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踊り手の存在論ー世界の中に存在しつつ世界を始め直すことー

衝撃から始まった。文字通りの意味での衝撃である。

存在が踏み鳴らされている。その事実の衝撃が耳をつんざく。
そこでは、存在の音が音楽の中にありつつ、同時に存在の音が音楽を作り直していた。

踊り手の存在をめぐるこの二重性は、この舞台の装置に関係している。

舞台のライトが当たる部分に踊り手がいる。舞台の袖にギタリストと歌い手がいる。
視覚的に捉えれば、光の当たる場所(前景)に踊り手がいて、バックグラウンド(後景)をギターとボーカルが支えていることになる。

私たちがYouTubeやInstagramで見るようなダンスであれば、踊り手は音楽の中にあるが、音楽自体を作っているわけではない。スマホの画面の中で、踊り手たちは、バックグラウンドで流れる音楽の世界観の中で踊っている。あるいは、そのように踊れるように努力している。

ところが、今ここで踏み鳴らしているフラメンコの踊り手たちはそうではない。
フラメンコの踊り手は、音楽が織りなす世界観の中にありながらも、同時にその音楽自体を自らの手で作り直している。普通のダンスでは前景化されない足音が、時に中心的に音楽=世界を創出している。

フラメンコという踊りが、人間の生に対する祝福・祝祭としての意味を持つのであれば、世界の中にある足音が世界を創出しているという出来事に、私たちは極めて重要な価値を見出すことができる。

足音の鳴り方は、人の立ち方と踏み締める場の様式によって規定されている。より日常的な生に近い言い方をすれば、今存在しているその世界においての立ち方・姿勢が、足音として現象する。

この世界において立つこと、大地を踏み鳴らすこと。ここには存在論的に重要な意味がある。不動のように思える大地に立つ/大地を踏み締めることによって、大地=世界が自分を中心に反響音を鳴らす。その反響の中に、大地=世界における、他ならぬこの自分に固有な場を聴きとることができる。

舞台に立つこと。その大地=世界を踏み鳴らすこと。自らに固有な音をそこに反響させながら、世界と調律すること。フラメンコの舞踊は、この世界に人間として生きることに他ならない。


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