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さよーならまたいつか!

マガジン作った。

こんばんは。彗月はづき 漣太郎れんたろうです。食パン一枚でおなかぽんぽんになるのを忘れて、丸亀製麺にかけこみ、案の定食べすぎた。動けにゃい。(ご厚意で訪看さんが送り迎えしてくれた)(行きは時間内だったのでお願いしたけど、ゆっくり食べたかったので帰りはバスで帰れるよぉ……と思いつつ、ついそのご厚意に甘えてしまったのでダメ)


ねこまんま派なんだけど
ごぼ天食べたくて注文してしまい
うどぅんと白飯の競合で大パニック起こし
頭真っ白になるなどする

つい観てしまった。

常日頃言っているが米津玄師の作品は好きだ。作品は好きだ。基本的に。曲も歌詞も解釈もマジでイメソンの達人すぎてやべーなって思う。それはそれとして、なんだろう、こう、イメソンとかそうじゃない曲でも解釈はめちゃくちゃニアミスするのだが(オタク全員米津玄師に対してそう思ってるでしょう?)そこに至るまでの思考の導線がものすごく僕とは違うので、そこがめちゃくちゃノットフォーミーだ。

なので基本的には米津玄師の曲はlate rabbit eddaの時代から好きだったのだが、(ハチから多分入っていてギリギリlate rabbit eddaの曲が公式に残っていた時期〜米津玄師になった初期あたりまでリアタイしていた)マジでほぼほぼ曲しか知らない。なんか多分本人HPの絵本?を一回だけ読んで、決定的に「性格は絶対に合わない!!!!!」と思って以降、曲が聴けなくなるのを避けるために本人の発言は見ないように避けていたまである。インタビュー記事もソースの確認をするために読むことはあるが、読む度に「やっぱ性格は合わないわぁ」と思っている。

(最近炎上していた某ヤバいファンの記事を眺めてわかる……と思ってしまったマズいタイプのファンである)(アドバイス系マロみたいなもんやコメントは……米津には送ってないはず……)

そんな感じでまあYouTubeでもチャンネル登録しているのだが、起きたら新曲がアップロードされていたのでとりあえず2周聴いた。

ちなみに今回の記事も元々はTwitterに置いておこうと思ったらだいぶ文字数行ったんでnoteに追記転載しているものである。口語とnoteでの口調、あんまり統一してないのでちょっとお恥ずかしや。

ということでここから本題。

ドラマの方は観ていない。

(ドラマ自体きちんと決まった日付決まった時間決まったタイミングで観られない性分な上に、現在は本当に世間の話を一文字も入れられなくて、情勢からほぼほぼ切り離されている状態である。前まではまだTwitterでニュースが流れたりしていたのを眺めていたのだが、Twitterを覗いた時に地雷を踏み荒らすニュースなどで高頻度でSAN値減少し、パニックを起こし続けた結果が拒食と無気力のため意図的に見る時間をセーブしている)

ので、てんで間違った解釈をしていても許して欲しい。ではどうぞ。

とりあえずふわっと解釈

『さよーならまたいつか!』は燕に恋する虎の視点での悲哀→諦め→気付き→悟りといった感じなんだろうか……とりあえずPVのギャングスタな米津がとても良い……なんだその可愛いポーズは……。

1番だけならあー光の米津玄師ですね〜くらいの気持ちで多分終わっていたんですけど……ふえぇ……。

まず、タイトルである『さよーならまたいつか!』は3回あるんですけど、それ以外に最初の『さよなら 100年先でまた会いましょう』もこれとだいたい同じ意味だと思ってるんですね。というのも、1,2回目の『さよーならまたいつか!』の前に『100年』というキーワードが出ているんですけど、この最初の『100年』の後には『さよーならまたいつか!』が書いてないんですよ。

そして次の100年の後に出てくる事実上では最初の『さよーならまたいつか!』はまだ多分この時点ではただの強がりでしかなくて、『もしも私に翼があれば(と)願う度に悲しみに暮れ』ているし、『心配しないで』もまだ虎の足元が覚束ないまま言っている(下手したらその言葉で気を引こうとしている可能性すらある)と僕は解釈しまして。

だから前述のの100年先でまた〜ではぼんやりと会う気でいる。いずれ叶う願いとして立ち上がる事すら出来ていないかもしれない。でも100年先なら届くかもとか、100年先なら気付いてくれるはずとかの願望でしかないし、これは虎の、憧れや願望しかなく、到底手が届かないけど「燕の方から迎えに来てくれる」とかのいつか白馬に乗った王子様が……みたいな未熟さの描写なんですよ。知らんけど。

種田山頭火の句

『しぐるるやしぐるる町へ歩み入る』は種田山頭火のしぐるるやしぐるる山へ歩み入るのオマージュだと思われる、とコメントを見たので調べたんですけども(マガジンの徒然草も後述の万葉集も含め、本当に小説書くとか言ってる割に文学知識はマジで全然ない。百人一首も源氏物語も平家物語も日本書紀もわからん!)意味合い的には「時雨が降ってても泥道を歩いて行かないといけないんだ」みたいな、歩みをやめては行けないという自身への戒めのような句らしいんですね。

「冷たい雨が降ろうが、そんなことを気にしているわけには行かない。生きて行くには、雨でぬかるみ歩きづらい山道だって、ただひたすら歩いて行くしかないんだ。」という山頭火の心が表現されています。

ただ、ここら辺が米津節というか、素直に前を向かせるとか背中を押すだけで済ませない、そういう時に背中を押される事の、押される側の苦痛の描写があるなって思いまして。

この後に『そこかしこで袖ふれる 見上げた先には何もいなかった ああいなかった』とあることからまだこの虎はこのオマージュ通りの自分の信念(時雨が降るとわかっていても(≒しんどいことが待っていると理解していても)町に向かう)といったものは全然持っていない状態で町を彷徨っている感じがするんです。合間の笑い声も多分自嘲や嘲笑とかの声なんだと思うんです。

『しぐるる(時雨る)』単体がそもそも基本的には『物事が(ネガティブな方向に)移り変わる』という意味を持っているらしくてですね(Google頼りです)多分ですけど、虎は燕の面影を町の中でふとふと感じては空を見上げて「ああ違う燕だった」「ああ燕じゃない」「あの燕じゃない」と苛立ちがあるんですよね。とにかく燕の面影を感じるたびにやるせなさとかを感じているんだと思うんです。

この後にようやく転換して行くのがまたそれも米津節というか、僕の中では米津って結構ポジティブタイプの締めになる曲だと力技でこういうのを乗り越えるというか、越えきらずに諦観で受け入れつつ、その諦観の中でもその先には一つの希望があるみたいな、パンドラの箱的な作りをしてるイメージなんですけども。(希望というにはちょっと綺麗すぎるな。主人公に対しての一つの納得する答えか何かだろうか)

虎はずっと『背中を殴り付ける的外れ』な事を『したり顔で』延々と言われているんです。虎には羽根は生えないので。他人からはもう燕なんて見てないでさ、他にいい虎いるよ、もうやめなよ、みたいなことも言われててもそれを振り切ってるんですよね。『触らないで』って言ってるから下手したら他の虎からアプローチもされてたりするかもしれない。

でもパンドラの箱の底を覗き込む……『人が宣う地獄の先にこそ私は春を見』てからは、この春は自身がそれを享受出来るかどうかなんてもうそっちのけでただただ『春を見る≒燕に恋をする』という行為への執念になるんですよ。執念っていうとちょっと怖いんですけど、もうそんな燕を諦めるよう説得する他人の言う事なんかに耳を貸さなくなるんです。

万葉集の狭野茅上娘子の一首

なんか万葉集でめっちゃ詠んでる人らしい。(ほんと無学晒してんな……はい……)

『貫け 狙いさだめ けだし虎へ』の部分なんですけど、ここの解釈、まずけだしという言葉そのものがよくわからなかったから調べたんですよ。意味合い的には単純に【もしも・ひょっとすると】みたいな意味らしいんですが、ヒットしたキーワードで万葉集の中に『けだし』が含まれる首があって、その中の一つに

【わが背子せこけだしまからば 白妙しろたへを振らさね 見つつしのはむ】

(あなたがひょっとしてひなに下るようなことがあったら、白妙の袖をお振りください。見ながらお慕いしましょう。)

この前に袖というキーワード『そこかしこで ふれる』があるので、まあまあゴリ押しで自己都合解釈するとしたら、虎が二度目の『さよーならまたいつか!』の前に自分の縄を噛みちぎりながら、でも翼が生えたわけではないので追うことはなく、でもやっぱり恋はしていて、空を飛んでいってしまう燕に対して「こっちなんか見ずにどこまでもいけ!でも、もしも(けだし)叶うなら虎へ少しだけ袖を振ってくれ、それを想いながら生きるから!」っていう感じなのかなってのを……考えるなどした……。

まぁぶっちゃけけだし虎へとしか言ってないから、袖とか関係なく億が一まだ結ばれるのを期待してるってだけかもしれんが……。

だから僕の解釈としては、まだ二度目の『さよーならまたいつか!』はほんの少しだけ期待を捨てきれていないんですよ。諦めではあるけど、でも燕から虎へのアクションを求めているというか、勝手に虎が追い求めているだけなんですけど、まだちょっとだけ、燕の存在がないままは生きていけない。

ちなみにこの首は悲恋ものの四首で構成されているうちの3番目で、罪を犯した夫がひな(≒田舎とか辺境の地という意味。越前らしい)に流刑で追いやられ、残された妻がその事にめちゃくちゃ悲しんでいるストーリーらしいです。(ざっくりとした解釈)この人の詠んだやつ、なんだかずっと帰らない人を待ってるんだよな……というのを考えるとなんかますますこの言葉選びを意識してるのかなぁって思った。こんないろんな事知ってるとか米津マジ頭いいなぁ……。

空に唾を吐く

で、三度目の『さよーならまたいつか!』の直前、『生まれた時からわたしで居たんだ 知らなかっただろ』で、もはや燕に恋する事をずっと諦めない、叶わない恋だとわかっていても成就出来ないとしても何度だって恋するといった、途中の『しぐるるやしぐるる町へ歩み入る』のフラグ回収、少なくとも「意地でも歩みを止めるつもりはない」って心境への変化がきちんと生まれて、ここでようやく元ネタ(種田山頭火)の意味合いとして動き始める。みたいな。そんなのが最初のサビとラスサビの『空に唾を吐く』の音程の大きな変化とともに感じられるんですよね。

空(天)に唾を吐くって真上に向かって唾を吐いたところで自分に落ちてきてギニャッてなるだけだよみたいな慣用句だけど、最初にギニャッてなった時にはなんか「なんなんだよもう……やだよう……」みたいな感じのニュアンスなのに、最後の方のはダブル中指で唾吐いてる感じがしません?『口の中 はたと血が滲んで』いるのに爽やかやん。振り切ってんな。って感じになっててさ。こんな爽やかに因果応報の慣用句使うシーンあるか?

そんでそんで、最後の『さよーならまたいつか!』にはもう『100年』という言葉が出て来ていないのも作りとしてめちゃくちゃ好きで、この最後の『さよーならまたいつか!』の時には虎にとって100年という年月ではなく何度でも何度でも、『生まれた時からわたしで居』たという気付きがあって、ある種の永遠の再生・復活というサイクル的な何かを悟ったんじゃないかなって思うんですよ。時に縛られず年月なんか無視して、生まれ変わってもずっと虎は燕に恋を繰り返す、しぐるるやしぐるる地獄の先を見る。みてえな。(勝手に歌詞のパズルを組み替えるな)なんていうか、なんていうかすごく良いなって思ったんです……(語彙力の突然の消失)(完)

PVの治安

PVの作りも巻き戻しを何度も繰り返す事によって、荒廃→不穏→日常(→祝賀(花火))になって心境の変化というか、何度も何度もさよーならしてたんだなって。でもってこれからもさよーならするんだろうなって……。割れた鏡にウインクして終わるのかわちぃ。

ここまで継いで接いでして書いたところでようやく『虎に翼』が、女性が初めて女性弁護士を目指すという話なんだというのをチラッと見かけて、だからこんなに治安が悪いんだなって思ったんです。

(ちょっと本当はしっかり見るべきなんですけど、本当に今そういう方向性のものを見るのが(ネガポジ関係なく)パニックの引き金になるのでこの情報だけで推測しますね)(本来は女性当事者として訴えて動かないといけない話だからこそ観るべきというのはわかっているんですけど、長らくそうしてきて、学習的無力感でメンタルが追い込まれての入院手前なんですぅ……)

女性弁護士というか、弁護士に限らず(ほんの少しずつでも状況は変わっているとはいえ)どの分野どの世界においても、女性が声を上げるってだけでそれはもうなんていうか『奴隷ごときが反抗しやがった!!!』の扱いじゃないですか。昔なら尚更その風潮は強かったと思うんですよ。三つ指ついておかえりなさいませお風呂ご飯それとも私ってしながら家に縛りつけてってのがごくごくごく最近までの常識で、(たった30年前の母でもその常識だったんだぞ)

そんな中で女性が弁護士になる、女が教養を得るそのものが悪とされてい“る”(現在進行形だよ)レベルの世界で女が口答えをする職業に就くつもりか!!???って、マジでギャングみたいな扱いになってい“る”と思うんですよ。知らないけどさ。(というかギャングなのかもよくわかってないんだけども)(乗った車、犯人側のだよな……?)

で、そういうのを一進一退し続けてて、本当ーーーに数秒巻き戻しては進んでっていうPVがどんどん治安を取り戻していくし、米津も(服は派手だけど)ギャングではない人間として歩いているのとか、で、歌詞はまだまだ虎は燕を見上げていて、空に血の混じった唾を吐いているのとか、その空っていうのはまだまだ女の社会的地位を保障されてない世界なんだろうなとか、でも中指立てているんだろうなとか(それは立ててないよ)そういうの全部ひっくるめての『革命』とされる前段階の、『反乱』だからこの治安の悪さなのかなって思いながら一日中PVを観てました。

ほしリス。

くりゃれー。


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