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『だくだく』を考える

『だくだく』は落語の一つ。店賃を溜めて長屋を出された八五郎は、新たな長屋を借りたが家財道具はなにもなし。知り合いの「先生」に、壁に家財道具の絵を描いてほしいとお願いをする。部屋中の壁という壁に紙を貼って、ここに八五郎の指示で先生が箪笥や金庫などを描いていく。
さて、出来上がった絵に満足して八五郎が寝てしまうと、近眼の泥棒が絵の家財道具を実際にあるものと勘違いをして、押入って……という噺。
私がこの噺をかけたときにどのような人物造形をして噺を組み立てたか、ちょっと書いてみたくなったので、よかったらお付き合いください。

『だくだく』における八五郎という男

八五郎は落語の中では「ガラッ八」といわれるように、ガサツであけすけ、悪意はないが口が軽く、粗忽者という人物。だけど、この『だくだく』においてはちょっと違った面も加味されなければならない。もし、八五郎をそのまま『だくだく』の世界に連れてきたら、先生に家財道具の絵を頼むことはなさそうだし、描いているのを見たら「こんな腹の足しにもならねぇことしたって仕方ねぇ」と、かえって先生に絵にイチャモンをつけそうだ。
だが『だくだく』では、先生に悪態つきながらも家財道具の絵を頼んで描いてもらっている。その時に八五郎は性分として「気で気を養う」「絵でも『ある』と思うとそれだけで楽しくなる」と語る。この言葉を演者が「先生に絵を描かせる方便」と捉えるか、「描いてあれば本気で満足する」と捉えるかで、噺がだいぶ変わってくる。私は後者と捉え、妄想がどんどん加速して暴走していく方が今の時流には合った噺になる。
そして、家財道具の絵で満足するほど「妄想癖」がある八五郎は、「モノに詳しい」ほうがよい。モノを知らなければ妄想などできるものではないし、そのモノを細かく言語化出来たほうが妄想も膨らみ、雰囲気が出る。だからといって、八五郎がこの噺の中で蘊蓄を語る必要はなく、使っている素材だとか、形はこんなものだとか、「先生」が面倒くさがるほどの注文の細かさがあれば、八五郎の「家財道具を描くだけで本気で満足する」変わった気性であることを際立たせる表現となるだろう。

「先生」とは何者か

この噺で絵を描いてくれる「先生」は何者なのか。「先生」というからには何らかの知識を誰かに与える人であり、落語の中では「寺子屋の先生」「剣術の先生」あたりを「先生」と呼び習わす。ただし、稽古事の教える人は「先生」と呼ばず「師匠」「お師匠さん」というから、「教える人」であっても限られた人しか「先生」とは呼ばれることはない。「絵描きの先生」として演じられる場合もあるが、おそらく『だくだく』の「先生」は、剣術の先生ながら、絵も玄人はだしというラインが良さそうだ。そうでないと、壁に絵を描いてもらっているときに八五郎が吐く言葉が、プロに対するただただ失礼な発言にしか聞こえなくなってしまう。
とはいえ、それをどうやってお客に知らせるか。噺の中に説明台詞を入れるのは、あまり好きではないし、野暮ったくなる。それなので、アイテムとして「長押に描く槍」を利用してみた。八五郎に言われるがまま描いていた家財道具だが、「長押に槍を描いてもらいたい」と言われ、「要らんだろう」と言いつつも、むちゃくちゃディティールを細かく描きこんだ上、槍の扱いをレクチャーすることで、「この人は侍なんだな」と分からせる。あとは端々に侍らしさを形でみせるのが良いだろう。


ただの間抜けで終わらせない

ここに出てくるもう一人の人物、泥棒。
泥棒は「近眼で老眼で、乱視があって、鳥目。最近は目が霞む」と、とにかく目が悪いことを強調する。いくら先生が絵がうまいとはいえ、壁に描かれた絵を本物と見間違えて押し入ってくるなど、簡単に騙されるものではない。そこのために目の悪さを並び立てるのだが、一つ二つではなく、これでもかと見間違える理由を挙げなければならない。多いほうが面白さが出る、も理由ではあるが、お客に対する気遣いでもある。おそらく、近眼で老眼で乱視があるくらいのお客は(演者であった私がそうなのだから)いる。でも、そこにいくつかの要因を足すことで、架空の人物感をさらに強調する。「あるある」感と「突拍子のなさ」のハイブリッドだ。
また泥棒をただの間抜けとして演じ、盗み出せない腹いせに盗んだ「つもり」になってポーズを取らせるのでは、この噺本来の面白みが薄くなる。この泥棒は八五郎の妄想に「一本取られた」と悔しく思っていて、そっちがそうくるならこっちはその妄想に付き合ってやろうという「根っからの洒落者」な訳だ。「つもり」には「つもり」で返してやれ!とばかりに、次々とモノを盗んでいく(つもり)。だから八五郎も「つもりとはいえ、と盗まれるのは悔しい」と思い、ありもしない長押の槍で泥棒を刺したつもりになるまでエスカレートしていく。

まぁ、ここで泥棒が「刺されたつもり」になるけれど、私はここでいつもひっかかる。この盗んでいるシーンは泥棒の妄想。そこに寝起きの八五郎がまさに横槍をいれる形で割り込んできたのに、脇腹を突かれたことをすんなり理解してしまうのはどうかと思う。ここはビックリして、顔を見合わせ、八五郎の台詞から状況を把握して、はじめて脇腹の槍を認識する、のほうが自然だと思うが、どうだろうか。

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