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現代の量子ネイティブと、タイムマシンで現れたA.アインシュタイン、そしてJ.S.ベルとの対話 -実在論者を追い詰めた、量子もつれの存在-

ある日、大学の講義で現代的な量子力学を学んで量子ネイティブとなった物理学徒が、タイムマシンから降りてきたアインシュタインとベルに呼び止められる。そして21世紀の量子力学について教えて欲しいと頼まれる。そういう設定で、今回は実在性のお話しをしてみましょう。

J.S.ベル(1928-1990)とA.アインシュタイン(1879-1955)

アインシュタイン「通訳機能はうまくいってるかな?今は何年ですか?」

物理学徒「2024年ですよ、アインシュタインさん。はじめまして。」

アインシュタイン「おお、うまくいきました。君は量子力学を習った人ですね?すこしお話しさせて頂いてよろしいですか?こちらはベル不等式を発明したベル君です。」

ベル「いきなりの失礼ですみませんが、あなたは本当に実在している人間ですか?いえ、疑うわけではないのですが、タイムマシンに乗ってきた実感がまだ湧かないもので。。。」

物理学徒「ええ、少なくともベルさんの頭の中にいるVRではありません。証明はできませんが。AIでもない。肉体をまだ持っている人間です。こんにちは、ベルさん。」

物理学徒「先日大学の講義であなたのベル不等式、というかその簡略版のCHSH不等式を教わったところでした。我々という存在は実在ではなく、量子情報なのだと知り、自分の自我が崩壊しそうになるほどの強い衝撃を受けました。そして私にとっての世界の見え方が一変しました。」

ベル「えっ … あなたは何を言っているのですか?例えばあなたは、あなたが見上げているときだけ月が存在していると、本気で信じているのですか? …  アインシュタインさんもおかしいと思いますよね?」

アインシュタイン「… ベル君。さっき途中で君からベル不等式の簡単な概略と、実験でそれが破れていた事実を聞いて、実は今非常に悩んでいます。その結果は、実在はないと言っているように思えるので。。」

ベル「何をおっしゃるのですか!あれは局所実在を否定した実験に過ぎません! 私の理論と合わせると、実在は非局所的なものだと証明されただけです。それは非常に奇妙なものですが、実在は実在のままです。」

アインシュタインは物理学徒に振り向き、言った。
「すみません、君はちょうど講義で習ったところですね? その21世紀の量子力学の解説を少ししてくれませんか?大学で習ったことを。」

物理学徒「ええ。おやすい御用です。」

物理学徒は教えてくれた大学の教員がそうだったように裏表をもつコインを例に使って、二人にCHSH不等式について話し出す。

物理学徒「まず2枚のコインを用意します。それをYとZと呼びましょう。Yが表のときには、Y=+1とします。また裏の時には、Y=-1とします。Zについても同様で、表ならばZ=+1、裏ならばZ=-1とします。すると表裏の組み合わせで合計4個の場合があり得ます。それを私のiPadに描いておきますね。」

物理学徒はカバンから取り出した自分のiPadに次の図を描いて、彼らに見せた。

図1

アインシュタイン「2つのコインとも、表か裏か、はっきりとしたその値をもっているという条件ですね。自然だと思います。」

物理学徒「ええ。そしてこの2つのコインをそれぞれ、こんな感じに箱の中に入れて見えないようにします。」

物理学徒は2つの箱を描いてみせた。そして片方には「Y」と書き込み、他方には「Z」と書いた。またYの箱の側面に「Y」と書き込んだ四角を描いて、言った。

図2

「この箱には脇に窓が付いています。例えばこのYの箱の窓を開けると、中にあるコインYが見えます。今は中のコインが表であるY=+1という状態にしてみました。」

図3

「ここで重要な仮定なのですが、Yの箱の窓の蓋を開けると、その蓋は必ず隣接するZの箱を強く叩きます。その勢いでZの箱の中のコインZの表裏はランダムに変わってしまいます。」

図4

物理学徒「裏に回ると、こんな感じにZの箱の扉が見えます。」

図5

「そしてZの箱の窓を開けると、中のコインZが見えます。Yの箱の窓の扉に叩かれたため、コインYの観測後にコインZが表である確率は50%、裏である確率も50%になっています。」


図6

「Zの箱の窓を開けると、後ろ側のさっきのYの窓は自動的に閉まります。そしてZの窓の蓋に叩かれて、さっき見たはずのYの箱の中のコインYもランダムにひっくり返ります。先にYではなく、Zの箱を開けてコインZの表裏を確かめるときも同じです。Zの箱の窓の扉はYの箱を叩き、中のコインYの表裏を変化させます。」

図7

「裏に回って、Yの箱の窓を開ければ、やはりコインYが表である確率は50%、裏である確率も50%です。ここまで大丈夫ですか?」

図8

アインシュタインとベルは黙ってうなずいた。

物理学徒「もうお気づきかと思いますが、これは粒子のスピン測定で、y成分とz成分が同時に測定できない状況を模した設定です。」

物理学徒「では、これからこのコインに対するCHSH不等式を導きます。地球に居る実験者アリスと月に居るボブを思考実験として考えます。2024年現在では、まだこの地球と月の実験は実現できていませんが、近年の宇宙開発技術の進展で、やがてこういう実験も実際にできるかもしれません。実際のCHSH不等式の破れの実験は、ご存じの通りコインではなく、光子などの素粒子を使い、また地球上の2か所の実験室を使って行われています。」

「アリスは手元に2枚のコインYとZを用意し、ボブは2枚のコインY’とZ’を用意します。それらを各々先ほどの箱に入れて隠します。」

図9

「箱の中に入っているコインの表裏を表すY=±1などの値は、測定前から確定をしている実在だとすると、こんな感じの16個の場合のどれかが実現していることになります。つまりこのYやZの値を、ベルさんの隠れた変数として扱うのです。」

図10 隠れた変数理論でのコイン配置の例

「なお細かいことですが、YとZは粒子のスピンでいうとそのy成分とz成分です。でも月面でのY'とZ'は地球のy方向とz方向から45度ずれた方向のスピンの成分に対応しています。」

「次にアリスやボブのほかに、中立的な実験家チャーリーが居て、アリスの2枚のコインとボブの2枚のコインの組を合計N個用意して、N組の箱のそれぞれに入れているとします。アリスとボブは各箱の中のそれぞれのコインの裏表を知りません。そしてアリスとボブは、ある時刻に同時に2つのうちの1つの箱を選んで、中のコインの表裏を確認します。二人はそれをチャーリーが用意した箱のN組全てに対して行います。」

「ここでコインの表裏の分布に関する割合を導入します。チャーリーがY=+1,Z=+1,Y'=+1,Z'=+1というコインの組をn(+1,+1,+1,+1)個用意します。同様にチャーリーが用意する、Y、Z、Y'、Z'という値をとっている組の数を、一般にn(Y,Z,Y',Z')と書くことにします。すると各コインの裏表の組み合わせに対しての割合はこの式のように書けますよね?」

(1)式

アインシュタイン「そうですね。これは0と1の間の値をとる分布関数で、Nを無限大にする極限では、Y、Z、Y'、Z'の値の出る確率p(Y,Z,Y',Z')になるというわけですね。」

物理学徒「そうです。ですからn(Y,Z,Y',Z')の全ての和はNに一致し、そして割合の和は1になります。」

(2)式

「そうすると、アリスとボブが選択をして実際に観測をする2つのコインの各場合での割合も、こんな感じに計算できますよね?」

(3)式

ベルは「合っている」とうなづき、アインシュタインも同意した。

物理学徒「アリスとボブが実験できるのは、次の4つの状況のみです。アリスがY、ボブもY'。アリスはYのままだけど、ボブはZ’を選んだ。今度はアリスがZを選び、ボブはY’のまま。最後にアリスもボブもZとZ’を選ぶ。合計4つ。」

図11



図12



図13



図14

「この実験で、各々コインの裏表に対応する値の掛け算をしたものの平均値は次の式で定義されます。これも合ってますよね?」

(4)式

アインシュタインとベルはうなづく。

物理学徒「ここで例のCHSH不等式のDを、こういう風に定義をします。」

(5)式

「この平均値はさっきの割合を使ってもちろんこう書けます。」

(6)式

「Nを無限大にする極限では、この平均値はDの期待値として解釈できます。このDはこのような4つの寄与の和ですが、各寄与はそれぞれ実験で計測できます。」

(7)式

「そしてDの平均値も、それぞれの4つの寄与の平均値の和として確定しますよね。」

(8)式

物理学徒「さあ、ここまで来たら後は簡単です。Y’とZ’が一致すればY’-Z’は零ですが、Y’+Z’は+2か-2です。同様にY’とZ’が一致しなければY’-Z’は+2か-2ですが、Y’+Z’は零です。ですからDは+2か-2の値しかとれません。そのDの平均値も必ず+2と-2の間の数にしかならないはずです。これがCHSH不等式です。」

(9)式 CHSH不等式


物理学徒「一番大きな値である+2を達成することも可能です。例えばN個全部をY=Z=Y'=+1,Z'=-1にチャーリーが用意すれば、確かにDの平均値も+2になります。」

(10)式

アインシュタイン「明解に教えて下さって、ありがとうございます。全く正しい議論だと思います。各コインの表裏が実在だったら、確かにCHSH不等式は成り立つはずです。」

物理学徒「でもこのコインを例えば光子のスピンに置き換えた全く同じ構造の実験をすると、CHSH不等式は破れていたのです。光子の間の量子もつれを使うと、Dの平均値の絶対値は2より大きくなったのです。そしてCHSH不等式の代わりにチレルソン不等式と呼ばれる量子力学の予言通りの結果が得られました。」

物理学徒は満足げにiPadへチレルソン不等式を書いて、笑顔で二人に見せた。

(11)式 チレルソン不等式

物理学徒「光子のスピンがもし測定前から確定をしていた実在だとしたら、こんなことは起き得ません。つまりスピンの値は物理的な実在ではなかったのです!」

アインシュタインは黙り込んでしまった。でもベルは顔を真っ赤にして反論を始める。

ベル「つまり光子などの素粒子の実験をこのコインの例に翻訳すると、2以下なるはずだったDの平均値の絶対値がその限界を超えて大きくなったというのだね、君は!」

物理学徒「そうです。つまり量子力学の勝利です!」

ベル「しかし、その結果を実在性の否定と捉えるのは論理的に間違っている!実在は実在するのが自明であって、実在しないわけはないのだ!このコインの例でもDの平均値や期待値の絶対値を2より大きくすることは可能だ!」

アインシュタイン「ベルさん、もっと聞かせてください。」

ベル「ええ、いいですとも!まずアリスが例えばYの箱を選んで、コインYを測定してそれがY=+1だったとすると、その情報がアリスやボブに知られることなく、ボブのコインY’とZ’に伝わって、その値をある確率で書き換えるとするのです。アリスの測定がボブに影響を与えるのです。」

アインシュタイン「でもそれでは相対論の因果律を破りますよね。アリスは地球に、ボブは月に居ます。アリスの測定の影響が光の速度を超えた速さでボブのコインに伝わってしまいます。」

ベル「ええ。でも仕方がありません。それが自然の法則なのですから。」

アインシュタイン「でも他に知られている物理現象で相対論的因果律が破れている例はないですよ。」

ベル「物理学は常に進んでいます。人間や他の物理現象に影響を与えずに、コイン同士では超光速の影響が出るのです。またそうであれば、コインの裏表の値は実在であり続けます。」

アインシュタイン「それには、私は同意しかねます。そんな変な実在を持ち込んで理論を書いても、美しい解とは成り得ませんので。」

ベル「相対論的因果律を破るのがお嫌やでしたら、超決定論ではどうでしょう?superdeterminismというやつです。」

アインシュタイン「それはどのような考え方ですか?」

ベル「CHSH不等式の破れを説明するのに、コインの裏表の値の実在性と相対論的因果律は仮定します。量子力学の背景には複雑な決定論的存在があって、宇宙の始まりからその運動は不確かさなく、一意的に決まっているとするのです。完全なる決定論です。そして人間には自由意志もなく、N組あるアリスとボブの箱の或る1つの組に対しても、アリスがYの箱を選ぶのかZの箱を選ぶのかは事前に決まっていたとするのです。そしてその選び方は無意識のうちに偏っていて、実験結果を説明できるように、必ずDの平均値の絶対値が2より大きくなっているのです。宇宙の始めからアリスとボブの意志は、私の不等式を必ず何回でも破るように設計されていたのです。そうであれば、特にアリスとボブのコインの間に超光速で伝わる影響を考えなくて済みます。」

アインシュタイン「でもそうだとすると、何故そのような宇宙の初期状態が選ばれたのかという問題が生じます。問題の先送りに過ぎないのではないですか?カオス理論も考えると、アリスとボブの意志決定が実験と合うように不等式を破るためには、物凄い精度で宇宙の初期状態を微調整しておかないとうまくいきません。また何故そこまでして、決定論であることを自然界がアリスやボブに隠そうとするのかが全く理解できません。それはまるで陰謀論のようです。」

物理学徒「私は、アインシュタインさんに同意します。またCHSH不等式を破るように宇宙の初期状態は決まっているのに、何故チレルソン不等式は守るようになっているかの説明もないですよね。その超決定論では。」

アインシュタイン「うーん。… どうもベルさんが薦めてくれる実在論は、いかにもご都合主義で全く美しくありません。少なくとも私が求めている実在論からは程遠いです。私は実験結果を尊重をします。今のところ、私は友人ボーアが言っていたことが正しかったのではないかと、考えを変えつつあります。」

ベル「そんなっ!私はアインシュタインさんの、実在がないわけはないという思想に大きく影響をされてきたのです!原子論のときには成功したことを忘れましたか!!ボーアやマッハを本気で信じるとでも言うのですか!?」

アインシュタインは黙ってうつむいたまま考え事をしつつ、再びタイムマシンのドアへと一人で歩きだしていた。それに気づいたベルも慌てて、彼の後を追った。

一人残された物理学徒は、夢でも見ていたのではないかと思ったが、彼らに見せたiPadの図や式はしっかり手元にあることに気づき、彼らは自分にとっては「幻」ではなかったのだと満面の笑みをこぼした。彼らが「実在」でなくとも、どうでもいいことだった。

         (J.S.ベルとA.アインシュタインの写真はwikipediaより)

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