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ノウハウの課題と展望 / 対話を成立させるもの / 読書の足跡

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/03/28 第598号

「はじめに」

千葉雅也さんの『現代思想入門』を読んで、おおいに感化されております(影響されやすい)。

『勉強の哲学』もすごかったですが、『現代思想入門』はもう一段すごみが増している気がします。一人の書き手としても、「こういう入門書の書き方もあるんだ」と感心しっぱなしです。

そういう「すごい仕事」を目の当たりにすると、「自分も頑張ろう」とごく単純に思います。励まされるわけです。これが、自分よりもすごく若い人であったら「頑張れよ!」と応援したくなりますし、すごく先輩であったら「やっぱりすごいな」と思っておしまいなわけですが、少し年齢の近い先輩だと、「自分も頑張ろう」という気持ちになるのです。不思議なものです。

こんな風に、人は周りの人間に影響を受けながら(そして与えながら)人生を生きていくのでしょう。それは「自分は自分、他人は他人」と完全に他者を遮断していくよりも、風通しのよいものだと感じます。もちろん、他者を意識しすぎてルサンチマンにまみれるのは不健全ではあるのですが。

というわけで、そっくりそのまま自分の領域に置き換えて、「知的生産入門」というのを書くとしたらどんな企画になるだろうかと、ちょっと考えてみたくなりました。これまでなら、「恐れ多くて」考えることもしなかった企画案です。

もちろん、一朝一夕にできるものではありません。以下のページにこつこつメモを書き留めていこうと思います。

◇知的生産入門連載 - 倉下忠憲の発想工房

〜〜〜オススメSF〜〜〜

最近、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んでいます。アンディ・ウィアーの新作SFです。

アンディ・ウィアーと言えば、『火星の人』で軽妙でコミカルな文体でありながら、サイエンスへの興味をかき立てる内容をばっちり描き出してくれた異色の新人作家だったわけですが、本作ではその軽妙な語り口を維持したまま、ストーリーテリングがより壮大になっています。

端的に言って、面白いです。

SF好きの人はぜひどうぞ。あと、『火星の人』を楽しんだ方ならば、間違いない作品だと思います。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 今年読んで面白かった本があれば、ぜひ教えてください。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は一連の「ライフハック考」の最終回と、二つの短い原稿をお送りします。

「ノウハウの課題と展望」

前回は、場の必要性を確認した。大衆を動員するのとは違う、オルタナティブな場こそが今こそ必要である、という話であった。その模索が今後の課題になるであろう。

今回は、全体のまとめに入りたいのだが、その前に残してきた問題点をいくつかさらっておこう。

■「ノウハウ」話が陥りがちなトラップ

まず、この手の話題に起こりがちな問題を確認しておこう。

以下は『ライフハック大全 プリンシプルズ』からの引用だ。

>>
原則:ライフハックは私たちの「頭の良い部分」と「悪い部分」という壁を乗り越える仕組みを作ること。やる気やスキルでは届かない部分に、仕組みで近道を作る。
<<

多くのライフハックが、こうした「仕組み」にフォーカスしている。意志の力に頼りすぎず、判断のブレをなくして、一貫した成果を挙げるようにするためには、たしかに「仕組み」作りは欠かせないだろう。

しかし、あまりに「仕組み」に力点を置きすぎると、あたかも「仕組みさえ作れば、問題はすっかり消えうせる」かのように感じられてしまうという問題点がある。そうした感じ方を、ここでは仕組み至上主義と呼んでおくことにしよう。

この仕組み至上主義には、大きな問題が二つある。

一つは、仕組みさえ整えれば、後は何も考えなくて良い、という態度はどう考えても「工夫」を創発する土壌にはならない、ということだ。むしろ、その逆で「いかに原典通りの仕組みを作るか」という方向に意識が向いてしまう。

その意識の持ち方は、基本的に望ましいものではない。なぜなら、人生(ライフ)は人それぞで違うからだ。仕事でも、知的生産でもまったく同じものはないだろう。原典はあくまで「モデル」の提示であって、それを個々の人生に実装する際には、何かしらの試行錯誤とそこからの工夫が必要となる。仕組み至上主義はそれを阻害してしまうのだ。

もう一つの問題は、理解の不足である。上の引用をベースにすると、ライフハックの仕組みとは、以下のような構図で捉えられる。

頭の良い部分→仕組み→悪い部分

つまり、あることを為したい(そうすることが良いと思っている)自分がおり、しかしその実行を妨げる自分がいて、その二つをうまく接続する存在として「仕組み」が生成される、という形である。言い換えれば、仕組みはその両者の性質から要請されることになる。

仕組みにフォーカスしすぎると、その両者の理解がおろそかになるのだ。自分が何を欲していて、しかし自分の何がそれを邪魔しているのか、という理解を欠いて、仕組みさえあればなんとかなる、という考え方になる。当然それは、一つ目の問題とからみあって期待する結果を出せない、という事象を引き起こすのだが、それ以上に、いくら仕組みを取っ換え引っ換えしても、「自分についての理解が進まない」という事象も引き起こす。

拙著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』では、自分を理解する試みをセルフスタディーズと名付けたが、仕組みにフォーカスしすぎると、その理解がうまく進まないのである。

逆に、そうした理解が進むのならば、提示されたものとは違う「仕組み」を創造できるだろうし(それがつまり工夫ということだ)、他の分野においてもその知見を活かすことができるだろう。たとえば、試験勉強を続けられるならば、独学でギリシャ語の活用を学び続けることもできる、といった具合に。

その意味で、自己理解は汎用性がある(自分が生きる、というレイヤーにおいてはだが)。逆に、仕組みは一般性がある。他者にも伝えられる要素を持っている。この二つの要素が、ノウハウ話では共に重要なのだ。

■要素還元の行き止まり

もう一つ、ノウハウ話はどうしても「小さな話」に偏ってしまう、という問題も持つ。これは実践を進めるためには必要な傾向である。大きなことは試行錯誤しにくいからだ。

しかしながら、小さな話に始終すると、どうしても要素還元的になる。部分の話にフォーカスしてしまうのだ。そうすると、包括的・全体的な話ができなくなる。

たとえば、知的生産の技術をどれだけ見聞きしても、「自分がどんなものを作っていけばいいのか」という問いにぶつかることはない。一番大切なはずの問いが、きれいにスルーされるわけだ。

同様に、いくら「仕事術」に詳しくなっても、自分がなぜ仕事をしているのか、仕事に何を求めればいいのか、ということはわからない。ライフハックも、いかに生きるのか(いかに生きるべきなのか)は教えてくれない。

もちろん、それは「技術の話」の範疇を越えている話題であるから仕方がない、という面はあるだろう。一般化できることではないからだ。

しかし、どうしたって実践する人はそういう問いを避けて通ることはできない。なぜなら、人は「意味」を追い求める動物だから、という点もあるがそれ以上に、さまざまな方向性を持つ「技術」の是非を判断するためには、そうした大きな話に(仮にであっても)自分なりの答えを持っておく必要があるからだ。

たとえば、じっくりモノづくりに取り組みたい人間が、濫造でも構わない「効率化」のノウハウを取得することはないだろう。そういうことだ。

逆に言えば、さまざまなノウハウ話はそうした「大きな話」に一応の答えがある、ということが前提になっているのである。だから、ノウハウ話からはそうした大きな話が見えてこない。実際には根幹と呼べるものが、あたかも存在しないかのように語られてしまうのである。

たとえば、飲み会などの「無駄な」人間関係を削減することで自分の時間を確保する、という指針が「正しい」と言える価値平面があるわけだが、もちろんそれとは違った価値平面もある。私たちは、そうしたものを選択し、生きている。

一番恐ろしいのは、提示されたノウハウが基盤とする価値平面に、自分の価値平面が乗っ取られてしまうことだが、実際にそういう事態がどれくらい起こるのかはわからない。ある時期は乗っ取られていても、時間が経てばやはり無理が目立ち、やがては離れていく、ということもあるかもしれないし、むしろ、そのような「異質」な価値平面に触れることで、自分の価値平面がより際立って認識されるようになる、ということもあるかもしれない。

なんにせよ、それぞれのノウハウは何かしらの価値平面の上に成立しているのだ、ということは「小さい」技術の話をするときにでも忘れてはいけないだろう。

(余談になるが、そのような「大きな話」はノウハウ書からみたときの"余計な話"において触れられる、という点がある。人と人の雑談から得られるものがあるのも、そういう内容であろう)

■主体的な自己の限界

最後の問題は、「私」という主体の限界についてだ。セルフヘルプでは主役になる存在であり、ライフハックでも「主体性」の担い手として認定されている。

その「私」は、たしかに重要な登場人物ではあるのだが、スーパーヒーローのように超人的な力は有していない。先ほども述べたように、「頭の悪い部分」の統治ができないだけではなく、「頭の良い部分」にも限界があるのだ。

たとえばその一つに「自分の問題を切り分ける」がある。ストア哲学に代表されるように「自分が影響を与えられるところに注意を払い、それ以外のことはスルーせよ」というアドバイスは有効だが、問題はそのような切り分けは直感的に正しく行えるとは限らず、理性的・分析的ですらその正確性は怪しい、という点がある。適切な知識を有していないと、判断しきれないという事態が起こりうるのだ。

もし、当人の問題ではなく、組織や社会がその責を担うべき問題があるとして、しかしそれを「自分の問題」と捉えたら、どうなるだろうか。あらゆるノウハウを駆使してなお、その問題は残り続けるだろう。その上、「自分が解決すべき問題なのに、解決できていない」という罪悪感も生まれてしまう。これは健全な状態とは言い難い。

つまり、ある主体が何かしらの判断を下すとして、その判断が適切なものなのかどうかを(さらに)判断する別の主体が必要なのである。

この点は、非常に簡単に言えば「相談できる人を身近に持ちましょう」ということで、前回考えた他者との交わりを生む「場」がその助けになるだろう。

私たちは主体性を持って「自分」をコントロールしようと欲するが、その主体性そのものが持つ誤謬にも注意を向けておく必要があるわけだ。

■終わりと継続

以上、いくつかの問題点を確認しておいた。ノウハウの話は必要不可欠ではあるものの、それだけでは足りない可能性が高い。新しい「メディア」を構築するならば、そうした要素も加えることを検討した方がよいだろう。

さて、ライフハックを代表とするノウハウ群が、新しい時代への適応として要請されるならば、どこかの時点で「終わり」を迎えることはあるだろう。社会や制度の中に、必要な知識や技術が折り込まれることで、ノウハウ群の有用性が減衰してしまうのだ。それはそれで一つの望ましい帰結ではあろう。

とは言え、そうした適応は、時代が変化し続けている限り続いていくと考えられる。

人が、何かを為そうと意志するときに自然と要請される技術・知識・工夫。これらは姿を変えて社会に遍在している。

「人が、技術・知識・工夫を用いて、事にあたること」

この基本的な営みは、いかようにも名付けられるだろう。あとは、そうした言説が活発になるような適切な場が作れることを願うばかりである。

とりあえず、私たちは仮にそれを「ライフハック2.0」と呼んで思索を深めていくことにしよう。来月、あるいはその次のメルマガの大きなテーマになる予定だ。

(ひとまずは、おわり)

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