「コンプレックスそこがかわいいなんて」

仲間と嫌いな人の話題になったとき、私は嫌いな人がいないという話をすると、思ったより驚かれる。

決して良い子ぶってる訳ではない。綺麗事を言いたい訳でもない。私は、その人のすべてが嫌いだ、その「嫌い」という感情が覆される可能性は今後一切ないと思ったとき、その人を「嫌いな人」と認定する。だから、「嫌いな人いる?」と聞かれたとき、そんな強い感情を持つほどの相手が思い浮かばないのである。もちろん、犯罪をした人とか、いじめをする人とか、性根が腐っている人は嫌いだが。

小学生の頃、私はとある男子のことが世界一嫌いだった。私の言動に対して「キモい」とか「バカ」とか、ヒステリックに言ってくる。彼に何度泣かされたことか。嫌いすぎて、地獄に落ちればいいとすら思っていた。

彼とは中学校も同じだった。彼も大人になったからなのか、そんな暴言でも吐こうものなら先生にボコボコにされる環境になったからなのか、何も言ってこなくなった。

中学2年生になり、彼と小学校ぶりに同じクラスになった。彼も勉強が得意で、そのうちライバルのような存在になった。結局、3年生になると一緒に帰ったり、受験が終わると一緒にポケモンバトルをしたり、それぐらいの仲になっていた。わざわざ私の家まで、家族旅行のお土産を届けに来てくれたこともあった。

私と彼は別々の高校に入学した。私は高校1年生のときにスマホをぶち壊し、当時のアカウントでLINEにログインできなくなってから、彼の連絡先をなくしてしまって、彼が今どうしているかはまったく知らない。近所に住んでいるが、姿もまったく見かけなくなってしまった。

とにかく、彼が「嫌いな人」から「好きな人」に変わったことは事実だ。「好きな人」というのは恋愛的な意味ではなく(笑)この経験から、最初は大嫌いでも長く付き合ううちに、その感情はいとも簡単に覆される可能性がある、ということを知ったように思う。実際、他にも同じような経験をしたことがある。だから、人に対して「嫌い」という強い感情を持ちにくくなったのかもしれない。

私にも、アイツのあの言動めっちゃムカつくとか、いつか絶対やり返すから覚えとけとか、思うことは多々ある(笑)でも、その翌朝には、楽しかったなー、また会いたいなー、とケロッとしている。「嫌い」という感情を抱いたとしても、その人そのものが嫌いなのではなく、その人のその部分だけが嫌い、といった感じである。

とは言え、その人の嫌いな部分を1つでも見つけてしまったら、もう無理となってしまう人が多いのかもしれない。そっちの方が健全だとも思う。しかし、私は相手の嫌いな部分を見つけたとき、そこが可愛いと思ってしまう。完璧な人間なんて存在しないから、相手のできていないところが人間らしくて可愛くて、そこも含めて好きなのだ。もちろん、私もできないことがたくさんあって、たくさんあるどころか人よりも多いかもしれないが、そこが自分の好きなところの1つでもある。

タイトルは、大森靖子『みっくしゅじゅーちゅ』の歌詞から取らせていただいた。後半の文章を書いていて、この一節が思い浮かんだからである。後半の文章だけじゃんと思われるかもしれないが、その前の世界一嫌いだった男子の話も、長く付き合ううちに「嫌い」という絶対的な境界線が曖昧になっていた様が、字義通りの『みっくしゅじゅーちゅ』みたいじゃない?無理ある……?文章の主題から逸れないようにしつつ、面白いタイトルをつけてどれだけ読もうと思わせるか、毎回勝負である(笑)

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