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Weekly R-style Magazine 「読む・書く・考えるの探求」 2018/11/05 第421号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

先日、メガネのレンズを交換しました。

10年以上も同じメガネを使っていて、さすがにレンズに細かい傷がたくさん入ってきました。でも、不思議とその事実には気がつかないものです。たまたま、予備のメガネをかけたときに、「えっ、なにこれ、めちゃくちゃ世界がclearなんだけど」と驚愕して、その事実に気づいた次第です。

で、視界がclearではない、ということは、もしかしたら目に負担をかけているかもしれず、それはパソコン仕事をする物書きとしては避けたい事態です。

さすがに10年以上も使っているので、フレームもかなりへたってきているのですが、今回はレンズだけの交換にしました。なぜかというと、このメガネは、結婚したばかり頃、妻から贈られたものだからです。そういうのは使える限り長く使いたいですよね(はい、のろけでした)。

ちなみに今回は、新しいレンズに、多少のブルーライトカットを入れてもらいました。レンズ越しの視界はごくわずかに黄色みがあり、逆にレンズは軽く青く光ります。青好きの私としては、なかなかGoodなフィーリングです。

で、実際に目への負担が減ったのかというと、もちろん数値的にはわかりませんし、ばりばりプラシーボが効いているかもしれませんが、体感的にはちょっとマシになった感じはあります。少なくとも、「もう、メガネをつけているのは、つらい」と思うことは少なくなりました。

これはけっこう、ありがたいことです。

〜〜〜しこうのための〜〜〜

嬉しいメールをいただきました。

まずは、Scrapboxのプロジェクトを一つご紹介しておきます。

pin留めされているページにこうあります。

 >>
 このプロジェクトは、倉下忠憲氏(以下倉下氏、倉下先生、らした氏、rashita氏、店長)のテキスト、および思考、知的生産について、抜き書きをして、倉下氏の思考と成果を、自分の生活と創作と遊びに、都合よくちょろまかそうという試みであります。
 <<

正直にいって、私は「自分の生活と創作と遊びに、都合よくちょろまかそうという試み」というのが大好きです。というか、まさに自分がそういうことをしいてる感覚があります。かっこよく言えば、ブリコラージュ。私の文脈に引きつけて言えば、「断片からの創造」です。

で、このプロジェクトの管理人さんからメールをいただきました。許可を頂いているので、すこし紹介してみます。

 >>
(前略)
 それぞれのカードの完成度は、やはり、高くありません。
 ですので、この「抜き書き」プロジェクトをこうしてお見せすることで、「低レベルの感想(読書感想文)」を倉下さんにお見せしてしまうのではないか、という懸念もあります。かなり。
 それでも、「今、自分は、倉下さんの影響で、Scrapboxを楽しんでいる」ということを伝えたく、
 また同時に「倉下さんの思索・知的生産が、どこかの人間に実際に、リアルに生きている」ということもお伝えしたい、というのが、今回メールをお贈りさせて頂いた理由です。
 <<

この部分を読んで、「ああ、自分は人の役に立つことが何かしらはできているんだな」、としみじみと感慨が湧いてきました。

物書きの仕事というのは、基本的にテキストと(もっと言えばディスプレイと)向き合うだけの仕事なので、自分の成果が他の人にどのように作用しているのかはわかりません。

コンビニであれば、棚に並べた商品をお客さんが手に取れば、その陳列仕事は何かしらの成果があったことになりますし、丁寧に接客してお客さんが笑顔を浮かべてくれれば、自分が何かを為せたことはわかります。しかし、文章書きだとそうはいきません。

一応の自負として、「面白い本が書けた」という実感は湧くにしても、それが他の人に作用するかどうかはぜんぜんわかりません。そして、極言すれば、「仕事」というのは他の人に何かしらの作用を与えることを意味するでしょう。物理学の「仕事」(W = Fs) に似ていますね。で、自己完結で終わるものは、(少なくともその意味での)仕事とは呼べません。

このメルマガは、「読む・書く・考えるについてのメルマガ」としてお送りしています。ビジネス系によくある、「お偉い方が確かな答えを伝授してくれる」、というものではなく、「僕はこんなこと考えたり、実行しています」というレポートのようなものです。そのレポートが、読者さんの「思考生活」の足しになれば、と常々願っています。

で、こうして実際に「考え」られている現場を拝見できるのは、すごく嬉しくもあり、また楽しくもあります。壁打ちもそれなりに面白いのですが、やっぱり対面で打ち合ってこそ、深みのある楽しさが生まれてくるものです。

たとえば、以下のページがあります。

ここに、養老孟司さんの「手入れ」の思想が掲載されています。私はその思想については知らないか、知っていてももう忘れてしまっています。しかしながら、「死んだテキストにしないために、くることが必要→手入れが必要」と私のピースと見事につながっています。そして、これは「糠床を維持するためには、手を入れてかき混ぜなければならない」という話(※)にも接続します。
※これは『謎床』という本からのインスパイアです。

というように、このページを読んで手にした断片によって、それまでつながっていなかったものがつながった感覚が生まれました。私がボールを投げて、再びボールが投げ返された。そんな感覚です。こういう感覚が増えていくのは、間違いなく楽しいことでしょう。

「対話」というほど直接的なものではなくても、どこかしらで無数のキャッチボールが行われること、そして、そこではかならず誤配(by 東浩紀)が生じ、そのコピーの失敗による突然変異が新たなアイデアを生み出すことが、大切なのではないかと思います。

今後とも、読んだり、書いたり、考えたりすることの、お手伝いというか、補助輪みたいな役割ができたらいいなと思います。

〜〜〜R-styleはどこに行ったのか〜〜〜

これまでほとんどまったく、SEOについては、気にしていませんでした。というか、「気にしたら負けゲーム」をプレイしていたような気すらします。

毎日のアクセス数は確認するものの、それが低かったからといって、慌てて何かを変えるようなことはしません。単に一つのデータとして眺めているだけです。

しかし、ひょんなことから、R-styleの検索結果が気になるようになりました。

というのも、私は「Scrapbox」というキーワードでよくTwitterを検索しているのですが、そこで「Scrapboxは○○できないのか」や「Scrapboxで○○するにはどうしたらいいのか」みたいなツイートを発見するのです。で、その手の話はR-styleやシゴタノ !にだいたい書いてしまっています。

だから、個人的には「ググったらいいのに……」と思うのですが、実際Googleで「Scrapbox」を検索しても、まったくR-styleはひっかかりません。それはもう見事なくらいに1ページには出てこないのです。せいぜい3ページ目くらいに夏休みに親戚の家に連れてこられた無口な少年ように大人しく存在しているだけです。

さすがにこれでは「R-styleの記事を読めばいいじゃん」と言うのは無理があるでしょう。現代において、Google検索結果のトップページ(のトップの方)に出てこないWebサイトは、ほとんど存在しないも同義です。

別段R-style全体が、強く検索結果に引っかかって欲しいとは思いませんが、それでもたぶん日本で一番Scrapboxについて書いているブログだと思うので、もう少しそのキーワードにおいては見つけてもらえるようにできたらいいなと考えています。

なかなか簡単ではないでしょうけれども。

〜〜〜雑多さの程度〜〜〜

上記ようなこと考えているので、ここ最近「WebにおけるR-styleの意味は?」みたいな問いがよく頭に浮かびます。

個人的には「知る人ぞ知る」とか「隠れ家的ブログ」でぜんぜんOKなのですが、「これはもっと読まれて欲しい」と思う記事が全体の1割くらいは混じっています。先ほど書いたScrapboxなどの技術系情報がそれです。

しかし、残り9割の情報は、「検索? なにそれ美味しいの?」のようなスタンスで書かれているで、Googleさん的には「まあ、このサイトは低いランクでいいかな」とスルーされてしまっても、致し方ない面はあるでしょう。私がGoogleのページランクアルゴリズムでもきっとそうします(そもそも「R-style」で検索してもトップには表示されません)。

雑多さゆえの弊害があるわけです。

一方、もう一つのブログHonkureは、さまざまな書籍・メディアを紹介するという雑多さはあるものの、「私が接したメディアを紹介する」という軸はきちんと持っています。他の人にどういうブログかも説明しやすいですし、それはつまりアルゴリズムが判断しやすい、ということでもあるでしょう。

R-styleは、そのような軸すらありません。軸不在のまま10年以上も更新を続けてきました。そりゃ混乱もするはずです。

とは言え、「Scrapboxのキーワードで検索してもらえるように、R-styleの記事を削除したり、中身を書き換えたりしよう」というのは、さすがにPV原理主義的な気もするので、何か別の手を打とうかと考えています。

まあ、書き手がこんなことを考えなければいけな時点で、Googleは失敗しているような気がしないではありませんが。

〜〜〜ストックtoフロー〜〜〜

いったん、著作権的な話は忘れておきましょう。

そして、私の本棚にあるすべて本について、私が傍線を引いた箇所をデジタルデータで取り込んだとします。なんなら、データベースを作ってもいいでしょう。

で、そのデータベースからランダムに一つ選んで、定期的にツイートするbotを作ったら、そのタイムラインは、非常に発想の刺激に役立ちそうな気がします。まさにカードを「くる」ような感覚がするのではないでしょうか。断片的ガチャ。

もちろんパブリックな場所にそれを流すのは、いろいろ問題があるかもしれないので、それをプライベートで行える何かしらのメモツールがあればいいわけです。で、そのメモツールに、自分の着想も保存しておく。

きっとそれは、面白いメモツールになるでしょう。

メモのストックを、もう一度フローに戻す(変換する)ようなツールです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. これまでになかったメモツールのアイデアは何かありますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2018/11/05 第421号の目次
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○「週次レビューを再考する」 #BizArts3rd
 タスク管理を掘り下げていく企画。今回は週次レビューについて。

○「情報を「つなぐ」ということ」 #新しい知的生産の技術
 現代的な知的生産の技術について考えています。

○「手帳とEvenrote」 #物書きエッセイ
 物を書くことや考えることについてのエッセイです。

○「『ホモ・デウス』を読む 七回』 #今週の一冊
 ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』を読み込んでいます。

○「本を買いに、五駅先へ」#エッセイ
 ちょっとしたエッセイを。

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「週次レビューを再考する」 #BizArts3rd

先週号で、「管理」するためにはリスト化(≒ツリー化)がどこかしらで必要になってくる、という点を確認しました。

この視点から、GTDにおける「週次レビュー」について再考してみます。

■GTDの手順

まずは、GTDのおさらいです。

一番最初は、頭の中にある「気になっていること」を書き出します。紙でもデジタルでもなんでもOKです。ただひたすらに、中身については判断せず、書き出していきます。

次に、そうして書き出したものを、各種の「リスト」に分別していきます。詳細は割愛しますが、それぞれの「気になること」が一体何なのかを明確にしながら、適切な置き場所に配置するのがこのステップです。

あとは、日常生活のおのおののタイミングにおいてそのリストを参照し、行動を起こしていきます。

で、一週間が経ったら、そうして作成した「リスト」をレビューし、最適な状態を維持します。

上記のサイクルをグルグルと回していくのが、GTDです。

■非効率なGTD

ここで、思考実験として、非効率なGTDを考えてみましょう。

まず、「気になっていること」を書き出します。そしてリストを作り、それを参照しながら実行を進めていきます。ここまでは、普通のGTDと同じです。

しかし、週次レビューのときに違いが生まれます。週次レビューを始めようとした瞬間に、先ほどまで使っていたリストが綺麗さっぱり消えてしまうのです。

だったら、どうすればいいでしょうか。

もちろん、もう一度はじめから「気になっていること」を書き出すことになります。そうしてリストを作り、それを参照しながらその週は進めていくのですが、やっぱり週次レビューのタイミングになったら、そのリストはまるっと消失してしまいます。

そういうGTDです。

■primitiveとSophisticated

私は、前回の原稿を書いた後で、上のようなやり方がもっともプリミティブなGTDの在り方だろうと目星をつけました。なぜでしょうか。

それについては、非効率なGTDの運用について詳しくみていけばわかります。

まず「気になっていること」を書き出したリストがあり、それを元に複数のリストを作ります。これが第一週目。

次に二週目にも「気になっていること」を書き出し、それを元に複数のリストを作ります。ポイントは、この二つのリストセットの差異です。

この二つのリスト群は、まったく同じでしょうか。無論、そうではないでしょう。

たとえば、新しく発生した「気になっていること」があるはずです。逆に、片付いてしまった「気になっていること」もあるでしょう。一週間という時の流れは、こうした違いを必ず発生させます。GTDの週次レビューで意識されるのも、大部分はこの種の違いを吸収することです。

しかし、いくら違いがあるといっても、行為の実践者は同一人物です。それほど極端な、あるいは大規模な差異が生じるとは限りません。だいたいDNAのコピー誤差くらいでしょうか。ほとんどは同じ、でもごくたまに違った部分が生じる。それくらいの感覚です。

そのようなものを、何度も構築するのは手間でしょう。だからこそ、GTDにおいてはリストは使い回されます。バラバラのパーツから、ほとんど同じものが組み立てられるのだから、すでに組み立てられたものを使えればいい。実に洗練されたやり方です。

しかし、この洗練こそがGTDの週次レビューが嫌になる原因でもあります。

■位相のズレた私

プリミティブなGTDでは、たとえば、こんなことが起こるでしょう。

一回目のリスト作成では「気になっていること」としてリストアップしたのに、二回目のリスト作りでは、それが思い出せずにリストアップされなかった。「気にならなくなった」わけではなく、単に忘れてしまっていた。でも、忘れてしまえたということは、実はそんなに気にしていることではなかったのかもしれない。

でも、リストを使い回せば、その「気になっていること」を「気になっていること」として思い出してしまいます。思い出してしまうと、それが気になってきます。

あるいは、こんなこともあるかもしれません。

一回目のリスト作りでは、その行為はとあるプロジェクトの下位に属する行為だったのに、二回目のリスト作りでは、むしろその行為がプロジェクトの主要な位置を占めていた。つまり、「気になっていること」の位相が変わっていた。

しかし、リストを使い回せば、「プロジェクト」の構造は引き継がれたままとなります。自分の個々の中にある「気になっていること」の構造と、リストセットの構造がズレているのですが、リストを念頭に置いているので、そのズレに気がつかず、どうにも落ち着かない感じだけがしてしまうのです。

このようなことが増えていけばいくほど、リストセットに対する不信感は増え、週次レビューをするたびに「なんか違うんだよな〜}という感覚は増大していくでしょう。

もしも、毎回「気になっていること」リストを書き出し、そこからボトムアップでリストセットを作っていくならば、上記のようなズレはまず発生しなくなるでしょう。だからこそ、このやり方こそがGTDのプリミティブな在り方なのだと推測したわけです。

当然そこに非効率性が出てくるので、手法を洗練させるのですが、最初に作った情報構造が、二回目以降にトップダウンとして機能し始めてしまい、「気になっていること」の整理を制約してきます。ズレが放置され、拡大されるのです。

この問題を解決するにはどうすればいいでしょうか。方法は二つあるかと思います。

一つには、愚直に毎回ボトムアップで構造を作ること。そしてもう一つには、「シェイク」の概念を取り入れて、先週の自分が作った情報構造にとらわれることなく、それを変えていけるようにすることです。

あるいは折衷案として、普段は普通に週次レビューをするんだけど、「ああ、もう、なんかこれうざい」と感じ始めたら、そのときにボトムアップで作り直すという手もあるでしょう。

その際は、前回のリストセットを絶対に見ないことがポイントになりそうです。

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