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着想と自分自身のネットワーク

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/07/20 第510号

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

7月18日に村上春樹さんの新刊が発売となりました。

このメルマガの原稿を書き終えたら、読書没頭体制に入りたいと思います。ふっふっふ。

〜〜〜値下げされたマスク〜〜〜

マスクが今よりもずっと入手しにくかった頃、とある雑貨・洋服屋さんで中国製のマスクが販売されていました。具体的な値段への言及は避けますが、「かなり強気の値付け」だったことは書いておきましょう。

とは言え、どこのお店にもマスクが置いていない状況だったので、そのマスクは飛ぶように売れていました。私が買ったときも結構人が並んでいましたし、在庫であろう段ボールがあっという間に無くなっていた(人が入るサイズの段ボール二個が2時間くらいで消えていました)ので、爆発的な売り上げだったのだろうと予想されます。

で、今でもそのお店ではマスクが販売されているのですが、「値下げ!」の文字が大きく書かれたPOPが貼られています。ああ、在庫が捌けていないのだなということがよくわかります。

きっと、ものすごく売れたから追加で納品されたのでしょう。でも、新しく入ってきたときには、すでに市場に十分に流通していた……。

ここまでならよくある話なのですが、面白いのが今値下げ価格で販売されていても、どうにもそのお店で買う気持ちが湧いてこない点です。もちろん値下げ価格といっても「強気の値付け」からの値下げなので、他の市場価格と変わらない点もありますが、「他と変わらないなら、別にこのお店で買わなくていいかな」という気持ちが湧き上がってきているのがポイントです。

たぶん劇的に儲かるのでしょうが、「強気の値付け」って、お客さんとの信頼感を醸成しないのだなと、改めて感じました。

〜〜〜提示されたお題とどう付き合うか* 〜〜〜

以下の音声コンテンツを聞きました。有料(100円)のコンテンツです。

コンテンツ・プラットフォーム「note」では、さまざまなコンテストが開催されていて、ライター志望の人は、そのコンテストを利用して、著者としてのネームバリューを上げていくやり方が普及している、という話です。

雑誌というメディアが衰退しつつあり、ブログも「はてブスパイラル」によってバズることがなくなっているので、noteという場で「書き手として知られる」活動を行うのは合理的ではあるでしょう。でも、そんなに合理的すぎて良いのだろうかと、堀さんは述べられていました。

個人的には、まったく同感です。というか、コンテストが開催されて、テーマが提示されると、ついついそれを「どうやって料理してやろうか」と考えたくなるのが天の邪鬼の真骨頂です。言い換えれば、テーマ通り書くのがどうしてもつまらなく感じてしまうんですね。おそらく、そういう人間だから物書きなんてやっているのでしょう。

ちなみに、「これからの仕事術」というnoteのコンテストでは、私は以下のような記事を書き、

堀さんは以下のような記事を書かれました。

うん、やっぱりこうでないと、ですね。

〜〜〜本の情報を積極的に開示すること〜〜〜

以下のツイートを拝見しました。

ツイートでは、以下の記事が言及されています。

まず上の記事では「本を読む代わりに、要約サービスで代替するなんて、論外、論外」と語られています(これも要約ですね)。

もちろん、書き手の言いたいことはわかります。本の著者というのは、短い言葉では言い表せないことを伝えたいから、苦労して長い言葉を紡いでいるわけです。要約を読んで、本を読んだことにされてはたまったものではありません。

一方で、鷹野さんが指摘されている点は、「本を買って読む」よりも以前の段階の話です。まず、要約に触れて、その本の感触を確かめ、実際に読むかどうかを決める。そのために要約サービスが使われるなら、むしろ本の売り上げに貢献するのではないか、ということです。

この点に関しては、鷹野さんが指摘される通りでしょう。現代は、あまりにも新刊の出版点数が多く、そのすべてを精査している時間はありません。買うかどうかを判断するのが難しい状況なのです。

そもそも、数が多すぎて新刊コーナーには並び切らないものもあり、存在が知られない本は、興味を持たれることもありません。当然売り上げは立たないわけです。

その点、要約サービスで本が紹介されるならば、それが読者への興味の導線となって、売り上げが生まれる可能性が出てきます。

でもってこれは、要約サービスに限ったものではありません。上の記事の著者が言うように、本というのは「読んでもらってはじめて価値がわかる」ものです(これを経験財と呼びます)。つまり、本を買うという行為は、いつでも博打的な要素をはらんでいるのです。経済活動が縮小に向かう中で、買い手に博打を求めるのは、売り手としていかがなものだろうかと、個人的には思います。

むしろ、本はもっと情報を提供すべきでしょう。内容紹介や目次だけでなく、要約であったり、冒頭部分であったり、いろいろな書評であったりと、本の情報を開示して、「うん、これなら読んでみよう」と思ってもらえるポイントを増やすこと。それが、売り上げアップに必要な行為でしょう。

よって、問うべきは「要約サービスがよいかどうか」ではなく「その要約は、本の興味をそそるものになっているかどうか」でしょう。その点を考えずに、要約がダメだと切り捨ててしまうのは、いかにも「わかりやすい」話だと、個人的には感じます。

〜〜〜今週の見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

とある有名チェーン系書店で大きく展開されていました。「読むだけで頭がよくなる151の視点」と大きくありますが、151の視点を読み通すだけでも結構苦労しそうです。ちなみに原題は『This Will Make You Smarter』で、こちらもなかなかすごいタイトルです。

原題は『Why We Dream』で、タイトル通り私たちが眠っているときに見る夢の役割を科学的に考察する本です。内容紹介にある「近年盛んな睡眠研究から、フロイトとユングの夢分析、S・キングの『IT』、映画「インセプション」、村上春樹まで──科学と文化の両面から夢の正体に迫る」という文言がそそります。

人間は、理性や思考を持っていますが、一方で非常にだまされやすく、誤った判断や先入観にとらわれやすい動物でもあります。結局のところ、そうした性質を理解した上で、いかに「考えること」に立ち向かうのか、ということが大切なのでしょう。ちなみに原題は『The Irrational Ape』となかなか挑発的です。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 買う本を選ぶ際、要約や書評はどの程度参考にされますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週は、長文コンテンツ一本でお送りします。

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2020/07/20 第510号の目次
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○「着想と自分自身のネットワーク」 #知的生産の技術

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

*本号のepub版は以下からダウンロードできます。

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○「着想と自分自身のネットワーク」 #知的生産の技術

前回では、「かりものでない自分自身の思想」を立ち上げるための方法として、着想同士のリンクを紹介しました。カードを「くる」ことも、良き着想をメタ・ノートに書き写すことも、コンテキストを変容させ、そこに新しいつながりを生み出すための手法だと捉えられます。

では、なぜそれが自分自身の思想を立ち上げるための方法となるのか。今回はそれについて考えます。

■ドネルケバブではないやり方で

今井むつみさんの『学びとは何か?』では、「知識ドネルケバブ・モデル」という概念が提出されています。

ごく簡単に言えば、誰かから知識の断片を受け取り、それを自分の頭にぺたっと貼り付けたら、その知識が獲得できる、というような捉え方のことです。言い換えれば、引き出しの中に、アイテムをどんどん放り込むことで、知識が獲得されていくプロセスが、「知識ドネルケバブ・モデル」における学びです。

今井さんは、そうしたタイプとは異なるモデルを提唱されていて(残念ながら、そこに固有名は与えられてないようですが)、そのモデルが今回の話と関係があります。

では、「知識ドネルケバブ・モデル」ではないモデルとはどのようなものでしょうか。

たとえば、「赤色」という知識(概念)があるとしましょう。たとえば、赤色に感じるクオリアであったり、#FF0000であったり、赤にまつわるさまざまな知識の統合が、その「赤色」という概念に結びついているわけですが、それだけではありません。そこには否定(排他)の要素もあります。

たとえば「赤色である」ということは「青色ではない」を意味します。ある肯定は、ある否定を含んでいるのです。

この赤/青の対比は、明確すぎるので機微が伝わりにくいですが、たとえばこれが「赤」「橙」「黄」「朱」「小豆」であればどうでしょうか。「橙色であること」は、「黄色ではないこと」を意味します。否定があるのです。

しかし、こうした細かい色(概念)を知らなければ、その人はこれら全体を「赤色」と呼ぶでしょう。細かい粒度から見たときに、「間違った知識」を持っているのです。そして、「橙」を知ったときに、その「間違い」が更新されます。これまで赤色だと認識してた色が「橙」と再認識されるのです。

これは、「知識ドネルケバブ・モデル」とはまったく違っています。単に「橙」という色についての知識が増えただけではなく、「赤」についての知識が更新されているのです。

別の見方をすれば、一つひとつの知識(概念)は、関係性を保有しています。よってある知識の増加は、別の知識にも影響を与えるのです。

逆に言えば、「橙」の知識は増えても、これまで通りそれを「赤色」だと呼んでいるなら(色の認識が変わっていないなら)、それは「知識ドネルケバブ・モデル」における知識の獲得ということです。

■ネットワークの固有性

大切なことなので、再確認しておきましょう。

その1:人の頭の中にある知識は、それぞれが独立的に存在しているのではなく、類似・排他といった関係性を持っている。

その2:独立的に知識を追加する学びと、関係性を更新する学びがある。

本稿で重視したいのは、「関係性を更新する学び」です。言うまでもなく、それが冒頭に挙げた「新しいつながりを生み出すための手法」と密接に関係しています。言い換えれば、「かりものでない自分自身の思想」を生み出すこととつながっています。

では、なぜ「関係性を更新する学び」の方が知的生産において大切なのか。

まず、極端なことを言えば、独立的に知識を追加していく形だと、固有性は立ち上がりません。比喩的に言えば、引き出しの中に何を入れるのか、という点ではたいした違いは生まれないのです。

なぜなら、「大切なこと」は限られていて、ほとんど変わらないからです。「大切ではないこと」は多様で数はたくさんありますが、そうしたものをたくさんポケット入れて「ほら、ほら、自分って特殊でしょ!」と言ってもつまらないでしょう。

たとえば、プログラマーや小説家に「仕事において大切なことは何ですか?」と尋ねたら、答えは均一にはならないでしょうが、それでもかなりの圧縮率にはなるでしょう(≒似た情報がたくさん含まれているということ)。

よって、知識の数やその種類で固有性(かりものでない自分自身のthings)を立ち上げるのは難しいのです。

もっと言えば、現代では断片的で独立した知識は、そのほとんどがインターネットで検索できます(Wikipediaに書いてあります)。そんなものをたくさん保有していても、固有性は立ち上がらないでしょう。

■かりものでないもの

そもそもとして、梅棹忠夫さんが「かりものでない自分自身の思想」と表現されたことが、──あまり注目されていませんが──、きわめて重要です。

「かりもの」というのは、要するに「知識ドネルケバブ・モデル」での知識の獲得ということです。大きな肉の塊から切った肉片を持ってきただけの状態。自分の脳内ネットワークに、その知識がマージされていない状態。自分自身のものではない知識。

逆に見れば、「かりものでない思想」とは、断片的な知識を取り込んで再編されたネットワークのことを指すのだと推測できます。そして、それが「自分自身のもの」だと言える(≒固有性を持つ)のは、まさにネットワークの性質によるものです。

たとえば、10個の点を皆に等しく与えたとしましょう。何の制約も課題も与えなければ、それぞれの人は、それらの点を好き勝手につないでいくでしょう。持っている点は同じでも、できあがるネットワークは異なってくる。そういう結果になるはずです。

そうなのです。仮に断片的な知識において違いがうまれなくても、それをどうつなげるかにおいては多様なバリエーションが出てきます。言い方を変えれば、アイテム数の増加から生まれる「個性」よりも、アイテムの組み合わせ方によって生まれる「個性」の方が幅広いのです。

よって、目指すべきは個性的なネットワークの確立です。むしろ、ネットワークの成長の結果が、自動的に個性を立ち上げると言えるでしょう。

もちろん、アイテム数の増加に意味がないわけではありません。ネットワークを構成するノードが増えれば、ネットワークの多様性もまた広がります。その意味で、新しい知識を意欲的に学んでいくことは大切でしょう。

しかしそれが、断片的な知識の獲得に留まるならば、固有性の立ち上がり方は弱いものとなります。その知識を自身のネットワークにマージすることで、自分自身ものである(≒他者とは違う)思想が生まれてくるのです。

そのために、カードを「くった」り、ノートを書き写したりするのです。その目的を見失ってはいけません。

■新しいつながりの例1

では、実際に知識・着想が既存のネットワークに取り込まれる例を紹介してみましょう。

以下のツイートを見かけたときのことです。

用途が限定されいていると、AppleWatchは便利さよりも不便さの方が目につく、というツイートですが、私はこのツイートを見て、イリイチの「反生産性」を思い出しました。

たとえば、Emailの普及のおかげで私たちは気楽に他者にメッセージを送れるようになったわけですが、その反面、昔なら手間やコストの面で送信されていなかったメッセージまでもが大量に送られてくるようになってしまっています。便利性が生み出した不便さです。

端末のバッテリー残量を気にしたり、Wifiを捉まえられる席を確保したりと、便利さを提供してくれるものを使うために、私たちが新たな不便さを抱えてしまっている点は間違いなくあるでしょう。AppleWatchのツイートもその一つです。

ここまでは、ごく普通のつながりです。常識的な連想。

しかし、この連想をさらに別の概念がバクッとキャッチします。資本主義とヘーゲルの弁証法です。

まずヘーゲルの弁証法ですが、あるテーゼがあり、そのテーゼの反対であるアンチ・テーゼがあり、それらがぶつかり合うことで、高次の答え(ジンテーゼ)に至るというのが、おおまかな概念です。で、ポイントは、このテーゼとジンテーゼは、別個のものではなくて、同一のものに宿る、逆向きの性質ということです。

この「同一のものに宿る、逆向きの性質」は、生産性と反生産性を強く喚起します。つまり、新しい生産性が生まれるその背後で反生産性も生まれ、その矛盾を解決するために、新しい生産性が生まれる、という流れです。いわば、テクノロジー発展における弁証法。

もちろん、そうして生み出された生産性もまたその背後に反生産性を持つので、弁証法の再帰はいつまでも繰り返されます。テクノロジーは際限なく「進歩」していくのです。

ここで、さらに資本主義(資本論)が引き寄せられます。マルクス自体もヘーゲルの弁証法を下敷きにしていましたが、私はマルクスが用いた「資本主義が無限に拡大していくこと」に関する説明をいまいち許容できていませんでした。言い換えれば、なぜ資本主義が新しい資本を求めて常に拡大していくのかが腑に落ちていなかったのです。

しかし、「テクノロジー発展における弁証法」を用いれば、その疑問はたちどころに解決します──というのはさすがに言い過ぎですが、「自分自身の仮説」を持つことができます。

一度テクノロジーによって生産性が生じれば、同時に反生産性も生まれ、そこからジン・生産性が導かれる。それが、新しい市場を生み出す。そこにまた反生産性が含まれているので、新しいテクノロジーの産声はいつでも待機していて、それがまた新しい市場を生み出す。

つまり、資本が先行して拡大していくのではなく、「テクノロジー発展における弁証法」が常に新しい生産性を作り出し、その後を付いていく形で資本が拡大していく、という見立てです。でもって、「市場」というものも(もっと言えば、市場の現れ方も)、一つのテクノロジーとして捉えることができるでしょう。

というように、最初のツイートを見るまでは、イリイチとヘーゲルは(私の頭の中では)まったく接続していなかったのが、そのツイートによって、見事に新しいつながりが生まれました。それが、資本主義へのまなざしも変えっていったわけです。ネットワークの変容です。

■新しいつながりの例2

もう一つ、新しいつながりの例を紹介します。

「デキル風(ふう)くんの仕事術」という漫画があります。noteで連載されている岡野純さんの漫画です。

仕事術系コンテンツにどっぷり浸かってしまったビジネスパーソンの「あるある話」を四コマ漫画にした作品で、クスっと笑えるお話になっています。仕事術系コンテンツをたくさん読んで、仕事ができる風になっているけども、風でしかないという状況です。

さて、少し前にTwitterで、最近の異世界ファンタジーの設定の甘さについて言及されていました。明らかに現代文明でしか通用しない言葉が当たり前に使われていたり、天体が地球とまったく同じだったりするのは、おかしいのではないか、というツッコミです。

もちろん、いちいちファンタジーにそんなことをつっこむなよ、という話ではあるのですがそれ以上に、文学的な意味においてもその指摘は的外れです。異世界転生ものは、『指輪物語』のような「異世界」を描くのではなく、むしろ転生した(つまりトラックに轢かれて死んでしまった)人間が「異世界だと思う」世界を描くものだからです。

その「異世界だと思う」世界に共感し、入り込む体験が、そうした作品が提供しているものです。でもって、『指輪物語』は別の世界を提供しているだけであって、目指しているところは同じなのです。読者が望み、著者が構築する世界を提供すること。その気分を味わうこと。

以上の二つを合わせて考えると、「仕事術コンテンツ」の役割が見えてきます。仕事ができる風な気分を味わえること、です。そういう異世界を体験できるのが、「仕事術コンテンツ」に求められている役割の一つなのです。

私はそれまで、「仕事術系の本はファンタジーだ」と否定的に見てきました。それは健康サプリとか栄養ドリンクのように、一時的な効用をもたらすものであって、本質的な変化を呼び込むものではない、と軽んじていたのです。これは、最初に書いた断片的な学びとネットワーク的な学びを考えれば、すぐにつながる帰結です。

しかし、その「仕事術系の本はファンタジーだ」を否定的でなく、肯定的に捉えるとしたら? 指輪物語や異世界転生ものが、満たしているニーズを肯定的に捉えたように。

私たちは虚構作品に触れるとき、そのまま通りすぎるわけではありません。私たちが虚構作品を通りすぎるとき、必ず現実へのまなざしにも変容が伴います。虚構は、虚構であるがゆえに、いっそう現実を(現実認識を)変容させる力を持つのです。それは現実からズレているから、意味があるのです。

そうした虚構世界をくぐり抜けることは、たとえ知識の増加につながっていなくても、私たちのまなざしを変えます。それもまた学びです。しかも、ネットワーク的な学びです。

つまり、「仕事術系の本はファンタジーだ」とした上で、「では、そのファンタジーで、読み手に良き効果をもたらすためにはどんなものを書けばいいのか」という問いを立てることができるのです。少なくともこの問いは、既存の本を見下して悦に入っているよりもはるかに建設的な態度ではあるでしょう。

私のように、非-ファンタジー的に(実直に)「仕事術系」の本を書いても、そこには求められているニーズを満たす要素がないので、たくさんの人には摂取してもらえません。しかし、単にファンタジーで彩れば、自分のやりたいことが達成できません。

「仕事術系の本はファンタジーだ」を肯定的に捉えることで、はじめて自分なりのやり方を模索できるようになるのです。

■万華鏡を回すかのように

以上、二つの「アイデアの変容」を紹介してみました。

もちろんこれはごく一部の変容でしかありません。これよりも小さい変容、大きい変容は日々起きています。しかし、サイズ感はどうあれ、こうした着想のネットワークが構成する全体像は、「他の人にはないもの」になっているでしょう。

他の人が知らないことをたくさん知っているのでもなく、他の人が思いつかない小さな断片を持っているのでもなく、その組み合わせによってできあがる全体像が他の人と違っていること。それが、梅棹さんがおっしゃった「かりものでない自分自身の思想」なのだと思います。

そうした思想を育てるために際立ったIQは不要です(私が実例です)。頭の回転の早さも、高度な知識も必要ありません(私が実例です)。知識を広げ、それについて考え、考えたことについて、さらに考えること。そうして、情報・知識・概念のネットワークを編成/再編成していくこと。それを地味に続けていけるなら、誰しもが持てるものだと思います(希望的観測です)。

だからこそ、カードを書きとめ、そのカードを「くる」ことが大切なのです。そして、その行為は、完全にランダムなものではありません。たとえば、辞書を適当に開いて、二つのページにある単語を組み合わせてストーリーを考えるというのとは大きく違っています。

なぜなら、カードに書き留めたものは、私(≒ひとりの主体)が興味・関心を持ったものだからです。その意味で、カードボックスの中は(生物程度には)閉じた系になっています。完全には閉じていないが、バラバラに飛散しているわけではない系です。その少し閉じた系の構成物を、いろいろ動かしてみるのです。万華鏡を回すかのように。
*最近の私の言葉で言えば、「閉じて、動かす」が相当するでしょう。

■アイデア地層に必要なもの

もう一点だけ、補足的に書いておくと、私は『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』という本の中で、「アイデアの地層」という概念を提唱しました。書き留めた着想は、そのときは役に立たなくても、時間が経った後に価値が再発見されることがある、といったニュアンスです。

この話は、私がEvernoteに死蔵させていた大量のアイデアノートと齟齬をきたします。だって、ほとんど有効活用できなかったのですから。

しかし、ネットワークの拡大という視点を導入すれば、この話はまた別の色合いを帯びてきます。それについては、次回書いてみましょう。とりあえず、今回は以下の疑問だけを残しておきます。

「10年前に書いたメモと、今日思いついて書いたメモは等価だろうか?」

■さいごに

とりあえず、着想を書き留めることは重要ですが、それはスタート地点でしかありません。書き留めたことをベースに、さらに考えを進めていくこと。ネットワークをアップデートしていくこと。メモシステムは、それを補助する装置として捉えるのがよいでしょう。

そして、既存のメモ(ノート)ツールは、それをサポートする機能が弱いと思うのですが、それはまた次回以降に書いてみます。

(つづく)

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○おわりに

お疲れ様でした。本編は以上です。

今回のお話はもう少し短くまとめるつもりだったのですが、どんどん膨れ上がってきました。しかし、個人的には面白い話に発展していると感じます。しばらくはこの話題が続きそうです。

それでは、来週またお目にかかれるのを楽しみにしております。

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