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落語好きなわたしが推すカッコイイ女性のnote. #1



『生命の重さとその温もりを、身を持って知っている女性』


女性の強さは、美しい。

そう思わせてくれるひとり目の女性のはなし。


彼女とは多くを交わしたことはないのだが、彼女のプロフィールを初めて拝読したときになんとも言えない気持ちになった。

「世の中の医療従事者が、皆彼女のような心持ちであれば、どれだけ多くの人々が救われるだろう」と。

“救われる”のは肉体に限ったことではなく、そこに持ち合わせる魂にも言えることだと思う。

「あぁ。最期に手を差し伸べてくれたのが、あなたで本当に良かった」

彼女はきっと、今までにも多くの人々に感謝されてきただろう。多くの患者と多くの遺族の気持ちや魂を大きく救ってきたのではないだろうか。

そして、これからも多くの出会いと別れの場に立ち会うのだろう。そのいくつもの重ねる経験の中で、彼女自身の人生の厚みも増してゆき、より一層人間としての魅力に磨きがかかるのだろう。

まだ彼女自身若いのだが、彼女はうまれながらに自分自身が『人の生死に関わる仕事』に就くことをわかっていたのかもしれない。




私の祖父が病室のベッドの上で生き絶えたとき、私の母は悔し涙を浮かべて「ぞんざいに扱われた」と呟いたことがあった。

それから、20年以上の時を経て、先月祖母が他界した。

私は母がまた同じ“つぶやき”で母自身の胸を痛めないことを願った。

「助かると言われていたのに・・・!どうしても納得できない。酷い」

と、やはり母は自らの言葉で自らを傷つけた。

わたしは娘として、母に冷たいのかもしれない。

ただ、人には“決められた時間”があるような気がしてならないし、長く生きることだけが美徳とも思えない自分がいる。

実母が亡くなったという事実は当然のように悲しい。それは、実母を亡くしたことがないわたしにだって、どれだけの深い悲しみかは想像がつく。

しかしながら、90歳の、しかも誰かの手が必要なほどに完全には健康ではなかった祖母の延命を望むことは、祖母自身にとっても周りの者にとっても幸せなことなのだろうか。

非常に難しい問題であり、ひとつの答えにはなかなか辿り着けないだろう。正解は各々の価値観に寄るのだから。

わたしは、祖父の時も、祖母の時も本当の意味での最期の現場を看取ることはできなかった。

しかしながら、医療従事者の方々に不備があったとは思えないのだ。お医者様も看護師さんも、全力を尽くしてくださったことだろう。

毎日たくさんの臨床現場や死に際に立ち会わなくてはならない医療従事者からすれば、我が祖父母の死は慣れている日常の光景に過ぎないだろう。

もちろん、お医者様も看護師さんもひとりの生命の重さを軽んじてなんかいないだろう。

が。

あまりにも日常に張り付きすぎたその陳腐な光景を目の当たりにして、今更のように新鮮な気持ちで触れることなどできないものだから、遺族にはその姿が冷たく映ってしまうのかもしれない。

悼んでいるつもりでも、そう見られないということ自体が、医療従事者の辛さではないだろうか。

母は非常に感情的に弱い。

とても優しくて情に厚い反面、すぐに誰かを気の毒がったり、悲しくなったりと、女性特有の感情に振りまわされやすいところがある。

そういう人間の、身内の死に直面したときの遣る瀬無さというのは、医療従事者への八つ当たりに転換しやすいのだと思う。

お医者様も遺族も双方に気の毒だ。




だからこそ、そんな場面にこそ、memeさんのような心ある、人の生命の重さを知っているような人が居て欲しいと思う。

医療の現場にこそ、彼女のような人が必要なのだ。

彼女の存在がこれからも多くの人間の心を癒してゆくだろう。

そんな素敵な女性、memeさんのnote.

みなさんもご堪能あれ☆








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