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メモの随伴性2 / 情報カード、縦から書くか?横から書くか? / 一週間に見出しをつける / Excelとデジタルツール的思考

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2024/03/18 第701号

はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇BC085『文学のエコロジー』から考える文学の効用 | by goryugo and 倉下忠憲@rashita2

今回は、倉下が『文学のエコロジー』を紹介しました。他に類を見ない、ちょっとすごい本です。

よろしければお聞きください。

〜〜〜悪い癖〜〜〜

最近、これまで本格的には使っていなかったツールを「基礎」から学びなおそうといろいろ調べています。

で、その「調べる」が一定の閾値を超えると、急に「これ、自分の方がうまく説明できるんじゃね」というような感覚が芽生えはじめてきます。傲慢きわまりないですね。

とは言え、その「傲慢さ」をフィルターで濾してみると、自分なりの説明が立ち上がりつつある感覚が存在していることがわかります。つまり「自分ならこう説明するよ」というようなビジョンが蠢きはじめているのです。

そのビジョンに駆動されるがままになるならば、ブログなどで解説記事を書きはじめたりするのでしょうし、そういうことをしてきたから、今わたしはこうやって書き物仕事をしているのだと思います。

さて、そうした感覚が立ち上がっているときに起きているのは何なのでしょうか。少なくとも既存の要素の組み換えだけではないことはたしかです。つまりページXから情報Aを持ってきて、ページYから情報Bを持ってきて、組み合わせて「はい、新しい情報です」と提示することではありません。

あるいはページXの情報Aに、何かしら「自分の経験」パウダーを振りかけて、新しい成果物とするようなアレンジでもありません。

むしろ、情報自体に新奇性はなくても「この視点や観点から説明したら、もっと見通しがよくなるのではないか」という提案というのが近いでしょう。パースペクティブの変容です。

その変容の結果として、説明の順番などが変わってくることがあり、それはアウトラインの変化を意味するのですが、その変化は副産物でしかなく、主要なのは「視点の変化」の方です。

で、その変化した視点が有用ならば、そこにある情報が既存のものと変わらなくても、「新しい情報」としての有用性を持っていると言えるのではないか、なんてことを考えています。

〜〜〜脳の開拓〜〜〜

最近『群論への第一歩』を読み進めているのすが、群論の「ぐ」の字も知らない状態で読みはじめたので、読み進めるのはかなり脳が疲れます。「ああ、頭を使っているぞ」という感覚がすごく強く立ち現れるのです。

そうした疲れに比例するように、脳内に新しい回路が開かれているような感覚も受けます。あくまでメタファーですが、新規のモジュールが追加されているような感覚。一種の知的な「筋トレ」。

で、そうやって新しい分野を学んでいると、「自分はわかっていない」という状態に置かれることになります。無力感というほど強くはなくても、万能感・完全感が傷つけられる感覚があるわけです。もちろん、それは謙虚さを取り戻す機会でもあるわけです。

逆に言えば、新しいことを何一つ学ぶことをせず、慣れた環境に閉じこもり、他者に向かった何も表現をしないならば、時間と共にその人が持つ「万能感」は強固に固まってしまうのでしょう。

社会的な成功はさておき、そういう状態はできるだけ避けたいなと個人的には思います。

〜〜〜モレスキン〜〜〜

Amazonのタイムセールで見かけたモレスキンを、ほとんど勢いで買いました。最近、ポケットに入れておくメモツールで悩んでいたので、お試しの一つとしてトライした感じです。

で、モレスキン+万年筆をしばらくポケットに入れて運用したのですが、これが実にいいです。なんというか楽しく書けます。書くことが、快さに満ちた時間になるのです。

そうすると、ノートに書くことが増え、そのノートは読んで楽しいものになり、ますますそのノートを開く機会が増える、という好循環が回ります。結構まじめに、iPhone+Twitterを開く時間が減った気がします。その分「自分の考え事」をする時間が増えた格好です。

Very good.

なんだかんだいって、Twitterは非常に面白いメディアでいまだに代替が存在しないわけですが、その面白いメディアに対抗するためには、「自分のノート」もそうとう面白いものにする必要があります。奇妙な戦争がはじまっています。

〜〜〜タスク管理の偏り〜〜〜

「タスク管理」は、ライフハックや仕事術と密接な関係を持ってスタートしていて、いまだにプログラマーとかフリーランスの執筆者の手法が多く紹介されます。

しかし、ノウハウは道具であり、道具は用途によって適切さが変わります。ずっと机の前にいる知識労働者のタスク管理が、そうでない人にぴったり役立つとは限りません。

同様に「生産性を100%以上にしたい」と考えている人と「そこそこでいいから、怒られない程度に仕事する」と考えている人の"適切なタスク管理"も違うでしょう。

にもかかわらず、ネットや書籍で見つけられるタスク管理手法には、一定の偏りがあり、その偏りの外にいる人のためのタスク管理手法はあまり見つけられません。料理でいえば「一流シェフのためのレシピ」みたいな話ばかりなわけです。

最近では「ずぼらメシ」とか「虚無レシピ」といった料理情報もよく見かけるようになってきましたが、タスク管理においてもさまざまな価値観や局面でのノウハウがより多く発信されるようになったらいいなと思います。

皆さんはいかがでしょうか。何を求めてタスク管理を実践されていますか。よろしければ倉下までお寄せください。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、メモ論の続き、情報カード話、一週間の振り返り方、Excelについてをお送りします。

メモの随伴性2

前回は、メモが行為に付随して使用されることを確認した。だからこそ、メモは断片的な記述で事足りる。行為が文脈を補足してくれるからだ。逆に言えば、行為の外ではメモは情報不足になる。メモは行為と共に使われてこそ、真価を発揮する。そうした性質を「メモは行為に随伴する」と呼んだ。

面白いのは、逆も起こる点だ。

たとえば、あなたが夕食を作っているとしよう。そのとき、次の手順をおぼろげに意識しているかもしれないが、それ以外のことを思いつくこともある。食後の段取りとか、今作っている料理の違ったレシピのアイデアとか、さっき使い終わったケチャップを買わなければならないこととか、そういったことが頭に浮かぶわけだ。

そうして浮かんだこともすぐに忘れてしまうので、失いたくないならメモすることになる。「ケチャップ」とか、そういうメモを取るわけだ。

私のような執筆業だと、夕食を作っている間に原稿のネタを思いつくとも多い。発信者・放送者の方ならば似た経験をお持ちの方も多いだろう。目の前の(つまり行為の最中の)文脈とは違ったことを思いつくのだ。

そして、よくよく考えれば、ほとんどのメモはそうしたシチュエーションで発生する。

「よし、今からメモを書くぞ」と、あらかじめメモのための時間を確保してメモ書きすることはきわめて少ないだろう。たいていは、何かをしているときに、その何かについてか、その何か以外についての思いつきがあり、それを書きとめることになる。言い換えれば、メモは専用の時間を持たない。常に、何かしら別の時間に相乗りする形で生まれてくる。

メモの使用は行為に随伴的であったわけだが、メモの発生もまた行為に随伴的なのである。

■例外の検討

とは言え、「よし、メモを取ろう」と専用の時間を設けないことがまったくないわけではない。読書メモが好例だ。

本を読み終えた後、時間をとってメモ書きを行うとしたら、「メモ書きのための時間」を専用的に設けていることになる。しかし、注意して観察すると、そこで行われているのは「本を読んでいる最中に思いついたことを、思い出しながら書きとめている」という営みではないだろうか。

読んでいるときには何も思いつかなかったのに、メモ書きしようと思ったら頭にそれが浮かんでくる、ということはないはずである。つまり、そうしたメモ書きの時間は行為の最中に発生したものを、時差を伴って書きとめているだけだ。メモ書きする対象そのものは「読書」という行為に随伴する形で発生していたと言える。

タスク管理で行われる「洗い出し/ブレインダンプ」も同様だ。頭の中にある「気になっていること」を紙などに書きだしていくわけだが、そうした「気になっていること」は表現からわかるように、ある時点で「気になり」、そのまま「気になり続けている」ことである。

つまり行為の最中に発生したにもかかわらず、メモされていなかった「気になったこと」を大晦日の大掃除のように一斉に回収しているわけだ。

実はここに問題の種が潜んでいる。「洗い出し/ブレインダンプ」のような専用の時間を設けて「気になること」を洗い出していると、実際はこれまで一度も「気になった」ことなどないことまで「気になること」としてリストアップされてしまう可能性があるのだ。特に、質問リストなどを駆使し、何が何でも「気になること」をピックアップしようとしようとするほど、そうした可能性は高まる。

結果どうなるかと言えば、当然「やることリスト」は肥大化していく。

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