3年前の

この時期になると思い出すことがある。何度もnoteに書こうとしてはやめていた、あのときのことだ。

私は祖父のことが好きではなかった。祖母に自分の身の回りの世話をすべてさせて、感謝の言葉1つなく「当たり前だ」と言い張る。それどころか、ひどい暴言を吐いたこともあった。足を骨折してもリハビリに励む様子はなく、とうとう祖父の日常生活は祖母と母とデイサービスに頼りきりになった。祖母と自分で努力をしようともしない祖父との言い争い、力加減の分からなくなった祖父がドアを大きな音を立てて開け閉めする音、夜中に起き上がれなくなった祖父が助けを求める声、今思い出しても少し胸が苦しくなる自分がいることに驚く。

祖父は、3年前のちょうどこの時期にコロナで亡くなった。正確な感染経路は言えないが、祖父がコロナに感染したのは家族の誰のせいでもなかった。家族みな、祖父の死に目にも亡骸にも会えず、祖父は骨になって家に帰って来た。

私は遺骨を前にして、祖父に対してあれだけ感じていた怒りも、祖父が亡くなったことに対する悲しみも、何も感じなかった。もちろん、祖父がいなければ私はこの世に存在しなかったし、大事にしてもらった思い出もない訳ではないし、それに対しては感謝している。散々迷惑を掛けられた祖母と母は、「おじいちゃんは仏様になったんだから、生きているときにどうだったかはもう関係ないよ」と言っていた。宗教的な意味ではなく、私もそうだと思ったし、今もそう思っている。

祖父がコロナに感染したとき、母と祖母もコロナに感染していた。母と祖母は軽症だったものの、念のため入院することになり、父と私は2人で自宅待機することになった。そのうち父も熱を出したため、父と私は別々に生活し、私が家事のほとんどをすることになった。1人でラーメンを作るにも、それと分からず痛みかけの野菜を使ってしまい、酸っぱいラーメンをすすりながら、自分は1人では何もできないことを知った。誰かと直接話す機会もなく、どこまでも孤独だった。

検査はできなかったものの、私も恐らくコロナに感染していた。自宅待機していたある日、薬のような強烈なにおいがするようになった。それと時を同じくして、味もほとんど感じなくなった。当時はコロナの後遺症の恐怖を煽るメディアが多く、「後遺症は治りにくい」というイメージを抱いていた。自分は一生このままなのではないかと、不安で仕方がなかった。

その状態からは回復したが、私の嗅覚と味覚は以前と異なるものになってしまった。においや味を感じにくくなってしまっただけでなく、特定の食べ物のにおいや味がダメになってしまった。一番辛かったのは、友達が「これいいにおいだよ!」とか「これおいしいよ!」とか話を振ってくれても、笑って誤魔化すしかなかったことである。3年経った今、私としては嗅覚と味覚はほとんど戻ったように感じているが、やはりコロナに感染する前とは少し何かが違う気がして、寂しさを覚えてしまう自分がいる。

これは3年間、祖父の介護の話を含めればさらにだが、家族以外、親しい友達にも誰にも話してこなかったことだ。話してこなかったというか、別にトラウマという訳ではなく、ただ単に自分から話す機会がなかっただけなのだが、大学時代で最も心を揺さぶられた経験は何かと聞かれたら、真っ先にあのときのことが思い浮かぶだろう。

「その程度のことで?」と思う人も多いと思ったし、自分の中で教訓っぽいかっこいい文章にもできなくて、何度も言語化しようとしては諦めてきた。しかし、卒業が近付いている中で、あのとき感じた気持ちを文章で残さないまま社会人になるのは、やはりなんとなく落ち着かなかった。

結局、自分でもあのときの出来事と真正面から向き合うことを無意識に避けているのか、ただ起こったことと感じたことだけを淡々と綴る文章になってしまった訳だが、心にかかっていた靄は少し晴れたような気がする。久しぶりに祖父の仏壇に手を合わせた。









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