メモ処理の種別 / 問題系を切り分ける / Workflowyにショートカットキーを追加する
はじめに
書籍の要約が読めるflier(フライヤー)というサイトで、拙著『思考を耕すノートのつくり方』の要約が公開されております。
◇思考を耕すノートのつくり方 / 自分の知的道具を手に入れる | 本の要約サービス flier(フライヤー)
私はふだん要約サービスを利用しないので、どういう反響があるのかはぜんぜんわかりませんが、こういう記事でちょっとでも興味を持ってもらえるなら幸いです。
〜〜〜GWセール〜〜〜
Kindleでゴールデンウィーク向けのセールが行われています。拙著もいくつか対象に選んでいただいております。
5/2までのセールでは、以下の一冊。
『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術 (星海社 e-SHINSHO)』 | Kindleストア
5/9までのセールでは、C&R研究所から出版されている本がいくつか(以下は数例です)。
『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』 | Kindleストア
『EVERNOTE「超」知的生産術』 | Kindleストア
ご興味あれば、この機会にチェックしてみてください。
〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜
ポッドキャスト、配信されております。
◇第百五十一回:Tak.さんと文脈エディタとしてのアウトライナー 作成者:うちあわせCast
今回は、「文脈」の観点からアウトライナーについての理解に迫ってみました。わりと新しい話ができたかなと思います。
よろしければお聴きください。
〜〜〜楽しいものを自分でつくる〜〜〜
当たり前すぎて自覚が乏しいのですが、自分のScrapboxを読むのが楽しいです。
◇倉下忠憲の発想工房
ここで行われている営みは、広い意味で「情報整理」なのかもしれませんが、実感とは大きく違っています。似た試みは「デジタルガーデン」などと呼ばれたりしますが、たしかに「ガーデニング」的面白さがあります。
自分の好みのものを並べ、それが育つのを眺める楽しさ。整える楽しさ。
SNSは意外性のある面白さと出合える可能性がある反面、強い不快感を生じさせる可能性を常に抱えています。一種の情報的博打です。
一方で、自分のScrapboxは自分が興味を持った話題しか並んでいません。強度の強さは(意外性が低いので)そこまで大きくないものの、一定程度の面白さがずっと続くような感覚です。
もちろん、その面白さ・楽しさは、Scrapboxというツールが自動的に与えてくれるものではなく、「自分がどういうページを作っているのか」という日々の営みによって支えられています。
逆に言えば、自分が見ていて(読んでいて)楽しいものは、自分で作れるのです。
手帳好き・ノート好きの人たちの、動力源の大きな部分はきっとそういうものでしょう。つまり、そうした活動も「すてき生産の技術」だと言えそうです。
〜〜〜テセウスのEvernote〜〜〜
先日、Evernoteの日本法人が解散しました。以前から日本語のサポートが滞っているという話を耳にしていたので、「さもありなん」という感じです。むしろ買収されたらすぐになくなると思っていたので、今までよく継続していたなという感じすらあります。
で、最近のEvernoteについては、いしたにまさきさんの以下の記事が面白いです。
◇Evernoteは終わったのか?というととっくに終わっていたし、あたらしいEvernoteという意味ではこれからということ | シン・みたいもん
会社が変わり、開発者が入れ替わった状態で開発されている「Evernote」というのは、同じ名前を冠するサービスでありながら、ある意味で別物と言えるでしょう。その意味で、Evernoteはある段階で「終わっており」、だからこそ「始まっている」と言えます。
ちょっと「テセウスの船」を思い出しますね。
◇テセウスの船 | Wikipedia
私自身がEvernoteを使い続けるかどうかという話とはまったく別に、ツールはたしかに高機能になっています(その分高価でもあるわけですが)。
あとは「蓄積される大量の情報とAIをどう組み合わせるか」という大きなビジョンを示すことができれば、他のツールとは違った存在感を示せることでしょう。
〜〜〜僕は親鸞を知らない〜〜〜
以前、中畑正志さんの『アリストテレスの哲学 (岩波新書) 』を読んでいて、自分はぜんぜんアリストテレスについて知らなかったなと思い至ったことがありました。哲学の分野ではチョー有名人なわけですが、同時代のプラトンやソクラテスに比べると、あまり注意のフォーカスが当たっていなかった感じがします。
そこでふと思ったのです。西洋哲学・思想についてはほとんど知らない(逆に言えばちょっとは知っている)わけだけども、日本の思想についてはどうか。たとえば親鸞について自分は何を知っているだろうか。
改めて探すまでもなく、私の書棚に「親鸞」について書かれた本は一冊もありません。買った覚えもないですし、自分がそうした本を買おうと思うタイミングがあっただろうと想像することも難しいです。
古代ギリシャの思想に興味があるのですから、古いものを嫌っているわけではありません。現代の日本社会の問題を提起した本も読んでいるのですから、日本がどうでもいいわけでもありません。
でも、日本のかつての思想というものがぽっかり盲点に包まれているのです。
別段「自国の歴史にこそ興味を持つべきだ」というような愛国主義めいた主張をしたいわけではありません。自分が既にもっている関心の分野を眺めてみると、そこに向いていてもおかしくないはずの分野への興味が欠落していることに不思議さを感じているのです。
なぜそんなことになっているのでしょうか。
理由はわかりませんが、もしかしたら似たような人は多いのかもしれません。
皆さんはいかがでしょうか。全体的に見れば興味を持ってもおかしくないにも関わらず、ぽっかり関心が欠落している分野はあるでしょうか。もしあれば、ぜひ倉下まで教えてください。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、メモ論の続き、問題系について、Workflowyのマニアックなカスタマイズについてお送りします。
メモ処理の種別
前回は、さまざまな記録術(メモ術・ノート術・カード法)で実際に何が書き留められているのかを確認した。じつに多様なものがあったが、再度注目しておきたいのがノート術におけるメモだ。
ノート術とは「ノートの使い方」に関するノウハウなわけだが、その内実は大半がメモであった。この点が示唆するものは大きい。メモするのはいいとして、メモした後どうするのかの話が欠落しているのだ。
メモした後の処理が自明であれば問題ない。しかし、そうでないとしたら記録した情報をうまく使うことはできないだろう。どれだけ記録術を調べ、「書き留めるまで」の引き出しが豊富になっても、「書き留めた後」の引き出しが貧弱ならば、知的な情報処理は進んでいかないのだ。
よって今回は、そうしたメモの「処理」に目を向ける。
■メモの定義
ここで改めて本連載が対象としている「メモ」の定義を確認しよう。
メモとは書き留められるものであり、書き留められた後何かしらの「処理」が行われることが期待される記述を指す。
たとえば、電話番号をメモしておいて、それを見ながら電話をかける。あるいは、住所をメモしておいて、それを見ながらアドレス帳に書き写す。はたまた、夕食の食材をメモしておいて、それを見ながらスーパーで買い物をする。
どの場合でも、その後の行動において「メモ」は使用されている。このような使用を「処理」とここでは呼ぼう。
「メモとは処理待ちの記録である」
これが本連載におけるメモの定義である。
もちろん、メモを書いたからといって必ず後続の行動が起こるわけではない。メモはしたけど、行動は起こらずということはしょっちゅうあるだろう。よって「処理しなければならない記録」とはしない。あくまで、それを書いた時点では「未解決」な状態に置かれるものをメモと呼ぶだけに留めておく。
■メモとノート
メモをそう定義すると、ノートの定義もはっきりする。つまり、「ノートとは処理が終わった後の記録である」と言えるわけだ。
もちろん、これは荒っぽい定義である。というのも、カードも処理が終わった後の記録だからだ。しかし、ノートとカードは違っている。その二つを峻別するためには荒っぽい定義だけでは足りない。どのような「処理」が終わったかに注目する必要があるだろう。
結局ここでも「処理」が問題となるわけだ。その内実を明らかにすることが、メモ・ノート・カードを識別する手がかりになる。
■メモ処理の構図
ここで図式的な構図を描いておこう。
まず、起点としてのメモがある。そこに何かしらの「処理」が施される。すると、「メモ」以外の何かへと変容する。あるいは、そういう変容を起こす動作を「処理」と呼ぶ。
処理内容によって、メモから何になるのかは違ってくる。あるものは実行されて使用済みになるかもしれないし、あるものは記述を整えられてリストになったりカードになったりするかもしれない。別のあるものは、関連する情報と共にノートとして再編成されるかもしれない。
ともあれ、メモを起点にし、そこに処理を挟むことで、別物へと変容させる。
そういう構図を「処理」として見立てておく。
■GTD
勘のよい方ならお気付きになるだろうが、この構図はGTDのフローチャートによく似ている。
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