きっかけは父の一言だった。

「人のせいにするな」

夕食の時間。家族に私のぼやきに付き合ってもらう時間になることも珍しくなかった。そんなこと家族にしか言えないから。その日も、軽い気持ちで「だって〇〇のせいだもん」と口にした。そこで父から返ってきたのが、その言葉だった。

ムッとした。私はちょっと共感してほしかっただけなのに、そもそも半分くらいは冗談の気持ちだったのに、そんなに真面目に返さなくても……。じゃあ、それはすべて私のせいだって言うのか?そのとき私が話していたことは、私にとっては結構な大事だったこともあって、その言葉が妙に刺さってしまったのだった。

夕食の時間の後、私は考えた。「人のせいにするな」と言われても、自分より相手が悪いことだって、どう考えても相手が悪いことだってあるじゃん。「人のせいにするな」なんて、そんなの綺麗事だよ。……と考えて、そこで私は気が付いた。

「人のせいにするな」とは、「すべてお前のせいだ」ではなく、「何かのせいにしようとする考え方をやめろ」ということだ。

もちろん、犯罪に関してはどんな理由があろうとした側が悪いし、生まれ持っていてなかなか変えられない条件もあるし、そのせいにしても当然なことは多々ある。そのようなことは一旦置いておいて、何かのせいにすることは意外と難しいし、そこから生まれるものは少ない。

いきなりだが、ここで私がどうしても忘れられない出来事の話を1つ。その日に私が話していたこととはまた違うことだが。

私は高校時代、軽音楽部だった。あれは確か、文化祭がそろそろ近くなってきた頃の出来事。後夜祭で演奏するバンドにエントリーするためには、録音の提出が必要だったため、それを録ろうということでメンバーが部室に集まった。

しかし、誰も部室の使用許可を取っていなかった。私は「それなら今日はやめておいて、また後日出直そう」と何度も言ったが、他のメンバーが「ちょっとで終わるから大丈夫だよ。そんなに気にする?」とスタンスを変えなかったため、私が折れる形で部室を使用して演奏することになった。

案の定、先生に見つかって怒られた。しかも、部長から「顧問が自分にも謝罪しに来いと言っている」との連絡が来た。

私は、「私は止めたのに、他のメンバーがやろうと言って聞かなかった。私は悪くないので、謝罪には行かない」の一点張りをした。部長と他のメンバーに一緒に行こうと説得されたが、私は断固として拒否した。

その結果、私は行かなくてもいいということになったが、自分だけ行かないのもなんとなく後味が悪くて、結局、私も一緒に謝罪しに行った。当時の私は「私じゃなくて他のメンバーのせいなのに」と本当に悔しくて、印象に残っている出来事である。

今振り返ると、私がコドモすぎてお恥ずかしい限りな話である。ちゃんと反省してます。それはそれとして、この話を例に考えてみたい。

私の悪かったところは、事前にメンバーに部室の使用許可を取っているか確認しなかったところ、使用許可を取っていないのであれば使用してはいけないと粘り強く説得しなかったところ。他のメンバーの悪かったところは、私と同様に事前にメンバーに部室の使用許可を取っているか確認しなかったところ、ちょっとの時間ならルールを破ってもいいという考えを押し通したところ。

色々と挙げていけば、数の多い方のせいだと言えそうだが、それぞれの比重は違うと思う。使用許可を取っていないのであれば使用してはいけないと粘り強く説得しなかったことの方が、ちょっとの時間ならルールを破ってもいいという考えを押し通したことよりも悪いのかもしれない。もちろん逆も然りである。しかも、それは判断する人によって変わってくるものであるため、誰もが認める唯一絶対の基準というものは存在しないだろう。

この話を聞いて、そもそも管理する立場にある部長や顧問も悪いと思う人も、もしかしたらいるかもしれない。つまり、何かのせいだと決めることは意外と難しい。

また、人が「✕✕のせいだ」と言うとき、もちろん「(もし△△になったら)✕✕のせいだ」というように未来の出来事に関してのこともあるが、ほとんどは過去の出来事に関してだ。「✕✕のせいだ」と言ったところで、過去の出来事が自分に有利なように、もしくは相手に有利なように書き換えられる訳ではないのである。

何かのせいにすることで、自分の心は救われるかもしれない。「すべて相手のせいだ」と思い込むことで楽になるし、逆に「すべて自分のせいだ」と思い込むことでも楽になるだろう。でも、ただそれだけだと思う。そこに残るのは、何かのせいにした自分だけで、起こってしまった出来事も、その結果としてある現実も、何も変わらない。

つまり、何かのせいにして生まれるものは少ない。過去の出来事を何かのせいにしようとするよりも、そこから自分はどうするのかを考える方が、よっぽど生産的だと私は思う。

「人のせいにするな」と言われて、「じゃあすべて自分のせいってこと?」や「じゃあ何のせいだって言うの?」と思ってしまった経験は、誰しも一度はあるのではないだろうか。

仮に自分のせいだったとしても、相手のせいだったとしても、それ以外のせいだったとしても、そもそも何かのせいにしようとすること自体が、あまり意味のないことなのだと思う。誰のせいでもないことだって多々ある。誰かのせいにしても何も変わらないことだって多々ある。

父は、「相手のせいではなくお前のせいだ」ということではなく、「何かのせいにしようとする考え方は無意味だ」ということを伝えてくれたのだと思う。あのとき、自分に刺さった言葉を取り除いて捨てるのではなく、痛みを感じながらも眺め続けて良かったと感じた。

ちょっと哲学っぽい話になってしまった気がする。哲学は専門外なので変なことを言っていたらすみません。


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