誰かに「語る」ことは、必ずしも共感を伴うことではない(野球に関する個人的な話)
人間が二人以上いて、誰かが口を開き、それに誰かが応じたのであれば「会話」が成立する。その人たちの関係性によって会話の目的は異なるから、その性質は状況によって様々な色合いに変化(へんげ)する。
「語る」ことは難しい。社会人経験をそれなりに積み、どんな風に会話が分岐していくかイメージはつくようになったことは確か。「緊張する」こともあまりなくなり、それなりにフラットに会話に臨めるようになれたと思う。だけど正直「語るのは苦手」という意識は拭えていない。
それってなぜだろうと思う。