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スポットライト症候群

 スポットライト症候群《シンドローム》というものがある。一度スポットライトを浴びてしまうと、その快感を忘れられず、もう一度、舞台へ立たずにいられない病気である。かつては、スポットライト症候群はただの俗語、病気でもなんでもないと言われていた。2800年、ある大スターが、引退後、壮絶な見た目になって再び舞台へ上がるまでは。

 アルフォンス・グレゴリウスは二十九歳の美しい青年だった。切れ長の鋭い目つきは見るものを圧倒させ、彫刻のような肢体は蠱惑的だった。共演した恋人役の女や男がアルフォンスに魅了され、次々と交際を申し込んだという。その度に彼は事務所の意向を伝え丁寧に断り、しばしばフラれたもの同士での決闘や、慰め合いをスキャンダラスな記事で見かけることもあった。そのうちに仲良くなった者らが結ばれ、結婚する事もあったため、アルフォンスは恋のキューピッドである、天使であるからして、人間と恋仲になどならないのだ、とまことしやかに囁かれる事すらあった。

 アルフォンスは三十歳になるのを待たずして忽然と姿を消した。ちょうど主演を務めていた舞台『トートロジー』の千秋楽が終わって三日後のことである。表舞台から去った、だけではなく、マネージャーや家族すらアルフォンスの行方を知ることはなかった。余りに突然のことに、世間はずいぶん長いこと騒いでいたように思う。誘拐、殺人、異世界転生、などと噂されたが一向に足取りを掴めないまま20年が過ぎようとしていた。

 それだけの時が過ぎてしまえば、大抵の人々の記憶からは薄れそうなものであったが、アルフォンスはそうはならなかった。彼は新たな宗教の神となっていた。神となったアルフォンスは、舞台上の最期の姿である全裸で、光輪を背負い、悩ましげな姿で描かれることが多かった。かつてのファンやそうでもなかった信徒どもは、全裸を正装とし、アルフォンスのデビューシングル『You aren't me』を聖歌とし、アルフォンスがテレビで見せたお茶目な仕草を祈りのポーズに定めていた。

 ある日の事だった。アルフォンス教の教会であるアルフォンス・ミュージックホールの舞台で、信徒がアルフォンスの生誕を祝い、全裸で聖歌を歌っていると、舞台の中央、アルフォンス像の御前に、突如として毛むくじゃらの浮浪者が飛び込んできた。余りに突然の事で誰も彼もが呆然とその場に立ちすくみ身動き出来ないでいると、浮浪者はその場からマイクをひったくり、見覚えのあるポーズを取り囁いた。
「You aren't me」
その声は紛れもなくアルフォンスの声そのものだったが、あまりの見た目の変わりように、やはり誰一人動く事は叶わなかった。

 アルフォンスはシャウトし、華麗なパフォーマンスをキメて、マイクを足元に置いた。誰に邪魔される事もなく全てを終えたアルフォンスは、静まり返るホールから何も言わずに立ち去った。彼の通った道には腐った雑巾のような臭いがうっすらと残っていた。再びアルフォンスの姿が見えなくなると、信徒たちは気が狂ったように泣き叫び、奇跡に感謝し、セックスをした。彼らにとってそれは、アルフォンスへの最上級の祈りだった。彼の手にしたマイクは神器としてアルフォンス像に添えられた。

 なんという事はない。アルフォンスは、何のしがらみもない世界を求め、子供向け美容整形キットを使い、この世から消えただけであった。美しい顔は彼にとって呪いでしかない。どこへ行くにも人の目に怯え、愛する人は憎きライバルとどういうわけか結婚し、会話するたびに気を失う熱狂的なファンどもを物理的に乗り越えて歩かねばならなかったのだから。子供にも簡単に扱えるよう進化した美容整形キットは、歩きながらでも容易に扱うことができた。アルフォンスの瞳はぎょろりと大きく開き、品のいい小さな口は狼のように裂け、天使の羽根にも似た白銀の巻き髪はピンクに縮れたタワシになった。そうして、アルフォンス・グレゴリウスは姿を消したのだった。

 しかし、スポットライトは彼を舞台へ呼び戻した。20年もの間、彼は耐えていた。びかびかと光る照明により春の木漏れ日のような温度となった舞台。スポットライトが己を貫く瞬間の、大波のような唸り。負けじと、どおどおと大音量で鳴るBGM。そのどれもが、彼を舞台へ引き摺り込まんと舌舐めずりしていた。浮浪者であっても等しくアルフォンスを愛することが許されていたので、彼は聖歌を聴きにしばしばホールへ足を踏み入れていたのだが、20年経ったその日、ついに舞台へ駆け上り、歌ってしまったのだ。終わった、とアルフォンスは後悔した。そして、ホールを立ち去った。それからアルフォンスは下水道の中で永遠の眠りについた。

 しかし信徒たちは、いつまでもアルフォンスの帰りを待っていた。アルフォンスが最期に歌ったスポットライトの下で、代わる代わる祈りを捧げた。祈りを待つ列は街を二周するほど長く続き、その列は絶えることなく循環し続けていたことから、政府はこの狂信者どもの振る舞いを心理的な病であると発表し、この病に『スポットライト症候群』と名付けた。スポットライト症候群の患者はみな一様に幸福そうである。

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