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『歴史の概念について』(ベンヤミン)原書解読


なんで翻訳するのか


私はまだドイツ語の入門書を一通り読み終えた程度のドイツ語入門者だが、ベンヤミンの『歴史の概念について』の原典購読会に参加している。

正直、一文の意味を取るのに、普通に10分〜15分程度はかかる。4行以上に渡るような長文だと、30分くらいはザラに掛かる。

それでもベンヤミンの論文は比較的短いので、なんとか心折れることなく読むことができている。

それにしても僕たちは、DeepLやChatGPTなどの生成AIによる翻訳技術が高度に発達した時代で、それでもなお自分の手で翻訳しようとするのか。

それはきっと、翻訳という<体験>を手に入れたいからだ。

ベンヤミンのドイツ語を、一つひとつ丁寧に私の日本語へと落とし込んでいく。アルファベットの羅列だったものが、読まれ、発話され、書かれながら、私の中で少しずつ何らかの意味を成していく。

もちろん、全ての工程がすんなり行く訳ではない。辞書を引いて単語の意味はわかっても、構文が取れないこともあるし、イディオムや定型表現に気づかず不自然な日本語になることもある。

原語を母語へ落とし込もうとして、すんなり腑に落ちたり、喉につっかえたり、味がしなかったり、飲み込んだはずが逆流してきたりする。その<体験>全てが翻訳である。

翻訳された言葉は、身体の隅々に根付く。翻訳は全身運動だからだ……目で見てサッと読めるWeb記事と違って、翻訳は目や耳、手、さらには鼻(辞書にある言葉、ノートに書き出した言葉を、ときどき嗅いでみたりする)や足(歩きながら、踊りながら、スクワットしながらベンヤミンを読むこともある)まで使う。

身体に染み込んだ言葉は、私の言語世界のみならず、知的想像力をも拡張してくれる。一つの情況を表現する言葉は、多ければ多いほど良い。その分深く、今生きているこの世界に感動できる。感謝できる。生が生気で満たされる。この<体験>は何物にも代え難い。

というわけで僕は、この<体験>を少しずつ語ってみようと思う。翻訳という<体験>がどのように身体的であるのか、少しでも感じてもらえれば幸いである。

ベンヤミン『歴史の哲学について』

11章(突然11章から始まって申し訳ない。しかも途中から始まる。)

Mit dieser positivistischen Konzeption verglichen erweisen die Phantastereien, die so viel Stoff zur Verspottung eines Fourier gegeben haben, ihren überraschend gesunden Sinn.
この
実証主義的な構想
と、比べれば、
フーリエの空想は、

フーリエは嘲笑の素材にされてきた。
彼のはるかに健康的な意味
を、示す/証明する

→この実証主義的な構想と比べれば、フーリエの空想は、たくさんの人の嘲笑の素材にされてきたが、はるかに健康的な意義を示している。
(erweisenは現在形で良いのか? 動詞であるverglichenとerweisenが連続しているのは誤植?)


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