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2.景義先生とステーキ

 正気のはずなのだ。正気でない人間は皆そう言う。むなしい自問自答を繰り返すが、目の前には取り返しのつかない光景が広がっている。むせ返る血の匂いは牛ステーキを噛み締めたあの味に似ていた。私は口の中に溢れた唾を飲み込んだ。──食欲。人間にはいくつかの欲求があり、性欲と食欲と、あとは何だったか。始めに性欲を満たされた私は死んだばかりの肉の、不味そうな細い腕の皮を丁寧に剥がして、切り分けた赤身にかぶりついた。

 期待以上の味だった。舌の違和感に気付く。ありえない。その肉は絶妙に味付けされていた。シンプルな塩コショウに加え、ほんのり香るバターとニンニクと炒めた玉ねぎの旨み。決して高い値段のステーキではないが、値段の割に美味いじゃないか、と評価される程度の味と弾力だった。じゅっと付けた焦げ目の香ばしさすらある。私は無我夢中で景義先生を食べ続けた。夕暮れが終わったばかりの明るい夜、外からは部活帰りの少年たちの、賑々にぎにぎしい声が聞こえる。

 切れ味の悪いナイフにうんざりし、そのうち手掴みで貪りはじめた。休みなく動く私の口は脂と血にまみれ、ネクタイはひん曲がっている。やがて味に変化を求め辺りを見回す。ダイニングテーブルの上に倒れた醤油びんを見付けると、握った足首を溢れた醤油溜まりに付け、音を立てながら肉を啜る。悪くない。その傍らにあるチューブのわさびに手を伸ばし、絞ると、む、ぷ、とやや水分の飛んだわさびが醤油の中に落ちた。肉の断面でそれをよく伸ばし、食す。やや気の抜けたわさびだが風味付けには事たりる。

 ──やがて肉を食べ尽くし、どうやら再び日が上り始めているようだった。傍らには食べ物ものが落ちている。その、首が、こちらを向いて優しげに微笑んでいた。
「ひっ」
私は全身を赤く染めたまま外に飛び出した。一目散で走り去った。否、腹がつっかえて、前が見えないほどのけぞりながらどうにか小足でちょこちょこと逃げた。いつまでも景義先生のくすくすと笑う声が聞こえる。
「気を付けて帰るんだよ」
景義先生は幼子に言い聞かせるように言った。耳元にねっとりと絡みつく声に、満たされたはずの二つの欲求がむくむくと膨れ上がった。歩くたびに揺れ、吐き戻しそうになるにも関わらず未だ肉を求めている。腹に隠れて見えないがは元気よく上を向いているだろう。歩きづらいのでよくわかる。

「きみったら、ずいぶん食いしんぼうなのだから、ふふ、可愛かいらしいねぇ」
急激に腹が鳴る。ぎゅるぎゅると消化が進み、便意に襲われる。先生の元へ戻ろうか、そんな気持ちに抗いどうにか自宅へ向かって歩き続けて、朝になった。家の便所が詰まるほど出した。急激に腹の中身が出て行って、ぐう、と今度は控えめに音がなった。さあ、朝食を食べねばならない。


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