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4つのことをどのように愛するのか

世の中には多くの学問と芸術が存在している。この中でも劇薬ともいえる相性が悪いというか、それらの習得には負荷がかかり、すでに異次元ともいえるものも存在している。その例を挙げると次のようなものがある。

・音楽と美術
・哲学と物理学
・数学と美術
・社会学と音楽
・行動経済学と投資
・運動と学問
・運動と芸術

この7つは最低挙げられるであろう。中にはえ?これ普通に相性いいけど?と思うものもあるだろう。しかし一般的にはそうであっても私の主観的な感覚でいうならそうではない。たとえば、音楽と美術は私にとっては苦労したし、両方まだ出てきているとはいいがたい。また、片方に集中しているともう片方がだめになるということがあり得る。昔わたしは美術をやっていたけれど、音楽の良さに惹かれここまで数十年とやってきたが美術のデッサンは腕が落ちてしまったと感じる。このように「劇薬」とか「電離度合」とか、「相性の悪さ」などと称している理由はここにある。

 たとえば時間芸術である音楽は、言語性を持ち空間認識に影響を及ぼし、相性が悪いと思うし、空間芸術である美術は、非言語性の空間認識を持ち言語性に影響を及ぼす。このことから、難易度を急激に上げていると考えられる。数学と美術は「算数と数学はアートである」という本から伺えるように確かにそのプロセスとやり方は非常に似ている。また、将棋をできるひとは数学が得意なんてこともあろう。私としては特に、平面図形と空間図形が美術と相性が良いと思っている。というのも問題文が一体、どんな図形を示しているかを描くということがまさに美術でいうところのこの物体や人物はどのような描き方をするのかということと同じであるからだ。ただ、問題文が一体どんな図形を示しているかを描くというときに必要になるのがある程度の国語力なるものが仲介しているのもたしかであろう。

 哲学と物理学にしてもみても、物理学者と哲学者の対談にあるようになかなか面白い化学反応が起きるところをみてとると、たしかに違いがあるが、同一の源泉を持つようにもみえる。また、行動経済学と投資なんてものや集客、マーケティングと行動経済学は相性が良さそうにもみえる。

 ただ言えるのはどの分野を飛び越えてするにしても、脳が違う部分を使用しているから、カテゴリー化されて、わかりやすくしているところがあるだろうということだ。つまり、うまくいけば脳全体をうまく刺激できるということである。社会学と音楽にしてもある程度正しい音や良識があるのが普通であり、それを美的感覚で探るということが共通している。このことは行動経済学と投資が美的感覚で探るというところで共通しているだろう。また、中野信子さんの会話の中であったものとしても、経済的な感覚と倫理的な判断は、同一の脳部位を使用していることから、美的感覚が必ずしも、間違いということではないのである。社会学と音楽をみても、その言語性と知識の使い方は、共通のところもあろう。知った知識で何を語るのかと、知っている音楽で何を奏でるのかは、同一の源泉があるような気もしない。哲学も物理学も、真理の探究という意味では理学的な特徴を持ち同一の源泉を持つものであるといえる。
 このようなことから、事実、真理、善、美はどのように愛するかによって各学問や芸術、運動に成り代わっただけとも言えなくはない。事実と真理と美をどのように愛するかなら、数学、物理、化学、地学、生物だかとか、真理と美をどのように愛するかは、美術であるとかそうしたこの4つのことを組み合わせて、どのように愛するかということが各分野にカテゴリー分けされているとも逆に言えなくもない。カテゴリー化されたゆえんがつまり、愛し方の違いでわけられた、ともいえる。

そんなこんなでこのnoteで言いたかったのは、そうした相性の良しあし、対になることがあれど、それらをよりよく結びつけ完成させたいということだ。


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