見出し画像

#22 熊本地震の体験記

こんにちは、5月も終わりますね。
ラシンでは今月、インターン生とパートさんの2名が新しくメンバーになり、人数が増え賑やかになりました。

さて今回は、随分前から少しずつ書いていた熊本地震についての記事を書きあげたいと思います。
茂木くんと同じく、きちんと言葉にして残してこなかったので、備忘録も兼ねて。(結果なかなかの長さになってしまいました…)

1.地震が起きた日

前震と呼ばれるようになる地震が起きた、2016年4月14日の21時過ぎ。わたしは大学から1キロほど離れたアパートにいました。毎日のように誰かと遊んだりバイトをしたりしていたのに、その日に限って、珍しく一人で過ごしていたのです。
ベッドに寝転んでスマホを眺めていると、「ゴゴゴゴゴ」と雷のような音がしました。「今日はいい天気だったはずなのに」と思ったのと同時に、ぐらっとベッドが横に揺れました。その揺れはおさまることなく、棚の上の雑貨や本を地面に落とし続けました。
何をすればいいか分からず、とにかく手に握っていたスマホだけを持って、外に出ました。広い駐車場に人が集まっていて、そこに同級生と先輩の姿を見つけ駆け寄りました。

しばらくすると徐々に揺れはおさまり、「今日はみんなで一緒に過ごそう」と提案してくれた先輩の家にお邪魔することになりました。家族に無事だという連絡を入れ、急いで必要なものだけ取りに戻り、その日は寝ないままみんなでトランプやゲームをしていつでも避難できる状態にして過ごしました。余震は度々起きたものの、先ほどのような大きな揺れを感じることはなく、無事朝を迎えることが出来ました。

ニュースもSNSも、地震のことで大騒ぎです。最大震度は7、マグニチュードは6.5だったそう。大学も休校になりました。街中のお店はガラスが割れていたり、看板が落ちて破片が散乱していたり、食器が粉々になっていたりで、片付けに追われていました。

とはいえ、みんな「当たり前の明日」のために前向きに行動していたと思います。

しかしその日の夜。友達の家でご飯を食べ、家に戻ってもう寝ようとベッドに入っていた4月16日午前1時頃。前回よりも大きな音が聞こえたのです。もっと、下から突き上げるような音。「やばい」と一気に緊張したのを覚えています。アパート全体が大きく揺れるのを感じました。立つことすらままならない状態。スマホの警報音は鳴り響き、電気も消え、正直「死んだ」と思いました。このままアパートが崩れて下敷きになるんだ。そういう時、本当に「お父さんお母さんありがとう」なんて言葉が浮かんでくるんです。

念のためにと前日用意していた防災用バッグと、枕元に置いていたスマホを手に取り、手探りで揺れる廊下を歩き、緊急時の仕様なのか開きっ放しのアパートの自動ドアをくぐり、なんとか外に出ました。大きな揺れが何度も起きて、ただ歩いているだけなのに転びそうになる。恐ろしさと不安で泣きながら昨日と同じ駐車場に向かうと、やはり同じように泣いている友人の姿がありました。揺れ続ける地面の上で身を寄せ合っていると、母から電話がかかってきました。
何度もかけたようですが、電波が込み合っているせいか、つながらなかったようです。電話口では、母と妹が泣いていました。安否の確認と、「何も持たなくていいから、生きて帰っておいで。また連絡して。」スマホの充電を気にして、それだけ言って電話は切られました。

2.避難

しばらく駐車場で過ごしたあと、大学の体育館が開放されているという情報が入り、移動することにしました。電柱やブロック塀が倒れてこないか、地面が割れていないかを気にしながら夜道を歩くのは恐ろしかったです。

大学に着いた時には体育館は人でいっぱいで、あぶれた人は運動場で身を寄せ合っていました。4月とはいえまだ肌寒い夜、レジャーシートもない、揺れる地面の上で一夜を過ごしました。今思えば、そんな時でも体育館に誘導してくれてる方や毛布を集めている方などがいて、自身も被災者でありながら誰かを助けようという勇気ある人たちのおかげで、あの日たくさんの人が救われたと思います。

眠れるわけもなく、ニュース記事をみたりSNSで友人たちと連絡をとりあったりしていたのですが、Twitter上で「近くの橋が崩落した」「動物園のライオンが市中に逃げた」といった情報が出回っているのを見つけました。

実際のツイート

鵜呑みにしたわけではありませんが、不安を煽られたのは確かですし、きっとパニックになった方もいたと思います。結局これらの情報はデマでしたが…(後日、このツイートをした人は逮捕されていました)

そのまま一夜を過ごし、お昼頃、サークルのグループLINEが動きました。「北九州の実家まで車で帰るから、誰か乗って行かないか」という内容でした。公共交通機関は全て止まっていて、県外に出るには車を使うほかなかった私は、お願いして乗せてもらうことにしました。
ただその前に、ガス栓を閉めていないことを思い出したため、一度家に帰ることにしました。どうか火事になっていませんように。幸い火や水に関しては問題なかったのですが、家の中はひどい有様で、いったん見なかったことにして家を出ました。

こんな最中でしたが、友人は大きめのバンをレンタルしてくれていました。レンタカー会社も営業してくれていて感謝しかありません。車に乗ったのは、わたしを含め地元が福岡の5人。
高速道路はもちろん使えなかったので下道を走っていたのですが、途中何度も、道路が割れていたり橋が壊れていたりで迂回を余儀なくされる場面がありました。

道中、植木に住む友人から「〇〇っていうスーパーに寄ってほしい」と連絡が入りました。言われた通りスーパーの駐車場に入ると、友人と友人のお母さんが待っていてくれました。帰り着くまで時間がかかるだろうから、頑張って!とおにぎりを持たせてくれたのです。コンビニやスーパーの食料品はどこも空になっていてみんな空腹だったので、本当にありがたかったです。今まで食べたどのおにぎりより美味しく感じました。

3.地元で

高速なら1時間で着く福岡の地元まで、結局6時間近くかかってようやく到着しました。母の顔を見てものすごく安心したのを覚えています。
熊本を出るまでの間に約125回の余震があったようで、三半規管がおかしくなっていたのか常に揺れている気がして、揺れていないのに転んでしまうことが何度かありました。SNSを見ていると、ライフラインが復旧していない熊本に友人や知人を「残してきてしまった」という気持ちが日に日に膨らみ、地元に戻ってからはしばらくふさぎ込んでしまっていました。

しかし同じく福岡に戻ってきていた大学の友人から、「ボランティアに行こう」と誘ってもらって、ようやく動き出すことができました。支援物資の仕分け作業を行うボランティアにしばらく参加していました。

東北から届いた物資
仙台から届いた物資

支援物資には、たびたびこういったメッセージが書かれていました。東日本大震災を乗り越えた子供たちからです。今見ても、少し泣けてしまいます。熊本が大好きと言いながら、ふさぎ込んでいた自分が恥ずかしくなったのを覚えています。

4.熊本に戻って

約1ヶ月の休校期間を経て、大学は徐々に講義を再開していきました。それに合わせてわたしも熊本の家に戻りました。友人たちに再開できたのが何より嬉しかったです。
地震がきっかけで失ったものや機会、時間はたくさんあります。働いていたバイト先には戻れなくなりましたし、熊本大学の名所でもあった五校記念館は崩れ卒業まで入れなくなりましたし、馴染みのお店が閉店してしまったりもしました。
でも逆に、地震がなかったら出会えなかった人にはたくさん出会いました。新しいバイト先のメンバー(阿蘇の大学が壊れ、市内の本校に転校してきた人もいました)や、ボランティア先で知り合った先輩たち、そして何より、新卒で入社した会社の人たち。

元々熊本で就職しようという気持ちはそれほどなかったのですが、地震がきっかけで、とにかくまずは「熊本に貢献を」という軸ができました。それから、”住”に関わる仕事に興味を持ちました。地震の日、社員がヘルメットをかぶりながらオーナー様に安否確認の電話をかけ続け、即日でメンテナンス対応に向かったという話に感銘を受け、結果その住宅メーカーに就職しました。地震がなかったら、多分わたしは全く違う会社に就職していたと思います。

5.今できること

正直、当時わたしは何もできませんでした。大学の体育館で人を誘導することも、レンタカー屋さんに行くことも、自らボランティアに行くことも、何もです。それをとても後悔しました。
その後悔をこれからどう返していけるかと考えたとき、今できることは「たくさん熊本に行くこと」そして「忘れないこと」のような気がしています。
熊本城の復旧工事が完了し、阿蘇に新しい橋が架かり、街に賑わいが戻るまでのことを忘れずに、今の明るい熊本を思いっきり楽しむことが何よりの恩返しだと思っています。

そしてもし、もちろん二度とこんなことは起きてほしくありませんが、仮にまた地震や災害が起きた時には、誰かのために動けるような人間になっていたいと思います。

卒業式の日、改修中の五校記念館前で研究室のみんなと。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?