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7.景義先生と蛞蝓

 景義先生は蛞蝓なめくじに似ている。石をおぞましさと、ぬらぬらと粘液を纏う艶かしさが、あの愉しげに笑う姿を彷彿とさせるのだ。妙に柔らかく、力を入れれば軽く潰れる感触も、例えばスコップを土に突き立てた時、そのついでに呆気なく死ぬ様子も。そう思いながら、娘と一緒に幼稚園の畑に居た。土の上で二つに分かれたを両手に摘み、黒い瞳でしげしげと眺めている娘からもっともらしい理由を付けてそれらを取り上げ、端の端の方へ埋める。植えたばかりの苗木はその凄惨な出来事などどこ吹く風で、そよそよと揺れていた。

 参観日。子供らしい字の名前プレートを苗木のそばに挿して軍手の土を払う。五月初めのかっかと照りつける太陽。赤らんだ娘の額をタオルで拭い、あどけなく笑う娘とピントの合わない苗木の写真をさっさと撮っていると、二つ隣の苗木の親が話しかけてきた。その隙を見て娘は元気よく駆け出したが、向かう先は担任の背中だったので問題はないだろう。

「風は冷たいのに、夏みたいな太陽ですねえ」
当たり障りのない話を二、三交わしてから、男が本題に入った。耳打ちをするよう軽く手招きをするもので、首を寄せたが、男の麦わら帽子のつばが大きく、軽くぶつかる。慌てて男は帽子を脱ぐと、辺りを少し見回してから小声で話し始めた。
「景義先生、って、知ってます?」

ぎくり、と背中に嫌な汗が伝った。噂をすればである。どう返答するか迷う間もなく男は言葉を続ける。
「子供がどうやら世話になったらしいんです。今度なにかお礼に行こう思いまして。ただ……」
「ただ?」
「子供があまりその人の事を話したがらないもので、何かあったのだとしたらと思うと、気が気でないんです。相談出来る人がいればいいのですが、最近こちらに越してきたばかりで……」

子供の頃の記憶がじくりと思い出される。景義先生が幼稚園児にまで手を出すような鬼畜生には思えなかったが、考えてみれば私だって、景義先生との付き合いは随分と幼い頃からの話だ。周りの友人連中は更に先に、自分を置いて垣根を越えていくのを何度も見ている。何より、妻の件もある。非現実な妄想であると笑って欲しい。けれどあの家ではそれがいつだって当たり前に起こるのだ。もし己の知る光景が子供や妻の身にも等しく降り掛かるのならば、恐らくは。

「……大変ですね。でも、安心してください。景義先生は優しい方ですよ。私も子供の時分からずいぶんと世話になっています」
流暢な台詞は、耳よりもやや遅れて脳に響いた。それは信じ難い事に、自分の声帯を通した、自分の声であった。今、何を言ったのか。しかし困惑する私の精神とは関係のないところで、笑顔を添えて言葉は続く。
「まあ、少し茶目っ気があるところはありますが、子供好きの親切な人です。妻と知り合ったのも景義先生の縁あっての事でして」
嘘は言っていない。が、騙しているのは確かだ。ここで彼を止めなければ、恐らくはパパ友から穴兄弟になってしまう。竿の方だろうか。

──けれど最後まで、警告するための言葉を吐くことは出来なかった。相手の気を遣って、でも、景義先生への遠慮、でもない。奇妙な感覚にぞくぞくと鳥肌が止まらないが、男がその様子に気付く事はなかったようだ。
「それは、すみません。気を悪くしないでくださいね。新しい環境で娘も僕も少しナーバスになっていたのかもしれません。今度挨拶に伺おうと思います。ありがとうございます」
「いえいえ、何かあったらまたお話ししてくださいね」
私は罪悪感と、少しの仲間意識を持って、男の足元にあるネームプレートを確認する。
「ええと、つばめちゃんにも、よろしく」

 話し終えたちょうどその頃に、担任から親の群れに向けて集合の合図があった。娘の隣に、日陰を作るように座りながらスポーツドリンクを差し出す。足元には二つに分かれた蛞蝓が、妙に写実的に描かれていた。そしてそこに新たにスコップで人が描き足されていく。蛞蝓と同じ大きさで描かれたその人型を、描き終えるなり、娘はその胴体に向かって強く剣先を立てた。
「これはねぇ、かげよしせんせい」

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