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二つの「神っぽいな」の間で

 ピノキオピーの「神っぽいな」について書く。僕は登録者の面でもボカロに対する方法論という面でも、DECO*27とピノキオピーは最強だと考えているので、ここではピノキオピーが何を目指して初音ミクに歌わせているのか、そしてその上での「神っぽいな」の達成についてしっかり考えてみたいと思う。Adoの「神っぽいな」coverについても触れたい。とはいえ正直、この射程の広い傑作にどのような形で分析を加えれば絡め取られることなく「批評」として成り立つのか、心許ない。

 ピノキオピーは2009年からニコニコ動画でボーカロイド楽曲を発表し続けており、活動中のボカロPの中ではかなり古参に属する存在である。(1)
 だから2021年9月に発表された「神っぽいな」は、彼の遍歴の上ではかなり新しい部類に入る作品だ。この楽曲は各配信サービスでピノキオピー最大の伸びを見せ、2023年9月現在でyoutubeでは6200万回、ニコニコ動画では680万回再生されている。さらに、楽曲カバー、ダンス動画や MAD 動画など、「神っぽいな」の二次創作動画がニコニコ動画、youtube 上で 多数投稿され、ネット上に大きな波紋を広げていった。
 僕も「神っぽいな」はピノキオピーの最高傑作だと考えている。彼の持つ二つの作家性がこれ以上ないほどはっきりし、さらにそれを2020年代のネットシーンを背景に再起動することに成功した曲であるからだ。
 ではそのピノキオピーの作家性は何かというと、一つは「批判精神」が上げられる。「神っぽいな」が分かりやすいセンセーションを巻き起こしたのはそのためだ。
 誰が聴いても分かるだろうが、「神っぽいな」はネット民への批判として成立している。既にコメント欄などで多くの歌詞考察がなされているので二番煎じは避けるが、ネット上で自分を知的な人間に見せようとする者や、流行に乗るだけの軽薄な人間が、初音ミク歌唱のシスターと思しき人物によって嘲笑されるという構成がとられている。
 ピノキオピーの批判対象は、常に「世間」だ。「頓珍漢の宴」「すきなことだけでいいです」「ラヴィット」、「神っぽいな」以降なら「魔法少女とチョコレゐト」「匿名M」など、多くの楽曲に「社会批判」のモチーフを読み取ることができる。
 この一つ目の特性については、わざわざ大仰に言語化せずとも多くの視聴者が実感として感じられるだろう。しかし、批判精神というだけならピノキオピー以外にも多くのボカロPが持ち合わせている特性だし、「世間が悪い」というありていの図式を採用している楽曲もいくらでもある。
 ピノキオピーの唯一無二性を決定づけるのは、その二つ目の作家性ー「客観性」に他ならない。
 これも多くの人が感じられるだろうが、ピノキオピーの曲には「感情移入」というものが存在しない。作者はあくまで社会にうまく溶け込めない人間を淡々と描くだけで、そこにはいかなる共感も正当化もない。例えば「アルティメットセンパイ」は三人称的な視点から社会不適合者が描かれるし、「すろぉもぉしょん」も社会人への応援歌な意味合いこそ持ってはいるが、そのメッセージは肯定ではなく単なる楽観によって成り立っている。
 最もわかりやすく客観性が示されているのは「頓珍漢の宴」だろう。この曲は評論家の宇野常寛が繰り返し批判するような「飲み会的ノリ」をテーマにした作品だが、テーブルでの宴会が上から見下ろされる形で進行するMVが象徴するように、飲み会の参加者の駆け引きや腹の探り合いが客観的に歌に乗せられていく。他のクリエイターがこのテーマに挑んだなら、飲み会に参加した一人の視点から宴会の様子が批判的に描かれていく、という内容のMVと歌詞になったはずだ。そうはせず、肯定も否定もなしにただ客観的に描くだけ、という姿勢は、ピノキオピーという文学者の大きな中核を成している。
 さらに彼は、歌を歌う主人公を共感できる存在として設定することがあまりない。かと言ってもちろん、純度100の悪人として描かれるわけでもなく、共感するかしないかという単純な二分法では分類できない人間が登場する。
 「神っぽいな」前夜、2021年6月に発表された「ノンブレス・オブリージュ」で考えてみよう。この曲は一言で述べれば「社会の息苦しさを嘆く曲」だが、作者はその嘆く主人公を可哀想な被害者に押し込むことをしていない。「正当防衛と言ってチェーンソーを振り回すまともな人たちが怖いよ」 とネット上の誹謗中傷を批判する一方、「ぼくらは 直接 直接 直接 直接 手を下さないまま 想像力を奪う液晶越しに 息の根を止めて安心する」という歌詞(それに加えて主人公がスマホを操作している様子が映し出されるMV)で、主人公も同じく誹謗中傷を行っているらしいことが示唆されている。
 ここで提示されているのは、誰もが加害者、当事者になり得るという、個々の人間の乱立によって成立する社会像だ。歌を歌っている存在=絶対的な視点ではなく、誰が正義で誰が悪、という二分法では解決することのできない世界を露悪的に突きつけるのが「ノンブレス・オブリージュ」なのだ。
 「神っぽいな」は、この「ノンブレス・オブリージュ」の図式を現代のネット社会に落とし込み、洗練させたものと考えればよい。
 先ほども述べたように、「神っぽいな」の歌詞はネット民への批判であり、嘲笑だ。そこには特別な含意とかメタファーとかいったものはない。だから直接的な歌詞に惑わされ、この曲は単なる批判だと理解したふりになって思考停止している人間も多いだろう。しかしピノキオピーは、この曲にもう一段巧妙な仕掛けを施している。
 「神っぽいな」は、決してネット民を批判し嘲っている主人公を肯定する作品ではない。言葉で武装してネット民を見下している主人公は、明らかに批判対象と同等の存在に成り下がっている。実際、主人公の批判に痛快さを感じられず、共感できなかったリスナーは一定数いるのではないだろうか(少なくとも僕はそうだった)。
 ピノキオピーはこの脱臼を意図的に行っている。つまり彼は、主人公の批判への無邪気な共感や、反発によって開き直る反応では解決できない問題を提示しようとしているのだ。
 分かりやすく言おう。「神っぽいな」を聴いたリスナーがその批判に耳を傾けて自らの行いを直そうとするのは根本的な解決にはならない。なぜなら、「神っぽいな」もまた、一ネット民の批判「もどき」の垂れ流しに過ぎないからだ。しかし、現実には「神っぽいな」を聴き、そこから誰でも分かる表面的な批判性のみを読み取ってうっとりしている(あるいは「この曲が流行ること自体が皮肉」とよく考えもしないで何かを語り得たと思っている)浅薄な人間が大量発生している。おそらくはボカロという人外が歌っていることも、主人公が絶対的に正しい批判者であるというこの短絡的な理解を助長しているだろう。これこそがピノキオピーの狙ったことだ。
 「神っぽいな」の批判対象がネット民の民度の低さであることは間違いない。しかしそれは単に漠然とした不特定多数のネット民ではなく、それよりもむしろ絶対的な正しさを擁する人間が誰一人としていない殺伐としたネット社会と、そんなネットで分かりやすい批判性に飛びついて思考停止する人間(=この曲のリスナー)に他ならない。そしてそれを曲を聴いた視聴者の反応まで込みにして完結させた恐ろしいメタフィクションが、この「神っぽいな」なのである。そのためにはピノキオピーの武器である客観性と「共感」への懐疑性とが必要不可欠であり、だからこそ「神っぽいな」は彼のクリエイターとしての長所のすべてが詰め込まれた、非常に優れた作品と言えるだろう。

 2022年にAdoがカバーした「神っぽいな 歌いました」は、この周到なメタ構造の皮をいくらか剥いだ作品として読解できる。
 これは、2022年のゴールデンウィークにTwitter(X)上で募集された「Adoに歌ってほしい曲」に基づき、椎名林檎の「罪と罰」のカバーと同時発表された作品だ。Adoの数ある「歌ってみた」の中でも高い人気を誇っており、2023年10月現在でyoutube上で3000万回以上再生されている。
 このカバーは、Adoの最大の武器である声の棲み分けが最大限に引き出された作品である。最初に聴いた人間は、彼女の声の変幻自在さにまず驚愕するはずだ。可愛げな声、がなり声、嘲笑、 赤ちゃん声、地声まで、ありとあらゆる声質を使い分けている。この変わり具合が「玉座で豹変する小物たち」という歌詞を端的に体現していることは言うまでもない。
 だが、「神っぽいな」においてAdoの声が生み出している本当の怪物性は別のところにある。
 僕は先ほど、「神っぽいな」をボカロが歌うことで、「主人公が絶対的に正しい超越者」であるという知的ぶりたいリスナーの誤解が促進されると述べた。従って、歌い手が肉声でこれを歌うことで、このギミックは失効してしまう。だが逆に、主人公の批判が説得力を失い、その滑稽さや欺瞞が明らかになる、というボカロではなし得ないトリックが新たに可能になるのだ。
 数ある「神っぽいな」のカバーの中で、Adoはこの肉声ならではのトリックに最も成功していると言える。例えば、一番サビ後の「メタ思考する本質は悪意?」から始まる高速ゾーンの嘲り声とか、その後の「ちっちゃいね ちっちゃいね 器ちっちゃいね ちっちゃいね」辺りの猫撫で声とかは、明らかに誰かを高みから見下して気持ちよくなっているリスナーを比喩したものだ。「神っぽいな」の批判性に無邪気に同調するネット民は、果たしてAdoが演出する、このあからさまに悪意を剥き出しにした主人公に共感できるだろうか。
 Adoの「神っぽいな」が告発しているのは、言ってみれば歌詞で主人公がネット民に投げつける批判が、実はX(Twitter)とかyoutubeのコメント欄とかで毎日繰り広げられている不毛な罵倒合戦と同レベルである、という事実だ。ピノキオピーがその部分をあえて隠蔽し、リスナーたちが歌詞の批判に浅薄に同調するのを意地悪に静観していたのに対し、Adoは主人公の独善性を積極的に前面に押し出してその欺瞞を曝け出しているのだ。
 とはいえ、Adoがこのような効果をどれだけ自覚して歌っていたのかは疑問だが、少なくとも「神っぽいな」の本質をある程度理解したうえでカバーしたことは確かだろう。彼女は ピノキオピーとの対談(1)において、「神っぽいな」の「ぽいな」に着目して、「「ぽく」歌う」 という独自の方法論を打ち立てた、と語っている。 Ado は主人公が決して「神」ではなく「神っぽい」存在であることを、すなわち「神っぽいな」が主人公の批判者が神に見えてしまう現実こそをテーマにした作品であることを知っていたのだ。

 ここまで二つの「神っぽいな」を分析してきた。ピノキオピーはボカロという表現手段で、消費者が批判者を無条件に信頼してしまうトリックを仕掛け、Adoは、自らの多彩な肉声を生かして、共感できない人間臭い批判者を演出することで本家のトリックを暴いている。
 この二つの「神っぽいな」の達成が伝えることは何か。当然だが僕たちはネット上で踏ん反り返ったり神輿を担いだりするような軽薄な人間になるべきではないし、かと言って政治的には「正しい」ことを言っているピノキオピーの歌詞を無条件で信じてコミットするのは、「美味しんぼ」に書いてある知識を一つも疑わずに信じ込むのと同じくらいには愚かな行為だ。もちろん、開き直って逆張りに徹することも本質的な解決をもたらすことはない。
 これらの地雷を一つも踏むことなく生きていくのはなかなかに困難なことだろう。しかし何かに過剰にコミットしない生き方を模索していくのが「神っぽいな」の残した課題だし、僕たちがこれからしていくべきことだ。そして、この課題に真摯に挑戦する創作物について、これからも共感でも逆張りでもなく考え抜いてみたいと僕は考えている。

(1) 【Ado × ピノキオピー対談】スペシャルムービー - YouTube


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