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僕の卒業論文を公開します(その1)

はじめに〜卒論に関して

noteでたまに見かける卒論を公開するというもの。最近の大学って卒論は必修科目担っているんですかね?僕の学部は必須ではなかったですが、ゼミは必須でしたね。先日も記事で触れたとおり、副専攻を取得するためのゼミなのである意味当然ですし、研究者を目指していた当時は論文を書く以外の選択肢はなかったので。
ちなみに文章量は12000字以上。卒論としては定番の文字数ですね。長いように見えますが、概要や引用、注釈含めてなので別に書けなくはない量だと思います。7割くらいは夏休みに完成していました。最終的には「論文は引き算」と言われるように、一本の筋道を元に展開されなくてはならないので、脇道に(多少逸れてもいいのですが)逸れすぎないように不要な部分は削除していくという作業をしていき、12000字に近づけていきます。文字数に執着しすぎるのもよくないですが。結局17000字くらいになってしまいました笑
書いてる時は「あれ、これ傑作なんじゃね」って思いながら筆を進めていくのですが、書き終わって完成した作品を見返すと、「もっとうまくかけたなあ」と思うことがあります。あるあるですかね。

早速ですが、僕の卒論をベッ!っと貼っておきますのでご一読ください。とはいえ12000字まるまる見せるのもあれなので、なるべく読みやすいように改変します。3部構成とかになりそうですね。

<タイトル>
パリの都市論ー「中心」と「周辺」で考える
<目次>
第1章 序論
第2章 パリの都市計画と都市論―「中心」と「周辺」で考える
  2.1. パリの都市計画の歴史
  2.2. 権力の中心と経済の中心の変遷
  2.3. 中心と周辺の移り変わり
第3章 近代絵画にみる主題の越境―郊外から都市へ
第4章 文学における身分の越境―「周辺」から「中心」へ
  4.1. 教養小説やパリの民衆小説における「中心」と「周辺」
  4.2. 自然主義的「越境する」女性の物語
  4.3. ロマン主義的「悔悛する」娼婦と「裏社交界」
第5章 結論
参考文献

論文要旨

現在パリはフランスにおいて中心として位置づけられている。中央集権的な要素の強い共和政だけあって、政治だけでなく情報、文化、芸術の中心としての役割を果たすことが多いパリ。しかしながらパリとその住民は中世以来、歴史的・社会的・文化的に規定された「中心」と「周辺」という概念に基づいて、分断されているようにも見てとれる。パリは光の都としてうたわれてきたが、歴史的に、経済的に、はたまた現代に至るまで、パリの内部においては「周辺」や闇の部分をもあわせもつ都市なのではないだろうか。本論文では特に近代パリを舞台にした文学、絵画作品などを読み解いていくことで、「中心」や「周辺」という概念が地理的な面だけでなく身分的な中心と周辺、それを越境する19世紀の文学や、現代に至るまでの通時的な中心と周辺の対立について読み取ることができるだろう。[後略]

この後は、各章の内容を詳細に説明するところなのですが少し長いので別途説明します。2章は都市計画の歴史、3章は絵画、4章は文学における「中心」と「周辺」の対立を読み解くという構成になっています。ボリューム的には4章の文学がメイン、2章がその次という感じです。

文化史とは?〜そもそもどんなジャンルか

広く捉えると文化史的な視点で書かれた論文かなと思います。
中心と周辺っていうのは政治でたとえると、絶対王政の頃の王様が「中心」で市民というのは「周辺」ということになります。で、ルイ14世の没後は王様の権力が弱小化していき、市民が力を持つようになりやがて権力の逆転が起こりますね。いわゆる市民「革命」というものです。これが周辺から中心への「越境」ということになります。
で、簡単にいうと文化史というのはそんな「周辺」の人々がどう考え、どう生きたかという歴史の一分野のことです。中学や高校で習ういわゆる歴史は「勝者」の歴史であって、権力を持った者がどう国を治めていったかということですが、文化史というのは声なき民衆がどのように生活したかということを文献から読み解くというもの。その対象は日記、新聞記事、手紙など日常生活に必要不可欠だったもの。
そして特に19世紀は「自然主義」文学の発達によって民衆の生活をリアルに再現するというものが多く描かれるようになりました。具体例については4章の説明で触れることとしましょう。

2章の都市計画という視点から地理的にもパリが「中心」と「周辺」を形成してきたよね。ということを論じています。つまり、都市計画によってパリの市内と市外で大きく変わった歴史の分岐点というものが3つありますよ。それは16世紀アンリ4世の頃、18世紀ルイ14世の頃、19世紀ナポレオン3世の頃の3点ではないかという考察です。世界史の授業で名前くらいは聞いたことあるのではないでしょうか。

第2章の概略

<アンリ4世(Henri IV, 1553-1610)>
街路の拡張:3〜4mだった通りを7〜8mへ。大通りを建設していった。
計画的な広場の建設:正方形の広場を作り、新しく区画整理をした。
             例)ヴォージュ広場、ドーフィーヌ広場
「住居の建たない」橋    例)ポン=ヌフ (Pont Neuf, 1578年建設開始)
橋の上にたくさんの人が住んでいるために川へ汚物が捨てられたり、人通りを確保できず街が人混みであふれ、衛生状態を確保できずにいた。それを改善するため、「道」としての橋を建設し、橋の上から住居を撤去した。
シテ島の開発とパリの街路の整理において貢献した。

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Pont Neuf: 直訳すると「新しい橋」。だがパリ市内37ある橋の中では最古。

<ルイ14世 (Louis XIV, 1638-1715)>
・ヴェルサイユ宮殿(Château de Versailles, 1623〜)
 :国王が存在する場所が1箇所に決められ、固定化する宮殿を持つ国家ができる。すなわち政治において「中心」が設置された時代なのである。
・アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)による噴水庭園
 1.水のないヴェルサイユの地に水を引くこと
 2.貴族をヴェルサイユに強制移住させること
 3.民衆にヴェルサイユ入城を許可し、彼らの心をつかむこと
→どこからでも見えるような壮大なバロック建築を建てることにより、「中心」から「周辺」を監視し、強大な権力の維持に成功した。

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Château de Versailles: ルイ14世の王宮。パリから電車で15分ほどで行ける。

<ナポレオン3世(NapoléonⅢ, Louis-Napoléon 1808-1873)>
・オスマン改造
セーヌ県知事のジョルジュ・オスマン(George Haussmann)による都市計画。ポイントは下記2点。
1.バロック式+機能性
 「大通りの開通」、「上下水道の整備」により明るく綺麗なパリが誕生。
 大通りに沿って高さの均衡の取れた建物が立ち並ぶ。
2.緑の配置
 屋上庭園の配備。
→先日の投稿でも触れた通り、パリの現在の形が形成されたのはこの頃。また、パリの市域が拡大され、開発も進んだ(「中心」の拡張)。

「中心」と「周辺」の関連性〜2章のポイント

地理的側面における「中心」と「周辺」
・革命前(中世):城壁の内側と外側
・革命後(近代):都市と郊外・地方
・現代     :環状道路の内側と外側

「郊外」の誕生については3章で触れることにしましょう。

そして、この「中心」と「周辺」という二つの対立する概念は中世パリを起点として現代に至るまで通時的にパリやその住民を規定しているだけでなく、第二の宗教とも言うまでになった「イスラーム」との対立、現在の中心パリを規定しその郊外とを分けるように走る境界としての環状道路(ぺリフェリック)など、現代においても中心と周辺の概念はファクターが変化するものの、その対立構造は変わらない。

ということで、3章絵画や4章文学のような対立にも当てはまりますよという言葉で締め、次の章に入っていきます。

ここまでご覧いただきありがとうございました。明日は3章と4章を見て行けたらいいなと思います。
そして来週からは仕事が再開し、更新頻度が少し下がると思いますが、よろしくお願い致します。

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