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美術史②ローマ美術

※勝手に美術史の通史を纏めたものです。
※主に宗教画と絵画タッチに重きを置いて話しています。
※大学の講義で出したレポートを再編集しているので、情報の偏りと全体の大雑把さが見られます。
※また、参考文献等を省いております。ご了承ください。

 大きな流れとして捉えた美術史ということで、補足情報的に役に立てると幸いです。



 さて、タイトルには「ローマ美術」と題しましたが、その前に、ローマとはまた別の独自の美術的発展を遂げたイタリア・ナポリ近郊の街“ポンペイ”の美術動向について少しだけ触れておきたいと思います。
 当時、ローマ帝国の植民都市とはいえ、商業で大いに発展していたポンペイは、“壁画”というジャンルが特筆すべき点といえるでしょう。
 ポンペイの壁画は、時代を経るにつれ、主に三つの様式に分かれました。
 最初期に作られるようになったものを、“漆喰装飾様式”といいます。色付きの大理石のシンプルなパネルのみで彩られたものです。
 次に何かしら架空の建築物(例えば柱などを壁面に描く)をモティーフとして描かれるようになったを、“建築的様式”といいます。これは、天井などのアーチ部分、建物本体、建物と地続きの地面や階段という三要素で構成されています。このときには既に、きちんとした奥行きと現実の空間と繋がっているかのような騙し絵風の描き方になっている点が特徴です。
 この“建築的様式”の発展というべきか、派生というべきか──といった描き方を“タブロー画様式”といいます。これは、先述した“建築的様式”と少し違い、絵に奥行きの表現がほぼ無い代わりに、装飾なども含めた繊細で細かな表現が増えました。また、明るい多彩色面パネルを積極的に用いつつ、一面に一つの大きな絵などだけではなく、何枚かに区切られた場面が描かれるようにもなりました。

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 紀元前8世紀頃、ギリシャがまだ栄えていた時分にローマの美術が生まれました。相変わらず、使用されるモティーフなどはキリスト教ではなく、ローマ起源の神話です。
 いち都市であったローマは、紀元前2世紀にはその勢力を中東にまで拡大していきました。その後、ポエニ戦争で地中海南沿岸のカルタゴを制圧すると、ギリシャ彫刻を持ち帰って観賞するという趣味が生まれました。ここから、ローマの人々によるギリシャ美術の継承が始まったと推察されています。
 エーゲ海付近が中心地であったギリシャの美術潮流は、イタリア半島のラツィオやローマ以前のエトルリア時代の美術概念をも巻き込んでローマへと移っていきました。
 ちなみに、エトルリア美術は騙し絵風な表現と左右の対称性が特徴的となっています。植物や動物は図式的で伸びやかに表現されることが多く、彫刻もなかなかの個性を持ち合わせており、どちらかというと現代の美術彫刻に近い側面を持っていました(アルベルト・ジャコメッティのような)。

 ローマの美術家たちの中にネオ・アッティカ(ギリシャ)派という人々が存在していました。人々の注文に合わせて制作活動をし、その名の通り、クラシック期のギリシャ彫刻の再現を主としていました。しかし、そんな中でも変化するものがあります。やはり、ギリシャ時代よりもローマ時代の美術家の方が各彫像の個別性があり、顔の造形にこだわっていることが分かるものが多いのです。立像であれば、体はギリシャ同様の理想的な筋肉や体型などですが、顔の細かなパーツなどは目の大きさや口元など、実際にモデルがいると考えられるくらいには、ある程度違いが見られます。これらは、当時の皇帝に似た顔であったり、流行っていた顔の造形があったためそのように作ってくれと依頼者から言われたりしていたという説があります。“流行っていた”というとなんだか曖昧ですが、つまるところ目は大きくした方が綺麗に見えるだとか唇は薄いほうがよいのでは?というようなことです。皇帝に似た顔にすることもある意味“流行り”で、威厳が出たりかっこよく見えたりといった考えのもと行われたものでした。
 これを美術史の中では『時代の顔』と呼びます。

 ──現在のローマの街は、この記事で触れている古代ローマ時代と18世紀バロックに建てられた建築物で形作られています。つまり、ローマ時代で特筆すべき点は実用的な建築です。
 この建築物たちは、ローマ神話・ギリシャ神話などに則って作られたものが多く、現在でも使われる市の広場や柱の名前に神話の神々が使われています。
 このことから、現代ではローマといえばカトリックというイメージが強いですが、この頃は多神教の神々を敬っていたことが分かりますね。

 古代ローマの広場奥にある『コロッセウム』は現代でも有名ですが、その柱のオーダーには一つ前の項目(①古代ギリシャ)で触れたような造形が採用されています。
 また、ローマ時代には『凱旋門』もよく建てられました。当初は、名前の通り、戦からの凱旋を記念してといった用途で建てられていました。時が経つにつれ、少しずつ新たな意味合いも強まり、その時代の皇帝の栄華を讃えるという考えも含めた造形や用途で建てられていくようになります。

 さて、ローマ時代の建築は、基本的にシンプルな円筒形の石壁などがのっぺりと続くような外観を持っています。こうした作りが上手く、内部から見ると、“アーチ”が建物の特徴の一端を担っていることから、この構造によって実用性や大規模な建物の建築を可能にしていたのだろうと推察されます。
 このような建てられ方は、何も大きな建物だけでなく、記念柱や神殿などにも活用されました。
 こうしたローマの建築で、有名なものに、ダキア戦争が絵巻物風に彫られている30メートルの高さの『トラヤヌス帝記念柱』や神話の神々を祀るための“万神殿”である『パンテオン』があります。

 また、この後の歴史にも関係してきますが、例えば『ハドリアヌス帝墓廟』などは、現在『カステル・サンタンジェロ(=天使の宮殿)』と呼ばれています。
 もしかしたら、上記の名前を聞いて、「天使と悪魔(ダ・ヴィンチコード)」を思い出した人もいるのではないでしょうか。
 この建築物は古代ローマ時代に建てられたもので、名前の通り、五賢帝の一人であるハドリアヌス大帝の霊廟として建てられました。それから時を経て、キリスト教が普及し出すと、ローマ教皇らによって要塞へと変化を遂げていきます。そして、キリスト教の威厳を示すために聖ペテロや聖ミカエル、天使たちといった彫像が増築されました。現在では、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂と城壁上の通路で繋がっているとして有名ですね。

カステロ・サンタンジェロ
元々は頂上に、ハドリアヌスの像が建っていました。

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