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大学院入試のための西洋哲学史<列伝>

はじめに

みなさんこんにちは、らりるれろです。

お待たせしました。以前公開した「大学院入試のための西洋哲学史の記録(メモ2024年1月)」の正式な版を、ようやくお届けできる状態になりました(希望的観測かもしれませんが)。

このnoteは、西洋哲学・思想を先行する大学学部生・大学院生向けに、定期試験や大学院受験のために必要な西洋哲学史の知識の概略を提供するものです。「列伝」のタイトルの通り、2500年の西洋哲学史の中で絶対に外して語れない哲学者を取り上げ、その思想のキーワードごとに内容を整理しています。

試験前には、その哲学者の思想のキーワードを十全に列挙できるか、そして説明できるかを確かめていただければ良いかと思います。何かのお役に立てば幸いです。

なお、この「西洋哲学史<列伝>」以外に、以下を続編として執筆する予定です。お楽しみに!

  • 西洋哲学史<テーマ別概論>

  • 現代の諸問題に関する哲学概論(応用哲学・倫理学・美学その他)




ソクラテス

無知の知

ソクラテスの思想は、しばしば同時代のソフィスト(プロタゴラスやゴルギアスなど)と対置される。「人間は万物の尺度である」、あるいは「何も語ることはできない」と主張した彼らは、間違いなく「知者」であった。しかし彼らの知は、時代の中で力と結びつき、彼らの言論における卓越が、権力を産み、民主政は内部から腐食されていった。

そんな落日を予感させる時代のアテナイにおいて、ソクラテスは申し分ないほどの異邦人だった。余所者であり、現実には邪魔者であって、ソフィスト的な有能さと対極にある人間だったとも思われる。

だが「無能な」ソクラテスに対して、デルフォイのアポロン神殿に座す神は「ソクラテスほど知恵のある者はいない」と告げる。自他ともに無能とされてきたソクラテスはこれを不思議に思い、街の人々と対話を重ねた。

その結果、一般的には「優れて立派な人」と言われている政治家や詩人・職人たちも、大事なこと、それが善く美しいとされることについては何も知らないということが分かった。

「私の方が、この男よりは知恵がある(ソフォーテロス)。この男も私も、おそらく善美の事柄は何も知らないらしいけれど、この男は知らないのに何か知っているように思っている思っている。私は知らないので、その通り知らないと思っている」(『弁明』21b)。

これは、伝統的には「無知の知」と呼ばれてきた事柄である。しかし注意しなければならないのは、ここで言われていることは「知らないことを『知っている』」ということではなく、「知らないので、その通り知らないと『思っている』」ということである。
→『ソクラテスの弁明』の終盤で、彼は法廷にてこの<無知の知>を「人間の知恵」とする逆説を提示する。

ソクラテスは『カルミデス』において、「知らない事柄については、知らないと知ることが可能であるか」という問いを立て、否定的に答えている。例えば、視覚が色彩を感覚するものであるなら、視覚についての視覚はありうるだろうか。否、そのような視覚はあり得ない。知への知、そして無知への知も同様である(そのような知はあり得ない)。

したがってソクラテスは「知者」=ソフォスではない(「知っている」わけではない)。あくまで「知を愛し、求める者」=フィロソフォスなのである。


対話法

自らは知者でないソクラテスが、知者を自認する人々と対話を重ね、それを論駁していく。その対話法(ディアレクティケー)は、単なる論争術(エリスティケー)から区別されて、相手の言論の吟味と論駁を含んだ対話、「エレンコス」と呼ばれる。

エレンコスは一般に、次のような構造を持つ。
①相手の主張Aを認める。
②主張Aから、帰結B、C、Dなどを導く。
③B、C、DなどからAの否定を導出して、その元で、相手の元々の主張Aが矛盾していることを示す。

ソクラテスは相手との対話を進めながら、自分は答えを与えない。解答をソクラテス自身も知らないからである(「アイロニー」)。対話を通じて相手は、それとは知らずに新たな真理に逢着する(「助産術」)。否、知らないという状態に突き落とされる。知は宙吊りにされ、否定だけが残る。

こうした論駁は「ダイモン的」であり、弁証法という言葉を使うなら、否定的弁証法と呼ばれるだろう。


文献情報

  • 熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、66-74頁。

プラトン

線分の比(可視界と可知界)

線分の比とは、可視界と可知界(イデア界)との区別、およびそれぞれの中での現物と似像との関係との関係を表したものである。

可視界をA、その中の現物をa1(影)、似像をa2(事物)、
可知界をB、その中の現物をb1(法則)、似像をb2(イデア)とすると、以下の比例関係が成り立つ。
A:B = a1: a2 = b1:b2

可視的なものは知覚(影は感覚、事物は信念)、可知的なものは思考(法則は悟性、イデアは理性)によってそれぞれ認識される。

私たちが感覚可能な世界の中に、現物とその似像があるのと同じように、この現象界そのものの「オリジナル」であるイデア界が存在する。その世界を感覚的に知ることはできないが、この線分的比を元にその存在を推測することはできる。

<参照>
今道(1987)、70頁。


洞窟の比喩

私たちはイデアを直接認知することができない。私たちは、イデアの影しか見えないように、洞窟の中に囚われた囚人なのである。

囚人たちが蒙っているのは、彼らに知が欠けているという意味での欠如なのではない。そうではなく、彼らが蒙っているのは、直接的な見かけ(現れ)の過剰なのである。囚人たちはその様々な見かけに、狂信的なまでに執着してしまっているのだ。

囚人たちは、哲学者を仲介人として、見かけへの執着から自己を解き放つ。ただし、急に実在の方に向けられてしまうと、眩しさで目が眩んでしまい、新たな夜に侵されて盲目になってしまうのである。

それゆえ、段階を追って真なるものに進んでいく必要がある。具体的には、準備教育的学問(算術、幾何学、音階学)をまず経由することが必要である。

全ての真なる認識は、実は再認識である。見えている(はずの)ことを再び見出す。魂が知っていることを想起する。真理とは無時間的なものであり、いつもそこにある。無知とは、それゆえ忘却なのだ。

<参照>
フォルシェー(2011)、15-17頁。


イデアとエロスの関係

イデアは神々によって見られたものであるが、そういったイデアを人間はいかにして見ることができるのか。

魂がイデアに触れるためには、ある飛躍ないし狂気が必要になる。その飛躍・狂気はエロスの力によって導かれる。

実在全ての中で、《美》のみが、見かけのもののうちでも自らを顕現させうるのであり、自らを感性化する。《美》を求めての探究は《エロス》という神によって生気づけられる。

エロスこそが、地上的存在としての人間と天界的存在の神との間の媒介であり、《愛》こそが、我々を絶対的なものへと憧れさせ、段階を踏みながら、アレコレの個々の美しい肉体から引き離して全ての美しい肉体を愛することに向かわせ、次に美しい魂、美しい行為を愛するよう向かわせ、ついには《美しさ》そのものへと飛翔させるのである。

<参照>
フォルシェー(2011)、23頁。


善のイデア

このような諸々のイデアは事物の輝く本質ではあるが、諸々のイデアそのものはイデアを照らしイデアを智解可能にしている光なのではない。
実在と実在の条件は実在と智解可能性の彼方になる。この条件こそが、《善》である。それは《存在》ではなく、あらゆる智解可能な本質を超出しており、それゆえ決して言説の対象とはなり得ないものである。言い換えれば、哲学は厳密な意味で絶対的なものへの絶対的な知にはなり得ない。

哲学は、哲学の智解では決して届き得ない絶対的知への愛にとどまる。
理性的言語は、言説の彼方へ向かうものへと場を譲らなければならない。これが観照(テオーリア)である。

<参照>
フォルシェー(2011)、21頁。


想起説

不死なる魂は、既に遍歴を重ねて、ありとあらゆる物事を見知っている。魂は、顕在的な形では、なお何も知っていない。けれども魂は、潜在的には全てを知っているはずである。

この不知と知のはざまで、すなわち「想起する」という形で、初めて探究が可能になる。完全な不知の状態にある時、人は探究を開始できない。何を探究すべきかすら分からないからである。他方、完全なる知の状態にある時も、人は探究を開始できない。全ての探究を終えてしまっているからである。それゆえ、探究は想起という形を取ることになる。

<参照>
熊野(2005)、83-85頁。

イデア論のアポリア

プラトンのイデア論については、同時代のパルメニデスから以下のような反論が寄せられている。

個物はイデアを分有している。個々の美しい事物は、松明の火を皆で分け合うような仕方で、「美」のイデアを分有している。
しかしそうであるなら、諸事物と「美」のイデアを共に「美しい」とする、第三のイデアが必要になる。以下同様であり、また全てのイデアについて同じことが言えるので、「一なるもの」であるイデアは同時に限りなく「多なるもの」でもあることになる。

また「同」と「異」について考えるとき、「一なるもの」は自分自身に対しても、異なる他のものに対しても、異でも同でもあり得ない。

一は、自らと異なることができない。一が純粋に一である限り、異を絶対に含まないからである。他方、一は自らと同じであることもできない。何かと同じであるという時、一は既に多になってしまうからである。

したがってイデアは純粋な「一」ではなく、「多」を含みうる。そして「一」と「多」は相互に異なる。感覚的世界を超えて真なる存在を考えるとき、このアポリアを避けて通ることはできない。

<参照>
熊野(2005)、90-94頁。


国家の正義

中期プラトンの代表作『国家』では、国家と個人の正義の問題が類比的に語られている。

プラトン曰く、国家は「守護者」(支配者)、「防衛者」(支配者の保護)、「職人」(必要な物資の生産者)によって形成される。各人の個性や特性に応じて、これら3つの仕事は専業で行うべきである。この国家観において、正義は「それぞれが自分の行うべき仕事をしっかりとなすこと」となる。

もし国家に「正義」があるならば、「知恵」「勇気」「節制」が国家に備わっていることになる、とプラトンは指摘する。
まず、守護者には「知恵」が必要である。国内の泰平、そして良い外交を行うために、守護者は良い知恵を有していなければならない。同様に、防衛者には「勇気」が必要である。そして支配者と被支配者との間で最適な調和を生むために、国家全体として「節制」が必要になる。

国家の成員がなすべきことをして、全体が調和した状態となる時、国家は全体として「正義」を持つに至る。

<参照>
柘植(2016)、7-8頁。


個人の魂の調和

国家と同様、個人の魂にも3つの部分が存在する。それぞれ、「理知」「気概」「欲望」と呼ばれる。
理知的部分は、知恵によって魂全体のために配慮し、支配する。気概的部分はその支配を補助し、魂全体のために勇気を振るう。
魂全体の中で最も多数を占めるのが欲望的部分である。この欲望と気概が理知に従う時、節制が生まれ、全体として調和が取れた「正義」の状態になる。

『国家』において魂による理知的支配の重要性を説いたプラトンは、ピュシス(自然)とノモス(法律)との関係について、初期とは異なる考え方を示すに至る。

当初プラトンは、人間は自然的本性=ピュシスは横暴で自分勝手なので、弱い人間は自らを守るために法律=ノモスを制定した、と考えていた。

しかし『国家』以後のプラトンは、物体は魂によって動くので、魂こそが自然=ピュシスとして理解されるべきであると考えるようになった。自然としての魂に従って、法律=ノモスが制定される。

魂の理知的部分—より本質的には善のイデア—を根源として、そこから世界の全てを組み立てるプラトンの思想は、西洋哲学史の原点にして、まさに範型=イデアとなった。

<参照>
柘植(2016)、9頁。


芸術批判/詩人追放論

プラトンは『国家』の第10巻において、理想の国家建設のためには芸術家を追放しなければならないと主張した。

その主張の根拠は、芸術制作の観点とその鑑賞の観点から与えられる。

まず、芸術制作の観点からの批判を見ていこう。
プラトンは、家具職人の技術(ars)は存在論的に画家の芸術(ars)よりも優れていると指摘する。というのも、家具職人は寝台を作るにあたって寝台のイデアを模倣しているのだが、画家の方は寝台を描くことで、イデアの模倣たる寝台の模倣を行っている。
したがって、芸術家の制作したものは、家具職人が作ったものよりもイデアから遠ざかってしまう。

また、芸術家たちは、物事の類似物を作るだけであり、自分達が描くところのものを知ることはない。イデアから最も遠く離れ、それについての知からも離れる芸術家をプラトンは痛烈に批判している。

他方で、芸術の鑑賞についてもプラトンは批判的見解を提示する。というのも、芸術はその観客を外的な見かけだけで満足させ、真実から遠ざけるからである。

模倣描写=イデアの模倣の模倣としての芸術は魂の最も非合理的な部分を刺激し、本来ならそれを干からびさせるべきであるのに、そこに養分や水を与えてしまう。

以上の理由から、プラトンは理想の国家建設における芸術家追放を訴えている。

<参照>
ユゴン(2015)、31-32頁。


文献情報

  • 今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、57-82頁。

  • 熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、77-96頁。

  • 柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、3-12頁。

  • フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、13-24頁。

  • ユゴン、カロル・タロン(2015)『美学への手引き』、白水社、16-33頁。


アリストテレス

実体

アリストテレスは、実体(存在するもの)という言葉を3つに分類している。

1つ目は、真なる実体としての個物である。個物は質料と形相の合成物であり、命題としては主語となって述語とならないものである(例:任意のある馬)。

2つ目は、その個物の中にある類である(例:「馬」)。

3つ目は、命題の述語—主語である個物の普遍的本質——となる10のカテゴリである(実体
質・量・能動・受動・場所・時間・関係・位置・状態)。

<参照>
今道(1987)、85-86頁。


四原因説

生成変化する自然的な実在は、形相と質料の複合体であるとアリストテレスは言う。

この性質は、芸術制作において如実に現れる。
芸術制作は事実と原理を前提にして、それゆえ自然を模倣するものでなければならない。

一つのヘルメス像は、質料(大理石)、形相(ヘルメス神の形相)、目的因(ヘルメス神の表現)、動力員(彫刻家)という4つの原因によって作られている。芸術作品と自然的実在の違いは、後者は運動の原理を内在させている点にある。
(アリストテレスの存在論は、運動論であり、力学的である)。

<参照>
フォルシェー(2011)、26頁。


不動の動者としての神

アリストテレスは、『形而上学』において第一実体(=個物としての実体)はそれを第一実体たらしめる<本質>、<形相>であると論じた。

さらに、本書で展開された<第一哲学>(「存在としての存在」の学)は、自然界の実体と天界の実体とが共に依存する究極的な原理・原因である<第一実体>=不動の動者を定立する。これが<純粋永遠のエネルゲイア>としての神であり、この神が<いま・ここ>の現実を根拠づける。

それぞれが実体と呼ばれるが、最高の存在は純粋形相としての神である。
<参照>
今井知正(1998)、670頁。


可能態/現実態/完全現実態

アリストテレスは、事物は可能的なものから現実的なものに進んでいくと指摘する。

種子という可能的なもの(可能態)が芽に進展する。このとき、種子から見れば芽は現実態になっている。

さらに進んでいって、木に実が実っているときに、本当に、完全な現実態になる(完全現実態)。

<参照>
熊野(2005)、106頁。


究極の目的としての幸福

完全に分離された、到達不可能な《善》それ自体を打ち立てたプラトンとは違い、アリストテレスはあらゆる善を何らかの目的として定義する。どんな行為にせよ、目的に適うことが善になる。

善は、それ自体目的でありつつ別の目的にとっての手段となるような相対的目的もあれば、決して手段になりえない絶対的目的もある。人間にとっての絶対的目的とは《幸福》である。

《幸福》という絶対的善の状態は、習慣によって獲得される。理性によって自らを導き、徳ある人間となることによって。

<参照>
フォルシェー(2011)、29-30頁。


人間にとっての幸福とは、人間に特有な性質を十全に発揮することであり、すなわち知性の完全なる発揮である。

別な言い方をすれば、エートス(何かに優れていること、卓越している点)に基づいた魂の活動が善である。
徳は思考に関する徳と性格に関する徳があり、徳に基づく行為はこの両者を必要とする。すなわち、正しい理法を知っており、それに従う性質・性向があって初めて幸福となれる。

<参照>
柘植(2016)、16頁。


中庸

アリストテレスは、どんな行為を取るにせよ、超過や不足をさけた「中庸」を目指すべきであると主張した。

例えば、性格に関わる徳の一つに「温厚」がある。温厚とは、理に従って、然るべき対象に然るべき仕方で怒る性格である。何が「然るべき」であるかはケースバイケースだが、このような仕方で然るべき「中庸」=中間を見定めて行為することが重要である。

<参照>
柘植(2016)、17-18頁。


正義

アリストテレスにおける「正義」は、広義の正義と固有な意味における正義に分けられる。

広義の正義とは、法に従うことである。

固有な意味での正義とは、個人の性格に関わる徳の一つである。個人の正義とは、他者との相互関係において、等しいものを自分と他者に配分する状態であり、自分には多く、あるいは少なくといった超過と不足を避けた適切な状態である。

ここでは2種類の配分が想定されている。1つは富や名誉など望ましいものの平等な配分(配分的正義)であり、もう1つは損害など望まれざるものの適切な配分(裁判を行うことで、加害者と被害者の利益配分を均等にすること=是正的正義)である。

ちなみに、誰に対しても同じものを平等に配分することが正義であるわけではない。これは物の交換において顕著である。例えば、家職人と靴職人との間の家と靴の公平な取引は、家職人が必要なものとして受け取るものと同じ価値のものを、靴職人が受け取った時に成立する。重要なのは物質ではなく価値の交換の公平性なのである。

<参照>
柘植(2016)、19-20頁。


詩学/ミーメーシス

アリストテレスは『詩学』の中で、プラトンが「模倣芸術」と断じた描写芸術(ミーメーシス)について論じているが、この「ミーメーシス」という言葉は、プラトンと違って否定的な意味を持たない。

そこには2つの理由がある。1つには、アリストテレスの形而上学がプラトンと違って感覚への敵意を含んでおらず、それゆえに感覚の世界の模倣が否定的な意味を持たないということがある。

そしてもう1つには、ミーメーシスという行為が現実に対して隷属的な意味を持たないということがある。模倣は確かに現実的なものに依拠しはするが、それは新しいものを生み出すためである。新しいものとは、架空の存在である。ミーメーシスは「可能なもの」を扱うのであって、「存在しているもの」を扱うのではない。ミーメーシスが模倣するのは、自然における事物の制作過程(※四原因説を参照)であり、自然の事物それ自体ではないのである。

自然において事物が制作されるのと同じように創作するにあたって、アリストテレスは悲劇を題材にして、創作者が意識すべき点をいくつか挙げている。まず、安易に驚かせることや、あり得ないような飛躍を用いないこと。筋を統一すること。比喩などの表現を使って力強い言葉遣いをすること。こうした点への配慮によって、悲劇の登場人物たちは生き生きとした自然なる雰囲気を醸し出すようになる。

またアリストテレスの分析は、鑑賞者の快の感情をも射程に含んでいる。

まず、模倣描写そのものによって得られる快がある。しかしそれだけでなく、演じられているさまざまな感情を自ら感じ、そのこと自体を通じてそれらの感情から自分を浄化するという複雑な快もある。

悲劇は観客と悲痛な出来事との間に虚構という距離を設ける。この虚構性が感情の浄化の源になるとアリストテレスは指摘している。悲痛な感情を、それを生み出すものに対して虚構としての距離を置きながら経験すること、それは激情を通常の仕方で経験するのではなく、純化された仕方で経験することである。そしてこの通常の感情を転化すること自体によって、悲劇の快(浄化作用、カタルシス)が生まれるのである。

<参照>
ユゴン(2015)、34-37頁。

文献情報

  • 今井知正(1998)「実体」『岩波哲学・思想事典』、廣松渉ほか編、岩波書店、670頁。

  • 今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、83-92頁。

  • 熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、98-116頁。

  • 柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、13-22頁。

  • フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、24-31頁。

  • ユゴン、カロル・タロン(2015)『美学への手引き』、白水社、33-38頁。


アウグスティヌス

「君自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている」

人は真理を求め、真理を愛する。この人間の内面性のうちに、確実なもの、真なるもの、そして神への通路が開かれている。

内面性と言っても、それは身体的感覚のことではない。身体的感覚は確かに外部に存在するものについて何事かを伝達するが、それが真なる内容を伝えるとは限らない。
真の正しさを知っているのは人間理性である。人間の理性が、身体的な感覚に頼らず、自ら「永遠で不変なもの」を発見するとき、理性は自分よりはるかに優れたもの、「神」を見出すのである。

もちろん、人間の理性、精神それ自体は完全なものではあり得ない。だが私がもし、自らのうちに「より完全なものの観念 idea entis perfectioris」を有していなければ、私はどうして自分が不完全なものであることを知り得ただろうか。
有限で不完全な理性の内部で完全なものが、相対的なものの只中で絶対的なものが、内在のうちで超越的なものが、内面において神という絶対的な外部性が出逢われる。だから、「外に出てゆかず、君自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている」とアウグスティヌスは語っている。

<参照>
熊野(2005)、172-181頁。


内的な時間

アウグスティヌスは、時間は外的に存在するものではなく、私の意識に対して現れてくるものであると論じた。すなわち、過去は記憶の中で、現在は直観の中で、そして未来は期待として、それぞれ示される。

とはいえ彼は、時間の客観性を否定してしまったわけではない。そうではなく、意識という主観性の中に現れる時間の客観性を示している。
記憶として現れる過去は、「〜〜であった」という命題形式で表現される。同じように、現在は「〜〜である」、未来は「〜〜だろう」として表される。だとすれば、過去は必然性/偶然性を、現在は存在/非存在を、未来は可能性/不可能性を表す命題として、つまり様相を示す命題として記述できることになる。こう考えると、時間を単なる意識の内容としてだけでなく、命題の様相の範疇として捉えることができる。

また、こうした過去・現在・未来と流れていく時間は人間に特有のものである。私の生は、秩序を知らない時間のうちに分散しているが、分散し、過ぎ去り、現在において散り散りだるような存在が、自分自身によって支えられているはずがない。私の存在はむしろ、神によって支えられている。神の永遠のうちでは、限りある生も過ぎ去らない。「神は全体として遍在する」。全体が現在である神の永遠のうちで、私の生も過ぎ去ることがない。私の生の全体は、神に対してのみ現前する。

<参照>

  • 今道(1987)、143-144頁。

    • 特に時間の客観性についての部分で参照した。

  • 熊野(2005)、181-184頁。


神の国

人間を含め全ての被造物は、自らの存在の根拠を神に負う。神の意志の結果として無から存在の次元へと至らしめられたがゆえに、善きものとして存在する。

存在するものは、存在する限りにおいて全て善である。それゆえ、悪は固有な実体・原理として存在するのではなく、善が欠如した状態として存在する。

では、悪はなぜ存在するのか。アウグスティヌスは悪の根源を、人間の内面=自由意志の中に見ている。

私たちは神の被造物であるという性質上、自然に善を求める。しかしこの自由意志は時に傲慢になる—つまり創造主たる神の意志に叛く—ので、本来望むべきでないはずの悪を欲求してしまう。意志が「欲望」に仕える転倒が発生し、善を欲しているのに悪行をなすという矛盾を成してしまう。

人間は自由な存在であるが故に、欲すべきでない悪を為してしまうという悪への可能性にも常にさらされている。だからこそアウグスティヌスは、「自己以外のものからの照明なくしては自己は救われ得ない」という確信を心に刻み込んでいく。

人間は神からの恩寵を受け、キリストを信仰し、神を「享受」(=あるものにひたすらそれ自身のためによりすがること)することを通して、初めて悪のない境地へと至る。

アウグスティヌスは、神への信仰と人間の傲慢な自由意志との対立を人類史全体に拡張させている。曰く、人類史は信仰者たちの「神の国」と、人間を至上目的とする「地の国」との対立の歴史である。

アウグスティヌスは、神により善く応答していった者たちの集まりである教会こそが「神の国」の担い手であると主張し、国家に対する教会の優位性を説いた。

<参照>
柘植(2016)、29-36頁。


文献情報

  • 今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、138-148頁。

  • 熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、166-184頁。

  • 柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、27-36頁。


トマス=アクィナス


神の存在証明の5つの道

「神が存在する」という命題は、それ自体としては自明である。しかし私たちの認識にとってはそうではない。人間は、可感的なものを通じて可知的なものに至る。従って神の存在についても、経験的諸事実から出発して論証される必要がある。

神の存在は、以下の5つの道によって証明される。

1.「運動の道」
世界には運動するものが存在する。運動するものは全て他のものによって運動する。その秩序を無限に辿っていくことはできない。他の何物によっても動かされない「第一の動者」が存在する。人々はこれを神と呼ぶ。

2.「始動因の道」
世界には始動因の秩序がある。この秩序を無限に遡行することはできない。それゆえ、第一の始動因としての神が存在する。

3.「必然性の道」
諸事物の中には、存在することもしないことも可能なものが存在する。このようなものは、「存在していない」ときを有するが、その際何物も存在していなかったとすれば、今は何も存在していないはずである。しかしそうなってはいないので、全てが可能的なものなのではなく、諸事物の中に、何か必然的なものが存在しなければならない。

必然的なものは、それ自体において必然的であるか、他のものによって必然的になっているかのいずれかである。後者の場合、その系列を無限に遡行することは不可能である。従って、「それ自身として必然的にあるもの」が存在しなければならない。人はそれを神と呼ぶ。

4.「存在の完全性の道」
世界の中には、より多く(あるいは少なく)善なるもの、真なるものが存在する。「より」とは、最大限との隔たりを表す。だとすれば、万物の存在と善の基準となる、「最大限」の完全性の原因となる神が存在する。

5. 「目的因の道」
全ての自然物が合目的的に運動する。全ての自然物がそれによって目的に秩序づけられる、知性的なあるものが存在する。

<参照>
熊野(2005)、225-229頁。


存在の類比

神の存在証明の第三の道は、世界の存在と、その偶然性という本質と、神の本質である必然性が前提となった上で、神の存在が導出されている。つまり、世界の存在と世界の本質との関係と、神の存在と神の本質との関係が比例関係として想定されている(「存在の類比」)。

神は経験的な地平から出発して、その結果から存在が証明される。世界から神の存在へ到達することは、類比的関係の想定によって可能である。
けれども他方、神と世界は断絶している。神は創造主であり、世界は被造物だからである。神と被造物との間には、存在論的に究極の差異がある。

だから、「神と被造物については、あるものが同名同義的に述語されることが不可能である」。例えば神について「知恵あるもの」と語られる時、それは人間について同じ語が語られるのと等しくない。神についての語りは、「表示されているもの」—ここでは「知恵あるもの」—を超えたものとして語られる。その点でトマスは否定神学を受け入れている。

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