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先人の知恵に学ぶ、学びのメタスキル

※ ヘッダ画像はDALL·Eによって生成

ソフトウェアエンジニア、エンジニアリングマネージャー(馴染みのない人に平たく言い換えると開発組織のマネージャー)を生業としてます。
仕事上、人の成長や学びの場面に立ち会うことがたくさんありました。また、LLMなどの技術発展をきっかけとし長期休暇をとり転職をしたので、その間に熟成させた考えについてまとめてみようと思いたちました。

知的生産活動も機械によって補われていくのなら、人間はどうするのか?

あなたは、AIの発展によって社会がどのように変化していくと思いますか?自分自身の役割について、どのようなビジョンを持っていますか?

科学技術の発展により、社会に破壊的な変革が訪れると言われています。AIが肉体的労働だけでなく知的生産活動も何でもかんでも担うようになった先には、人々は何をすれば良いのでしょうか?ただ毎日を食べて寝て過ごせば良いのでしょうか?
新たな変化に対応するために、AIを使いこなすことが重要だという意見もありますが、今起きているものに限らず変革のペースはさらに加速していくでしょう。そんな中で、私たちは目の前のものに飛びつく前に、自分自身と向き合い、主体的に学びを追及する方法を考えてみませんか?

偉大な先人の教えから人の根源に迫る

子曰く、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。

論語 雍也第六より

論語にこんな一節があります。現代日本語に訳すとこんなところでしょうか。
「孔子は言われました。それを知っている者は、それを好きな者には及ばない。それを好きな者は、それを楽しむ者には及ばない。」
この言葉は、現代社会においても示唆に富んでいます。単に知識を持つだけでなく、好きなことに没頭し、楽しみながら学ぶことの大切さを説いているのです。

わたしは、(中略)人間のあらゆる不幸はたった一つのことから来ているという事実を発見してしまった。人は部屋の中にじっとしたままではいられないということだ。もし、生きるための十分な資産を持っている人が自分の家に喜んでとどまっていられたなら、その人はわざわざ大航海に出かけたり、要塞攻略に出撃したりすることはなかっただろう。(中略)会話や賭事などの気晴らしに耽るのも、自宅にじっとしていられないからにすぎない。

パスカル - パンセ(断章一三九)より

人間は考える葦であるなどのフレーズで知られるパンセですが、退屈であることの不幸について言及しています。
今に限らず、人類は昔から何をするかということに悩み続け、やっぱりこうだよねというのを考え抜いてきたわけです。

私自身、ソフトウェアエンジニアとして、科学的アプローチに一辺倒になるだけでなく、最近は思想家の考えも取り入れるようになりました。長い時の試練を経て伝わる教えには、多くの人々の共感と英知が詰まっているのです。

「遊び」と「学び」にヒントがあるかもしれない

さて、好きなことを楽しむために、私が大事だと考えているのは「遊び」と「学び」です。ここでいう「遊び」とは、特定の目標に向けて自由にトライアンドエラーを繰り返したり、可能性を探るために自由奔放に活動したりすることを指します。一方、「学び」とは、特定のペーパーテストで特定知識の再現性を測るようなものに限らず、観察や干渉を通じて環境を理解することおいています。
子供の遊びの中にも、大人の趣味の中にも、学びの要素が含まれているのです。例えば、子供がブロックで遊ぶ際には、創造性や空間認識能力が育まれています。また、大人が楽器を演奏する趣味を持つ場合、音楽理論の理解や技術の向上といった学びが含まれています。こう捉えてみると遊びと学びは大部分が重なってきます。私が普段やっているようなソフトウェア開発の最中でも、構図としては大きな違いはないと感じています。
人類の文化を築いてきた遊びの真髄を捉えながら、学ぶこと自体を楽しむことはそもそも素晴らしいことだと思うのです。

神経科学の観点からも、楽しみながら学ぶことが効果的であることが示唆されています。例えば、ドーパミンなどの神経伝達物質が、楽しみながら行う学習によって増加し、記憶の定着を助けることが知られています。

私自身、マネージャーとして働く期間も長かったのですが、遊ぶことと学ぶことの根源的要素を満たしていた状況にあった人は、驚くくらい変化を遂げ成長し、活躍していました。

それらの要素について丁寧に話していくと長くなりそうなのですが、自分の経験に基づいたエッセンスは以下の3つです。

  • 自分へのフィードバックをうまくもらえるような状況を作れること

  • 自分の置かれている状況を客観的に捉え、都度価値観を新たにしながら身軽に動けること

  • 自分のやること・任せることを自主的に選択していけること

とはいえ、無策に自分の思うがままやれば良いのか

しかし、自分の向き合う対象を楽しむ中でも、落とし穴に遭遇することがあります。特に、多くの人と協働したり、環境が変化したりする中で、自分の認知バイアスと向き合う必要があります。私たちは、自分のそれまでの経験に基づいて環境を構築していき最適化を図るため、どうしてもバイアスがかかってしまうのです。
例えば、職場でのプロジェクトにおいて、自分の専門分野に関連する部分には積極的に取り組む一方で、他の分野については関心が薄くなってしまうといったことがあるかもしれません。また、日常生活での意思決定においても、自分の好みに合う情報ばかりを集めてしまい、偏った判断をしてしまうことがあるでしょう。

これに対処するには、メタ認知の能力を磨くことが肝要だと考えています。ファクトを重視し、感情をコントロールし、科学的手法を取り入れ、客観的な視点を持つと言ったことがこの実践的なアプローチだと言えるでしょう。

日々全身全霊を尽くしながらも、ふと自分自身を見つめてみるのはどうですか?

色々と書きましたが、私が言いたいのは「目の前にあることに眼を開いて、全力で楽しみながら取り組んでみてください」ということです。そして、時には立ち止まって、自分自身の学びと成長について振り返ってみるのも大切だと思います。
今回の記事を踏まえて、あなた自身の学びと成長について、具体的にどのような一歩を踏み出してみたいと考えましたか?

この記事を読んで、理論の飛躍や弱点を感じた方もいるかもしれません。もしそうでしたら、意見を寄せてもらえると嬉しいです。自分の考えの至らない部分に気づくことができます。

古くからの思想家の教え、遊びと学び、認知バイアスについて、より噛み砕いた形で説明し、一貫したメッセージを伝えられるよう、続記事を書いていきたいと思っています。ぜひご期待ください。


おまけ

この記事について関係が深い、私が読んだことのある本を並べてみました。
この本の主張は古いぞとか、これを読んだ方が良いといったアドバイスがあればぜひお寄せください!!!


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