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解答編 #呑みながら書きました

 呑み書きをお楽しみの皆さんこんばんは。後夜祭枠に昨日のやつの解答編を投下しますね。

 もう16回目ということでマリナさんいつもありがとうございます。もはや僕はこのためのnoteをやっていると言っても過言ではない状態。今回本妻に出したいや本祭よ、あれはいろんな意図の都合上で挨拶みたいなの諸裏役いや少r百省略したんで改めて。

 本祭に出したやつご覧いただけましたでしょうか。

 問題です。国語の問題風にしてあるわけですが、難問だらけなわけですね。note書いている人というのはおそらく国語に強い人、国語の成績が良い人あるいは良かった人が多いんではないかと思うわけですが、そういう国語の優秀な人でも、この問題さくっと解けないでしょう。というよりむしろ、国語が得意な人ほど答えが出ないんではないかと思う。

 僕は5〜6年前に小説を書き始めあちこちにいろんなものを書いてきたわけですが、アマチュア小説の周辺にいるといろいろと「小説の書き方」に関するあれこれが聞こえてくるわけですね。その大半が、まったく同意できない話なわけです。アホかなと思うような言説が満載。いくつもの同意できないノウハウがあるわけですが、その中で今回は「会話文と地の文のバランス」について取り上げました。

 会話文と地の文のバランスはどの程度がいいか、という議論が、それなりの頻度で聞こえてくるわけです。アマチュア小説界隈のあれこれを御存じない方にしてみればそれ事態が奇異なことに聞こえることでしょう。正直なところ、クソどうでもいい。

 そもそも会話文ってなんですかね。会話は改行してカギカッコを開き、ある人の話した言葉を書いてカッコを閉じる。話し手が交代したら改行してまたカッコを開き、その人の言葉を書いてカッコを閉じる。閉じカッコの前の句点は書かない。

 それは小学校の作文で習うごく基本のルールなわけですね。世に出ている小説の大部分で、このルールは守られていない。会話文に入っても改行しないものもあるし、複数の人物のセリフが改行なしでカッコだけで区切られて書かれているものもあるし、そもそもカギカッコを書かないものもある。閉じかっこ前の句点を書くケースもある。基本的な文章のルールはあれど、小説はそれをすべて守らねばならんというような次元にはない。

 ここから翻って今回の呑み書き作品「問題」をご覧いただけると嬉しい。以下の小説を読んで後の問に答えよ、とあり、小説とされているものが始まる。この文章は読点を打たなかった。読点は読みやすさのために打ったほうが良いとされているが、読点の打ち方に完璧なルールはない。読みやすいように、という極めて主観的な指針があるだけ。更に小説であればなおさら、ルールなど無い。アホほど読点を打ちまくっても良いし、まったくなくても良い。この問題として出されている小説には読点がなく、カギカッコもない。しかし明らかに会話を描いてはいて、登場人物の話した言葉らしきものが書かれている。

 さて、この文章の会話文と地の文のバランスはどうなっているのでしょう。会話文と地の文の定義がそもそもはっきりしないのに、そのバランスを云々することの滑稽さといったら無い。つまり問1の答えは、「解釈による」。

 問2は読点の問題。「打ったほうが良いか」のアホさ加減がすごい。作者が打たなかったのだから打たないのが正解であってその他はありえない。たとえばダヴィンチのモナリザの目にハイライトを入れたほうが良いか、という問になんと答えるのか。ハイライトを入れたほうが生き生きするかもしれないが作者が入れなかったのであれば入れないのが正解である。そういう表現だからである。読点を入れないのは作者の意図であり、それによって読みづらいのであればそれによって何かを感じさせるのが意図である。それを面白いと感じるかどうかは読者の自由だが、読点を「打つべき」というのは余計なお世話でしかない。小説という文芸において読みやすさは単に要素の一つにすぎず、必ず実装しなければならないものではない。小説は読みやすくなければならない、と思っている人がもしいるのであれば、もう少しいろんな小説を読んでみなさいとだけ伝えたい。

 問3。作者の言いたいことはなにか。はっきり言ってそんなことはどうでもいい。作者の言いたいことよりもあなたが何を感じたのかが重要。何も感じないとしたら作者としては残念ではあるが致し方ない。この問に「私は酔っ払っている」と回答してくれた人がいたのだが素晴らしい答えだと思う。すなわちこの問への回答は何でも正解。あなたが「作者の言いたいことはこれだろう」と思ったものはすべて正解である。これは誰のどんな小説を読んでいるときにも当てはまる。

 問4。最初の一文を抜き出せ。これにどう回答するかで、その人がこの小説をどのように読んだのかがわかる。「以下の小説を読んで後の問に答えよ。」を抜き出した人は冒頭から問まですべてが小説作品であると解釈したのであろう。「しからばそれがしは」からの一文を回答した人は「以下の小説」が指している部分を小説と解釈し、それ以外の部分は「問題文」であると解釈したのであろう。無論、どちらでも良い。この問の答えも「解釈による」。

 問5。ということはつまりこの問の答えも解釈による。ただこういう文は難しい。自己言及だからである。この文章は小説であると小説の中に書いてあった場合、そこにメタ構造が生まれ、非常に複雑な解釈のループが始まることになる。問4にもこの自己言及構造が顔を出しかけているのだが問5は更に顕著だ。

 いかがだろうか。この解答編のタワゴトぶりもまただいぶイカれている。しかしこういうわけのわからないことをあれこれ考えながら文章を書くという行為が僕にとっての創作であり、その結果出てきた得体のしれないものが僕の小説なのだ。

 おまけとして、今回の「問題」という文章を読んで「映像化することを考えながら読んだ」という人がいたのだが非常におもしろ胃試みだと思う。胃は関係ない。
 映像化というのは近年の文芸シーンにおいて重要な要素で、映像化されることで売上が伸び、やっと商売が成立するという状況がある。文筆家はこぞって映像化を目指すようになり、いつしか「映像バエするものを書く」のが目的と化す。過去にアニメ化する小説のコンテストみたいなのに出したことがある(「シオンズゲイト」という作品、昨年の創作大賞に出したやつ)のだが、そこで審査員が「映像化することを考えてない作品が多すぎる」とコメントしていて「浅いな」と思った。

 文章作品をどうやって映像化するかは映像のクリエイターが考えるべきであり、そこに映像的挑戦を感じないような映像クリエイターは即時廃業していただきたい。映像化するために挑戦する要素があるようなものをこそこちらは書きたいと思う。映像化前提ならなおさらである。小説家が映像化のことまで考えて文章をかけばもうそれは表現の幅を狭めることにしかならない。最初から映像化しやすい原作を映像化したところで映像クリエイターの本領も発揮されず、しょーもないものができるだけだ。

 この小説をめぐる映像化の波についても異論がいろいろあるので、絶対に映像化できまいというものを書いたりもした。

 できるもんならやってみろ、という意気込みで小説を書き、映像クリエイターは「やってみせようじゃないか」と腕まくりする。それこそが健全な「映像化」ではないのかと思う。

 そんなわけで相変わらず小説の面白さを体感し続けているし、挑戦もし続けている。もはやコンテストで受賞を目指すみたいなことには一切興味がなくなってしまったが、まだ誰も見たことがないようなものを書きたいという思いはいささかも褪せていない。もはや世間はそのような文芸を求めていないが、文芸ファンの中にはそういうものを求めている人もいる。かくいう僕自身がそうだし。だからそういう人に向けて書いていこうと思っている。

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