私と映画#2『秒速5センチメートル』

※この記事は、映画『秒速5センチメートル』のネタバレを含みますのでご注意ください。また、この記事は、2022年11月1日に公開し、その後非公開にしていたものです。今読み返すと非常に恥ずかしい部分もありますが、それは当時の私が思っていたことであるのは確かなので、なるべく修正せずに再公開します。

「ねえ、秒速5センチなんだって桜の花のおちるスピード」

第1話『桜花抄』

これは、映画の一番最初のセリフである。私が小学生だったときは、桜の花びらの落ちるスピードなんて気にしたことがなかった。しかし、校庭の桜が散り始める頃、落ちてくる桜の花びらをキャッチする遊びをよくしていた。秒速5センチメートルとは言っても、落ちてくるスピードは本当に様々だった。今思い返せば、それがこの映画の伝えたかったことそのものであるように感じる。

この映画を初めて見たのは、小学校を卒業してから何年も経ったあとの、数年前である。そのときは、確かに聞いていた通りで胸糞が悪い終わり方だなという感想しか持っていなかったと思う。人生そんなこともあるよな、ハッピーエンドにしなかったのはすごくリアルだな、と。それぐらいしか考えていなかった。

つい最近、2回目を見た。寒い季節になってくると、なぜか見たくなってしまう。あらすじを載せた方が感想も伝わりやすいのだろうけど、この作品はあらすじを載せた上で感想を書くと伝わる魅力が半減してしまうような気がする。あらすじは極力無駄を省いたものであり、一定の速度でテンポ良く進んでいく印象を与えてしまうからである。この映画でキーとなっているのは「生きる速度の違い」だと思うので、分かりにくくはなってしまうがあらすじは載せない。

さて、本題に入る。

どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。

https://www.cwfilms.jp/5cm/gallery/

このキャッチコピーや一番最初のセリフにあるように、この映画は「速度」がキーになっているように思える。思えるというか、そうなのだと思う。

距離=速度×時間という公式は、誰もが学校で習ったことがあるのではないだろうか。明里と貴樹は生きてきた時間の長さとしては、もちろん多少の差はあるだろうが、ほとんど同じである。しかし、2人の生きる速度は違った。それが、2人の距離が離れていった理由だと感じた。明里の生きる速度は貴樹よりも速く、逆に貴樹の生きる速度は明里よりも遅く、その分どんどん差が開いていく。

私は、貴樹の生きる速度こそ秒速5センチメートルではなかったのだろうか、と思う。人が歩く速度は秒速1メートルほどらしい。とにかく、貴樹の生きる速度はそれよりずっと遅いように感じる。貴樹は、花苗にも水野にも同じようなことを言われていた。

「遠野くんは優しいけれど、とても優しいけれど、でも、遠野くんはいつも、私のずっと向こう、もっとずっと遠くの何かを見ている」

第2話『コスモナウト』

「でも私たちはきっと1000回もメールをやりとりして、
たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした」

第3話『秒速5センチメートル』

貴樹は、いつもずっと遠くにいる明里のことを思っていた。彼の生きる速度はずっと遠くにいる明里に引きずられていたから、周囲の生きる速度とは大きなズレが生じていたのだろう。彼の生きる速度が遅いのは、彼が明里に栃木まで会いに行ったときのことが、ずっと足枷になっていたからではないかと思う。彼は駅で明里と別れるとき、手紙を書くとか電話をするとか言っていた。また、彼はこの出来事をきっかけに、彼女を守れるだけの力がほしいと強く思うようになった。

「あの、貴樹くん
貴樹くんは……きっと、この先も大丈夫だと思う、絶対!」

第1話『桜花抄』

一方で、明里は、貴樹を駅で見送るときこのように言っていた。この時点で、明里は今のことではなく、遠い未来のことを見据えていたように思う。普通、別れの挨拶は、貴樹のようにまた会おうねとかまた連絡するねとか、そういうことを言うのではないだろうか。しかし、ここでこのセリフが出てきたということは、明里は貴樹と同様、彼とこの先もずっと一緒にいることはできないと気付いたが、彼女はその気付きを受け入れることができていたということだと感じた。彼女も、少なくとも高校生までは彼に手紙を出そうとしていたことは分かる。そのため、現に受け入れることができていたと言うよりかは、この先受け入れることができるということを感じさせた。

そして、エンドロールを見て気付いたのだが、第1話『桜花抄』と第3話『秒速5センチメートル』とでは、明里の声優が変わっている。しかし、貴樹の声優はずっと同じまま。普通、男性の方が途中で高い声の声優から低い声の声優に代わりそうなものである。これも、明里は過去を清算することができたが、貴樹はできていないということを表しているように思えた。貴樹よりも明里の方が、生きる速度が速かったのである。

生きる速度とはそもそも一体何なのだという話だが、私も確かに生きる速度は人によって違うなと思う。同じ場所にいて同じ時間を過ごしていても、相手は私ではなくて何か違うものを見ているなと感じることがある。それとはまた異なるが、年齢の割に妙に大人びている人や、逆に子どもっぽい人もいるだろう。生きる速度とは、その人が見据えているもの、その人が追いかけているもの、のことなのかなと、何となく思う。私がもっと大人になったら、その正体が分かるのだろうか。

正直、私は新海誠監督のファンという訳ではなく、この作品の他には『君の名は』と『天気の子』しか見たことがないので、彼の作品の特徴は捉えきれていないだろうということは最後に付け加えておきたい。『秒速5センチメートル』には小説版や漫画版もあるらしく、それも読んだ訳ではないので、多少の解釈違いがあるかもしれないことをお詫びしておく。

私がもっと大人になったときにもう一度この作品を見れば、また今とは違った感想を持つだろうと感じる。年を重ねる度にもう一度見てみたい、と思わせてくれるような作品である。

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