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3.景義先生と風呂

 物事が何もかも上手くいかない日というものはある。詳細は思い返すのも億劫なので省くが、仕上げに帰りの寄り道の公園にて、小石も段差もないところでつまずき、いい歳をして盛大に転け、ついでに靴底が剥がれたので、片足靴下のまま垣根を越えた。夜中だというのに景義先生は庭に立って、こちらを見て気の毒そうに笑っていた
「ごめんなさいね、あんまりに大きい声が聞こえたから覗いてみたら、きみが土に向かって怒鳴っていたものだから、心配していたの。本当ほんとうよ?」
景義先生は泥だらけの姿を見て、服は貸すから、と床が汚れる事も構わずに、私を居間へ引き入れた。お節介を焼かれることに礼を言う事すらままならず、ふくれっ面をして立ち尽くしている私の背を優しく撫でながら、そのまま洗面所へと促す。
「先に風呂へ入っておいで。お手てと顎から血が出ているもの。よほどひどく転んだのでしょうね」
子供の頃、同じように転んで風呂に入れられた時を思い出す、母親のような手だった。


湯気に満ちた風呂場に入って、そこでようやく落ち着いた私は、風呂の戸越しの景義先生へ向けて、念のため妻に連絡してもらうよう伝えた。
「あの子もきみもずいぶんと大きくなったのに、そそっかしねえ。ちょっと前にべそをかきながら子供に連れられて来たんだから。大人になってから転んだのが、よほど悲しかったのかもしれないね」
数日前、妻が両肘と両膝を擦りむいていたことを思い出す。あの可愛らしい絆創膏は景義先生のものか。縁側に来る子供のために用意しているのかもしれないな。などと考えながら辺りを見回す。昔から変わりなくそこにある、一人暮らしにしては少し大きなステンレスの湯船になみなみと湯が張ってある。

「きちんと肩まですくむんだよ。夕飯も食べさしてから帰らせるって伝えておいたから、ごゆっくり」
足音が遠ざかり、がらがらと音を立てて向こうの引き戸が閉まった。手桶に湯を汲み、水面に映る顔をぼんやりと見つめていると、朝からの寝癖がしぶとく残っていることに気付く。一度は落ち着いた気持ちもまたぞわぞわと逆立ち、その湯を一気に頭へかけた。全身に痛みが走る。どう転んだのか、身体のあちこちをズタズタに擦りむいていて、砂や極小の石英がちらほらと傷口に入り込んでいるようだった。見落としていただけで大きな石でもあったのだろうか、と疑わしくなるほど、あちこちに青あざも生まれ始めていて、まるで崖から転げ落ちたようだ、と最早苦笑いするしかなかった。

 見つけた傷口を洗うために、おっかなびっくりシャワーを当てては呻いていると、ぽこ、とまだ誰も入っていない浴槽から泡が一つ浮かんで消えた。湯沸かし器か何かが動いたのだ、と始めこそ気にしなかったものの、それにしてはやけに頻度が高く、派手に音を立てる。ぼむん、どどう、と泡が大きくなるにつれ不安になった私は、泡が出るタイミングで泡に対抗するように水面を叩いた。まるで怒っているようにぼこぼこと長く激しい泡がしばらく続くと、水中から子供が、ざば、と大きな音を立てて立ち上がった。生意気そうな顔をしている。思わず、わっ、と叫ぶと、ぱたぱたと慌てた足音で景義先生が戻ってきた。

「どうかしたの?」
「えっ!?あ、今、その」
振り向くが、そこには誰もいない。古いタイルがそこにある。
「虫でも出たのかしら。もう、大きな声を出すから溺れたのかと思って」
いつのまにか湯船に腰まで浸かっていた私は、考えがすでに追いつかないまま、景義先生がするすると帯を解いていくのを眺めていた。
「ふふ、ひとりぼっちのお風呂は心細いものね。背中を流してあげようか」
「そんな、自分で、じぶんで出来るから」
景義先生がすっかり裸になって、湯船にちゃぷんとつま先を入れたところで、ああ、とそこでようやく何が起こっているのか気付いた。

 景義先生は掛け湯をした後に爪先から湯船へ静かに入った。私の背後に静かに沈む。ざざあ。と湯が流れていく中に、おもちゃのアヒルや、金魚や、小さな船があった。景義先生はほの赤く染まり始めた細い腕を優しく私の身体に腕を回し、遠慮して立ちあがろうとする私を、湯船の中へ誘うようにゆっくりと引き寄せた。肌と肌が触れ、暖かな温度に呑み込まれていく。傷口を一つずつ、丁寧に指の腹で撫でられ、私は痛みが走るたびに、びく、と身を振るわせた。
「あ、う、」
「少し痛いね。でも泥を落とさないとだから、堪忍ね」
じゃり、と肌の感覚から砂が滑り落ちていくのが伝わった。繊細な指から伝わる痛みは身体を包み込む体温と甘い声に混じり、だんだんと心地のいい気さえしてきた。
「痛かったでしょう。ずぅっと泣かなかったのはえらいけれど、ここなら泣いても誰にもわからないから、たくさん泣いていいんだよ」
傷に絡まった小さな砂とともに涙が湯船に沈んでいった。堰を切ったように、両の目から涙が溢れていく。
「んっ、い、あぁ……ああぁん……もう嫌だ。全部嫌だ。い、い、家に帰りたくない。きっと怒られる。嫌だ、やだぁ……」
うん、うん、とひとつずつ傷口を撫でる景義先生が相槌だけを打つ。そうしてすっかり怪我の痛みが薄れた頃に、景義先生は私のうなじにやわらかい唇を付け、大丈夫、と囁いた。ぐるりと世界が回る。人が沈む音がこれほど静かなものだというのは、この時初めて知ったのかもしれない。湯船の底は抜けて、いつのまにか、桃の花の色をした水中の森が広がっていた。それを目の当たりにしたところで、ごぽり、と両耳に音がして、それっきりだった。

 目が覚めると縁側にいた。泥だらけになったはずのスーツはただのくたびれたスーツに戻っている。しかし手のひらと顎の傷には、どこで売っているのか、ベーコン柄の絆創膏がしっかりと貼ってあった。
「吐きそうだったり、目がぐるぐるすることはないかしら。タクシーは呼んでおいたから、もう少し待っていてね」
身体がぽっぽと温まって夜風が心地がいい。やけに陽気な気分だった。景義先生曰く、ビール一杯でひっくり返ったようだ。酒には強いつもりだったが、どうやら今日は飲み方が悪かったらしい。縁側に上がってからの記憶がすっかりと抜け落ちている。
「あの子も心配しているから、まっすぐ帰るんだよ」
そう言いながら景義先生は慈しむように私の頭を撫でた。
「きみはもう、これからはあの子と暮らすおうちに帰ればいいの。それに、いつだってここに来て構わないのだからね。待っているよ」
ぱ、と玄関の方からごく短いクラクションが鳴った。私は絆創膏を撫でながら立ち上がって、次はベーコン以外がいいです、と笑った。身体からはほんのりと桃の香りがする。


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