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もの思う人、誰か自殺を思わざる。

先日読んだ川端康成の『美しい日本の私』の中で、芥川龍之介のこんな言葉が引かれていた。

「僕の今住んでいるのは氷のように澄み渡った、病的な神経の世界である。(中略)僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はこういう僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を嗤うであろう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。」(末期の目/芥川龍之介)

芥川は、いつも必要なことだけを平易な言葉で語る。

死に近づくほど、世界は美しくなる。
詩人やアーティストが短命なのは、美を追求した結果『末期の目』を手に入れようとしてそのまま崖から落ちてしまうということなのかもしれない。

この引用に続けて、川端は
『もの思う人、誰か自殺を思わざる。』
と表現している。

人が何かを考える先には、必ず死がある。

それがすべての終着点だからだ。

***

死について考えるなら、もうひとつ避けては通れない本がある。

武士道とは、死ぬことと見つけたり

で有名な「葉隠」だ。

よくこのフレーズを、今日死んでも後悔のないように1日を生きようという風に解釈している人を見るけれど、ここで書かれている本質は『死を意志によってコントロールすることによって自由になる』ということだと私は捉えている。

葉隠の中に「大雨の戒め」という一節がある。

大雨の感と云ふ事あり。途中にて俄雨に逢ひて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下などを通りても、濡るることは替わらざるなり。初めより思ひはまりて濡るる時、心に苦しみなし、濡るることは同じ。これ万づにわたる心得なり。

予期せぬ雨に降られて走ったところで、濡れることには変わらない。しかも走って避けようとした分だけ、「うわ〜濡れちゃったよ」と不快感が生まれてしまう。しかしはじめから濡れることも受け入れて外を歩いていれば苦しみも生まれないのだ、という教えである。

人生における不幸や不運は、俄雨と同じで急に降りかかってくるし私たちは反射的にそれを避けるために走って逃げようとする。しかし完璧に回避することはできないし、もがけばもがくほど、恐怖心や後悔、恨みつらみといった悪感情ばかりが増幅していく。結局降りかかってくるものならば、無駄な抵抗をせず受け入れる方が心が乱されることもない。

そして人生に降りかかる最大の不幸こそが「死」であり、武士はいざという時には自ら命を絶つための方法を会得することで、人生最大の恐怖と不安を自らのコントロール下に起き、どんな「俄雨」に降られても動じない精神を養う。

つまり武士道とは死を語ることでよい生き方を指南する本なのだと思う。死と生はつねに表裏一体である。

***

「もの思う人、誰か自殺を思わざる」と川端康成は言った。

しかし、一方で芥川の自殺に対しては
「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」
と書いていた。

芸術家であれば死に肉薄することは避けられない。しかし、あくまで自殺は賛美されることではない、と。

彼が晩年自らの手で命を絶った(とされている)ことを考えると、現代における自殺とは武士の世のような意志ある死ではなく、忍び寄ってくる悪魔のように本人の意志では逃れようのないものなのかもしれない。

芸術家たちの死について考えること。それは自らの生き方を省みるきっかけでもある。

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