かけた機能を「おぉ、すごい」と思って、そのままTextboxでも真似てみると、やっぱり最初は「おぉ、すごい」と思うのですが、だいたい数日経つとまったく使わなくなります。

それも当然でしょう。そうした機能を自分が欲していなかったのだから、使わなくなるのはナチュラルな帰結です。

逆に、自分がツールを使っていて、「ああ、これができないのは地味に不便だな」と思ったところを機能改善すると、それは「おぉ、すごい」とはぜんぜん思いませんが、長らく使う機能となります。

ようするに機能が派手かどうかではなく、「派手さ」だけに惹かれて実装した機能はろくに使わない、ということです。派手な機能はそれだけで引きつける力を持ちますが、実用に耐えうるかはまた別の話なわけです。

もちろん、派手かつ実用的な機能というのはあるでしょうから、実装してみないことには判断はくだせないわけですが、それでも事前の評価はある程度割り引いて受け取っておく必要はありそうです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 選択肢が多くて嬉しいことは何かありますか。逆に少なくて嬉しいことはどうでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は、倉下の仕事術として「定期的な荷下ろし」の話と、他に二つエッセイをお送りします。

定期的に荷を下ろす

人間の傾向として、集中タイプと拡散タイプがあるとしたら、倉下は拡散タイプになるでしょう。

好奇心は多めで、読書は雑食、なんでもほいほい安請け合いして、気になるツールがあれば──ろくに考えずに──飛びついてしまいます。

関心が広いと言えば聞こえはよいですが、どっしり構えられないことは間違いありません。でもまあ、それが自分の性質なのだから受け入れるしかないでしょう。

それに、この傾向は「閉じにくい」というメリットを持っています。いろいろな対象に関心を向けるので、自然とものの見方が多様になっていきます。常に別の視点で見つめる癖がつくのです。もちろん、そうした視点の多様さがあっても無謬にはなりませんが、「アイデア」を出す際には視点の多様さは有用です。

また、「閉じない」ことによって、心の窓の風通しもほどよく保てます。強いこだわりがないので、敵愾心や復讐心といったものを持つこともありません。それは自分の精神的健康を保つのに役立ちます。

とは言え、私のようなタイプは、どんどん「やること」を抱え込む傾向を持ちます。関心のアンテナを多方面に展開しているので、さまざまな電波が受信され、そこから「やること」が生まれてくるのです。

これは「たまに忙しい時期がある」などではなく、恒常的に「やること」があふれ返っているのです。そうなると、これこはこれでメンタル的な健康に悪影響を及ぼします。

よって、「やること」を減らすことが必要となります。

■たなおろし

イメージとしては、自分のカバンの中身を確認し、「これはいらない」「これは倉庫においておく」などと分別し、改めてカバンの中身をセッティングする行為です。

そうした行為は「やることの棚卸し」と呼ばれたりもしますが、「荷下ろし」と呼んでもよいでしょう。なにせ、おろしたものは元の場所に戻すのではなく、そのまま置いておくからです。

というか、元の場所に戻してしまうと、またカバンがいっぱいになってしまいます。「元の場所には戻さない」という判断こそが、そうした行為では必要となります。

■止める判断をする

私が「ストレッチ・ライティング」と呼んでいる技法で行っているのも、上記のような荷下ろしです。

今の自分が抱えているプロジェクトやそれ以外のことについて再検討し、進めるべきものについては「次にやること」を明らかにし、そうでないものについては「延期」や「中止」の決断を下します。

この手の技法で、それほど注目されていないにもかかわらず、存外に重要なのはこの「延期」や「中止」という判断でしょう。止める判断。これができなければ、いわゆるレビューの効果は半減してしまいます。

なぜなら、やめることを決めるからこそ、「次にやること」がクリアに際立つようになるからです。それができなければ、各種リストは鈍さを持ったままになるでしょう。

■「やるべきこと」を更新する

注意しておきたいのは、ここでいう「やめる」という判断は、「やらないことリスト」に何かを載せる判断とは違っていることです。

「やらないことリスト」とは、午前中にはメールをチェックしないとか、間食でケーキを食べないとか、自分が「すべきではない」と考えている禁則事項を規定するものです。

これらは──実践において葛藤があるにせよ──ルール作りにおいては、何も問題は発生しません。そうした禁止は「正しい」と感じられるからです。

難しいのは、そういう「正しさ」とは無縁の「やめる」です。あるいは、「やるべきだ」や「やりたい」と感じる行為の止める判断です。

この判断は心地よいものではありません。ときに、歯をギリギリと言わせたり、自分の無力を突きつけられているような感じがします。

しかし、そうした葛藤を超えない限り、どう考えたって出来っこないことを「やること」や「やるべきこと」として抱え込んでしまう状態から抜け出ることはできません。

そのようなものがリストにあり、自分がそのリストを目にしている間中ずっと「自分はできていないのだ」という感覚に晒されていることになります。これはなかなかつらいものです。

■タスク的ミニマリズム

「やるべきこと」や「やりたいこと」を「やめる」という判断がつらく、しかしそれをしないとタスクがうまく回らないのであれば、「抜本的」な解決策があります。

それが「やることを増やさない」という解決策です。いわゆる、ミニマリスト的な解法です。

最初から「やること」を必要以上に増やさないならば、それを減らすときの葛藤を味わわなくても済みます。非常に合理的で、シンプルな解法です。

そして、あらゆるシンプルな解法がそうであるように、この解法も危うさを含んでいます。

■それぞれのタイプ

もし私の傾向が拡散タイプでないならば、話は簡単です。「やること」を増やさないようにするのは、ちょっとした意識だけで足りるでしょう。というか、そもそもそんなに「やること」が増えていない可能性の方が高いかもしれません。

しかし、そういうタイプではないからこそ、「やること」が増えているのです。

ということは、ミニマリスト的解法は、私のそもそものタイプを変更せよ、という命令となって立ち現れます。そのような変更は、どこまで自然なものでしょうか。あるいは、有意義なものでしょうか。

反論はいくつもの方向性から思いつきますが、ここでは二つの視点からだけその反論を挙げておきましょう。

一つは、そうやって人間の反応を統一する方向に動くと、全体としての多様性が失われてしまう点。もう一つは、私個人に関しても、他の部分を変えずに、「やること」だけを減らすのは系(システム)としてかなり不自然になる点です。

前者はわかりやすいでしょう。「集合知」というのは反応の異なる他者がたくさん集まるからこそ、その考えを統合したところに適切な答えが見つけられるのです。均質化してしまうことは、その集団(共同体)の強度を弱めてしまうことにつながります。

また、そこまで大げさな話を持ち出さなくても、私一人に関してもやっぱり不自然が多いのです。いろいろな情報摂取はするけれども「やること」は減らす、みたいなことはたぶん無理でしょう。ということは、他分野への関心を抑制するしかなく、それははたして「私」として生きることなのか、という疑問が湧きます。

もちろん、行き過ぎた関心の広がりは抑制する必要があるでしょうが、「やること」の葛藤が苦しいから関心そのものを減らすというのは個性の抑圧とほとんど同じでしょう。

よって、シンプルではない解法が必要となります。

■抱えるけども、下ろす

結局それが、「抱えるけども、下ろす」です。

興味本位でいろいろ「やること」を増やすけども、それを定期的に振り返って、不要なものは「やらない」とか「別の機会に」と判断するわけです。

何も特別な方法ではありません。たとえば、本を買って、本棚から溢れたら、いくつか処分する。そんなありきたりなやり方とまったく同形です。

でもって、「本をすごく好きな人が、本棚の整理に困るなら、本をまったく買わなければいい」というアドバイスがいかに的外れかを考えれば、ミニマリスト解法の問題点も見えてくるでしょう。その解法で何も問題ない人は、そもそもはじめからそうした状況に陥っていないはずなのです。

もちろん「やること」は、本棚の本と同じではありません。一番の特徴は「完全に捨てなくても良い」という点です。完全に廃棄しなくても「今はやらない」と決めることで、保管しつつもその時点のコミットメントは減らすことができます。

実際のところ、そうやって「今はやらない」と決めたら、だいたいそのままやらないことになるわけですが、ごくたまに「敗者復活」するものもあり、残しておく価値は十分にあります。

なんにせよ、「後から面倒になるから、はじめから増やさないようにする」というスタンスよりも、「増やすけども、後で減らす」というスタンスの方が、窓が開いている感じがします。個人的にはその感じを重視していきたいものです。

「関心を窓を開いているならば、定期的な荷下ろしが必要」

モットーにすればこんな感じになるでしょうか。荷下ろしのときの苦労は、窓を開けている自由さとのトレードオフと考えれば、ある程度は受け入れやすくなるかもしれません。

(次回はビジョン・メンテナンスについて)

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