Neti Neti 瞑想はそれではなく、それでもない
なぜ瞑想入門講座を始めたのか
昨日、瞑想入門講座のことを書いた。
2020年にオンラインで瞑想の講座と瞑想会を始めたのにはわけ(目的)がある。
(俗に思われている)瞑想というものが、
しかめっつらをして苦行するようなものと思われていたり、
リラクゼーション法やビジネススキル、ライフハックのように思われていたり、
クンダリーニがどうとか、宇宙がどうとかとスピリチュアル系に思われていたり、
そして、売られていたりするのが加速していて、むずむずしちゃったからだ。そうではないと伝えたかったからだ。
それらが良いとか悪いとかではない。
むしろ、必要な面もあるだろう。
目的がわかっていて、自分がやっている(売っている)ものがどこの部分をやっているのか、ウソがなく、適切な範囲を扱っているならば。
少なくともプロバイダー側の人たちが。
現状は、そうでもない。なかった。
コロナ禍のステイホームで何かを求める人たちがたくさんいて(私自身も)、瞑想の機会もたくさん売られていたのだけれど、それでかえってみょうな方向に「瞑想ってこんなもん」が広がっているようだった。
瞑想会をして質問を受ける時間、ずーっとそんなお話を聞くことになった。
瞑想(瞑想トレーニング)は、「苦」を離れるためのお稽古で、それ以上でもそれ以下でもない。本来のところは。
それ以上に何かが要るんだろうか。生きる上では。
瞑想に苦しんでひっくり返るまで
私自身は30数年前に瞑想に出会った。その前にも40数年前から短い座禅の体験はあったけれど、瞑想として出会ったのは30代のその頃だった。
それから様々な瞑想(瞑想トレーニング)の体験があり、上に書いた、俗に思われているような瞑想についての思いや迷いや渇望やをさんざん経て、途中では仏教学の大学にも行ったりもして(中退して)、ろくでもない遍歴を経てきた。
あまりにもろくでもなくて(何かマシな者、マシな境地を追い求めすぎて)、挙句に、ああそうか、とひっくり返る体験があった。
結果として瞑想に援けられ、ろくでもないままだけれど平気で(?)生きて来ることができたと思う。
そのひっくり返りは、論理的に記述できるようなことではなくて、黙るしかない。
なぜヴィパッサナーか
OSHOのアクティブ瞑想の極もさんざんやった。
瞑想(瞑想トレーニング)の方法は、その人に合えばどーでもよくて、アクティブ瞑想が必須だとは思わない。
逆に、講座で取り上げているヴィパッサナーが必須だとも思わない。
オンラインで、家でトライしやすくて、「瞑想」のイメージの基本になっていて、そして、誤解の多いもの。そのひとつがヴィパッサナーだと思ったので、これを入門講座の実技に取り上げた。
呼吸を観る、のだけれど、だれも、呼吸に集中しなさい、とも、呼吸だけを観なさい、とも言ってはいない。(そんなガイダンスもあるのかしら)
私は最初のころ、某仏教系の瞑想会や、某10日間サイレントの合宿でもヴィパッサナーをやって、そのあたりも誤解してがんばった(瞑想をがんばるなんてそもそもヘンなんだけれど)。
瞑想が上達したらジンセイが変わるはずなのに雑念だらけで私にはまだできていない、もっと、もっと、なんて苦しんでさらにがんばった記憶がある(今ではよく思い出せない)。
そうじゃない。瞑想はそれではない。
そんなことだけでも、手渡せたら。
瞑想に苦しむ人にも、瞑想がリラクゼーションや集中法やスピ系のように感じている人にも。
入口から先へ歩むのか
講座を受けた人の多くは、「瞑想ってこれでいいんですね」「できそう」「気持ちが楽になった」とほっとした表情をされる。入門講座としては、そんな入口を手渡せたら目的を果たせているのではないだろうか。
ぬきさしならない、やりきれない「苦」にまみえて手持ちの方法では離れがたくなったとき、瞑想(瞑想トレーニング)がその援けになるかには、その先が要る。その他も要るかもしれない。ただ、誤解された瞑想(ぽいもの)には、そのちからもない。
入門から先に歩いて行くか、“いいかんじ”でとどまるかは、その人の機縁によるのだろう。
そこにはたらきかける何か、は要るのかもしれない。
身体のことと瞑想のことは、ことばにするべきこと(したいこと)、はたらくべきこと(したいこと)がまだまだたくさんありそうだ。
ヴィパサナについて、瞑想について、こちらも↓
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