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終焉

 もう何もやれない。できない、と言い換えることもできるがそうではない。何もできないのである。
 人は朝日が昇れば起床し、日が沈めば就寝する。これがごく一般的な生活リズムであるというのは世界共通である。果たして自分は、そこに適応できずにいるのである。
 昼夜逆転そのものはさして珍しくもないだろう。しかしながら、自分は昼夜逆転しているにも関わらず、夜間にさえやりたい事が一切存在しないのである。
 眠るだけ。眠るだけしか自分にはできない。アルバイトではどこにも必要とされず、社会においては不必要だという烙印を押されて尚、どうして精一杯の生活を送ろうとせねばならないのか。
 精一杯生きるということは、ただただ呼吸をしていれば良いのか。それで精一杯になり得るのか。それならば、苦労は美徳足り得ない。汗水を流して、疲労感を得ることにより人は初めて満足と苦労という感性を獲得することに間違いはないだろう。
 だが自分の場合はどうだ。せっかく汗水を流して社会従事をしようと意気込んだというのに、その全てにお前はこの場に不要な存在だと言われたのだ。これはもはや死ねと言われているようならものではないのか。
 いいや、探せば仕事などいくらでもあるのは理解している。だがその理屈を持ち出すのは愚行だ。確かに、真に何もできないというわけではない。だがしかし、しかしだ。自分の持つこの病気はどう説明するのだ。
 病気のせいで社会生活ができないとでも言いたいのか? ああそうだとも。自分は病気だからまともな社会生活を送ることが不可能なのだ。
 そこまでして、この病人を社会に進出させたいか。ならばいっそ殺せ。死んだ方が幾分楽であろう。こんなの生き地獄だ。

 実はここ最近、記憶の維持力が著しく低下しているような気がする。
 たとえば昨日、実家で食事会をするというので行った。それは憶えているのだが、どうにも何をしていたのかの記憶が薄い。肉を食べたのだ。それしか記憶にない。自分は、本当に昨日実家に帰ったのか。いやそれは確かなことのはずだ。姉と、姉の旦那にも、自分の両親と妹にも会った。しかしだ、その全員の顔が思い出せない。何を話したのかさえ憶えていない。
 前日に処方薬をODして、そのせいで頭が狂っていたというのが最もな理由としか言えないが、それを抜きにしてもここ最近の自分はどこか何かおかしい。
 世界はいつも通り普通に見えている……と言おうと思ったが、実は少し変なのだ。世界がおかしいのではなく、やはり自分が異常なのだ。
 離人症と言うのだろうか。たとえば自転車を運転していると、ふいに体に軽い浮遊感が現れ、それで危険運転になるほどではないにしろ、同じ現象が徒歩の時にも起こる。
 スーパーに買い物に行くと、店内の光景がまるで夢の中のように見える。

 こんなのおかしいと思われるだろう。自分でも異常に思えて仕方がない。
 人と話していても話が支離滅裂であったり、つまり思考力が以前より低下しているのだ。だがこうして文章を書いている時は推敲をするのだから比較的まともなものが書ける。対人での会話ができなくなってしまったのだ。もう少し具体的に言えば、会話とはその場で速攻的な判断が求められるが自分にはその能力がなくなりつつある。
 薬が大嫌いな親から言わせれば、それの副作用で脳がやられてるんだと言われることだろう。しかしながら実際それも否めない。なぜなら薬を飲み始めてからこうなり始めたのだから。
 しかしそれなら、昔から薬を飲んでいる人はどうなるのだ。たった2年ほど市販薬なり処方薬を飲んだくらいでそうなるのならば、昔から薬を飲んでいる人は廃人になっていなければおかしいだろう。つまりこの理屈は最初から破綻している。もしも自分の頭が狂ったのだとしたら、それはここ2年以内での話に決まっている。昔から薬を飲んでいる人は今頃どうなっているのかを納得できるように説明してほしいくらいだ。

 ああ、だが夜になると少しばかり元気になる。やはり昼間は鬱屈とする。日光は忌むべき対象である。どうして日光が苦手なのかは不明だが、思うに、光そのものやそれに準ずる暑さが苦手なのだ。
 しかし、精神科などは夜にはやっていない。なのでどうしても日中に赴く必要があるのは致し方ない。それは仕方ないことなので許容せざるを得ないのだ。
 先日、以前より世話になっている主治医に、自分はこのような場において自分を取り繕う癖があると打ち明けた。1ヶ月前の受診より、今回の受診では明らかに元気が無かった。それはきっと、主治医もなんとなく様子を見て察していただろう。
 1ヶ月は取り繕っていた。今回は、取り繕えなかった。いいや、そもそも精神科で人格を取り繕うなどあってはならないことなのだ。誤った診断が下されるわけだから、本来ならば嘘は吐いてはならないのだ。だからこれは自分に非があり、そしてその診断は自業自得なのだ。

 結局のところ、自分の病気は寛解できるとは思っていない。そもそもこれは病気ではなく障害であるから、きっと一生付き合っていくものなのだ。
 もしもこれが寛解できるとしたら、大金持ちになって不自由のない生活をすることしか考えられない。世知辛い話だが、お金の余裕は心の余裕なのだ。
 今の自分は、非常におこがましく、そして情けないことにインターネットで乞食行為をしている。こんなことをしていながらも実際に支援をいただいていることからそれは幸せなことではあるが、とどのつまり金銭的な余裕がないからこのような行為をしているわけで、結局は金銭的にも精神的にも余裕が全く無いのである。これが現実なのだ。
 情けないと思うか。自分だって好きでこんな生活をしているわけではない。そもそも好んで貧乏暮らしをしている人などどこにもいないだろう。
 こうせざるを得ないのだ。アルバイトは全て不採用、この社会において適応障害というものを持っている自分は、どうせすぐに病んで仕事を辞めるとでも思われているのだろう。だからどこにも必要とされない。
 インターネットでならば生きられるのかもしれない。しかし、自分はやはり生きるのが下手くそだ。Twitterも何度も凍結させられてしまったし、これからもまた凍結してしまう可能性だってあり得るわけだ。
 せめてYouTubeさえ生き残ればかろうじて生活ができなくもないだろうが、自分はTwitterの方が好きだ。いやだがしかし、何度も凍結させやがるからやっぱりTwitterは嫌いだ。クソだ。
 もっともっと、インターネットを上手になりたい。まだまだ自分はインターネットの使い方が下手だ。だから凍結させられてしまう。結局は、インターネットに蔓延る正義マンに媚びへつらうのが正しいのだと今になって気がついた。
 自分の好きなように生きるのが正解だと思っていたのだが、それは間違いであったようだ。本当に必要なのはインターネットの秩序を維持するべく奮闘と監視をするカスどもに媚びなければならないのだ。
 そもそも利用規約があるからそれに反するのが悪だと言われればそこまでだが、それではセンシティブ設定をつけずにリスカや市販薬の画像をアップロードしているアカウントはどうだと言うのだ。そういったアカウントは何もされずに、かつて4000人もフォロワーがいた自分のアカウントだけが目をつけられて通報されて凍結にまで追い込まれたのだ。出る杭は打たれるのだな。所詮、目立つ人間は嫌われるのだ。嫌われる勇気だとかいう話ではない。嫌われたり、悪目立ちをしてしまったらそこで終了なのだ。まったくくだらないことこの上ない。先述したが、これ自体は利用規約に従わないのが悪いのであるから自分の責任であるのだが。

 しかし何かに媚びるというのはこの人生で最も嫌悪すべき行いであると自負している。自分は他人にヘコヘコしたり、思ってもいない言葉を並べるのが大嫌いだ。たとえそれをしたとして他人の機嫌を取ろうとしよう。それに対する意味合いは、単に接待でしかないだろう。さして好きでもない人間に好かれようとして、それが何の得になるのだ。社会生活においては出世がかかっているだろうからそういった行為は必要ではあるかもしれないが、自分のように自己中心的で社会生活に属していない人間からすればそれはほぼ無意味な行為に他ならない。
 もちろんこんな自分でも尊敬する人はいる。そういった人たちには心の底から嫌われたくない。もしも失望されて縁を切られたらどうしようかと毎日悩んでいるが、悩んだら関係が良好になるというわけではない。悩み、探究し、解決法を導くことが必要であるわけだが、どうも自分は怠慢極まりない性格をしているせいでやはり対人関係の構築が非常に難しい。得に現実では片手で数えられるほどの友人しかいないし、インターネットにおいても同じほどの人数しか知り合いがいない。ありがたいことに全員に仲良くしてもらっているが、やはりその関係もいつ崩れてしまうかは不安である。そもそも初めから崩壊を前提とした付き合いなどするべきではないのだが、やはりそういった嫌な想像をしてしまうのは自然なことであろう。
 自論というか、自分からすれば真理であるのだが、たとえば恋愛の行く末とは結婚か破局の二択だろう。そして結婚に至ることなど少ない。ほとんどの恋人は破局するように思える。ここで、ではいずれ破局するのだろうなと思いながら恋愛をするのは大きな間違いだ。初めから破局をするつもりで恋愛をするのならば何もするべきではない。そいつは孤独でいるのがお似合いなのだ。

 なにも生き方自体は数多くある。それこそ自分のようにインターネットで配信なり文章を書いたりすることだって。まあ、その収入などたかが知れているので追求はしないでいただきたいのだが。
 以前の配信で自分は、死にたいほどのストレスを抱えて生きるくらいなら利己的で自己中心的に生きた方がよっぽど良いと発言した。他人の機嫌を取るためにどうして自分の人生を犠牲にしようとするのか理解が及ばない。他人には他人の人生がある。みんなにはみんなの人生がある。たったそれだけのことなのに、どうして他人の生活を優先させようとするのだろうか。
 まずは自分が満足のいく生活を送るべきである。その次に他人のことを考えれば良い。きっと、他人だって同じことを考えているはずだ。だから、隣の芝は青いと言うつもりで、どうしても他人が羨ましく思えてしまうのだろう。他人が羨ましいのならば、他人の芝を真似すれば良い。もしくは自分なりの満足のいく芝を作れば良い。そうすれば少しは生きやすくなるように思える。
 これは自分がおかしいのだろうか。利他的であることこそが日本人の精神性であるというのか。全くもってそれは素晴らしいことだと思うけれども、だからといってその利他のために自らを犠牲にすることに一切の意味合いがあるようには到底思えない。

 それにしても、昼間はやはり精神を病む。日光が苦手なのだ。部屋のカーテンを閉め切っているのだが、窓まで閉めてしまうと流石に暑すぎるので仕方なく窓は開放している。そのおかげで日光が差し込んできているが、こればかりは許容せざるを得ない。最近の自分は潔癖症で、いちいち外に出る度に帰宅するとシャワーを浴びるようにしている。理由としては、少しばかり汗ばむから、それを放置しておくのが気持ちが悪いからである。
 もう外出はしたくない。冒頭にも述べたが、自分は極めて社会不適合であるからして、そもそもさして外に出るような用事は滅多に存在しないのだ。
 なにもお金持ちで、外に出なくても家にいながら食料などを調達できるというわけではない。これも先述したが、自分はここ最近、恥も外聞も捨て去り乞食をしている。
 どうして日光がこんなにも憎らしいのだろうか。しかし社会とは日中に動いているものであるから、夜行性の自分は、やはりとことん社会に馴染めずにいる。こればかりは自己責任であろう。昼間に適応できない自分が悪い。これも適応障害の弊害なのか。

 ストレスのせいか、具合がとても悪い。薬の副作用ではないのは確かである。既に代謝は済んでいるはずだから。
 ニトラゼパムが効かない。しかしデエビゴを飲むと強めの金縛りに遭ってしまう。だがデエビゴが一番よく効く。
 この強力な倦怠感は、やはりストレスだと思いたい。もしくは何かまた他の病気にでも罹ってしまったのだろうか。
 元より自分は怠惰な人間であるからこういった倦怠感は慢性的にあったのだが、ここ数日の倦怠感はやや異常である。
 何かを得れば満足するのかもしれない。そうだな、それならドラム式洗濯機とちょっといい電子レンジとダイソンの掃除機が欲しいところである。どれも庶民には手が届かない品物だから自分にはとても買えないのが残念だ。
 もっと手が届くものであればチョコレートが食べたい。自分は甘いものがとても好きだ。最近はローソンでバンホーテンのペットボトル飲料が販売されたが、それを見かけてすぐに買った。昔はパックで販売されていたが、味が全く変わっていなくて、単に持ち運びがしやすくなっただけじゃないかと思った。それはそれで便利だから良いのだが。

 何をすれば自分は満足するのだろうかと考えている。先程も同じような話題をしたと思うが、たとえばYouTubeやアニメを観たりしても、ゲームをしても、満たされないのだ。現在の自分にはやりたい事が無い。
 虚空の生活を送り、しかし生きるためには食事をせねばならなくて、それ以外に義務的に何かを行なっていることはない。YouTubeやアニメを観たりゲームをすることは義務ではない。
 我が家の冷蔵庫はほんの少しばかり大きい。しかしながら中身は麦茶以外に何も入っていない。これでは電気代の無駄遣いだ。本当に何も入っていないのだ。電子レンジを持っていないので惣菜などを買うこともないし、あの大きな冷たい箱は一体何の目的があってあの場に突っ立っているのだ。

 ああ、つらいね、つらいねえ。日々鬱屈としているこんな人生に救いはあるのでしょうか。神様はいるのでしょうか。いいえ、神様なんていない。もしそのような上位存在がいたのならば、この世はきっともっと豊かになっていたはずだ。貧困、病み、それらが蔓延っている以上、神様などいるはずがない。
 こんな世の中で一体何を信仰したら良いのだろうか。それが自分だという答えは安直すぎる。それは人間という生き物を過信しすぎではないか。確かに人間の世の中においては人間が人間を救済する他ない。その理屈で言えば、ある種人間を信仰するのも間違いではないのかもしれない。
 しかし、自分は人間にそこまでの能力はないと思っている。もしもそこまで完璧な生命体であったのならば、この世からメンヘラは根絶されていなければおかしいのだ。
 精神疾患が進化の過程で取り除かれなかったのはバグであると言う論説があるがそれは違う。精神疾患を持っているからこそ人間は人間たり得るのだろう。さもなければ、それこそ完全な生命体に他ならないと言えよう。

 今現在の自分は、どうにも精神に異常をきたしている上に、脳にも少しばかり異常があるように思える。
 ならばいっそそのまま狂っていたい。気狂いになれば世間一般からは侮蔑されるだろうけれども、現実の生活など知ったことではない。
 自分は、くあちるという生き物はインターネット生物でありたいのだ。
 そのための力はまだまだ遥か遠く及ばないが、現実で努力するくらいならばインターネットで努力する気力の方が俄然ある。
 おかしいと思うだろう。普通は現実を優先するべきで、インターネットなど娯楽に過ぎないのだから。それでも自分は現実が嫌いだ。だからインターネットで生きていく道を、選べるものならばそうしたい。
 これが無謀であるというのは重々承知だ。ならば、インターネット生物であるにゃるらさん(超てんちゃん)の言葉を借りるのであれば「おかしくなったわたしをネットは面白がる」「面白がられたら数字が伸びる!」「幸せなわたしより不幸なわたしを楽しんでくれる!!!」「じゃあ、不幸にならなきゃ」「こうして不幸をアイデンティティとエンタメにしちゃって人は簡単におかしくなっていく」とある。ならば答えはそこにあるのではないだろうか。もう自分は十分苦しんでいる。しかし、まだ足りない。まだ自分は本当の不幸になっていない。苦しみが足りない。もっと、もっと狂気に苛まれなければくあちるは何も成し得ない。
 そうだろう?

 別に、普段のインターネットでの発言は虚言ではない。全て本音だ。苦しい時はきちんと苦しいと言っている。しかし、人によってはそれがただのメンヘラ芸だと思うことだろう。それだって構わない。人が100人いたとして、全員が同じ思考をしているわけではないのだから。
 それに、くあちるの行なっている活動上、やはり少なからずヘイトを買っていることもある。確信があるわけではないのだが、尊敬している人からあまり良い印象を受けていないと聞いた時は「まあ、そうだよな」と思ったと同時に少し悲しかった。
 それに、2度のTwitterアカウント凍結によって、以前フォローバックされていた人から認知されなくなってしまったというのも非常に悲しい。どうしたらいいのかわからないんだ。この話、さっきもしたような気がするな。気のせいかな。

 先日、精神科の先生にも同じことを言った。Twitterの話をしたわけではないけれど、もう人生をどうしたらいいかがわからなくなってしまった、と言った。
 そうしたら薬を増やされた。でも、自分は大馬鹿だから1日で精神薬を全て飲んでしまった。そのせいでラリって、インターネットで仲良くしていた人に変な文章を送ってしまったし、本当に自分は最低だ。
 たすけて、なんて言ってもそれは難しいだろう。
 2年前に未遂をした時は家族は心配してくれたが、今となっては別にこいつはしぶとく生きるだろうとでも思われたのか、対して助けてくれなくなった。もし本当に死んだら深く後悔するくせに。

 どうすれば生きやすくなるのか。そればかりを考えているものの、考えただけでどうにかなるなら既に幸せになっているに決まっている。
 何か行動を起こさなければならないのは知っている。それは当然のことだ。
 情けない話、自分はその気力が無いからこうして堕落し続ける選択肢を取っているのだが。
 幸せになりたいと言うだけならば誰だってできる。ああ、そうだな、幸せになりたいな。
 自分はそんな戯言を言いながら、人生の時間を浪費していくのだろうな。

 実に無惨極まりない。

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